そんなつもりではないのだろうけど、
その日、どういう訳か、護衛役の武官白起は彼女の前に一度たりとも姿を見せなかった。
朝目覚めると同時にどこからともなく現れ、夜眠りにつくまで剣を片手に房室の外で控えている彼が、今日はいないのだ――。厳重な監視の眼がなくなり久々に自由を満喫出来ると純粋に嬉しく感じる一方、時折ふと漠然とした不安のようなものが顔を覗かせる。
普段から言葉数が少なく寡黙な性質である白起との会話は、王宮からの脱走を阻まれ懇々と諫められるという類のもの――要するに小言や説教ばかりで、正直あまり好ましくもなく気分のよいものでもない。
だが、いつも空気のように四六時中傍らに付き従っていたせいか、急にいなくなるとそれはそれでしっくりせず、落ち着かない。
彼以外の見知らぬ武官が現在自分の護衛役を勤めているのだと思うと、妙な違和感すら覚える程だ。
「…ハッキは?」
「さあ…、存じません。幽姫さまの警護に当たられる武官さまの配置や異動については、わたくしどもの管轄外ですので」
定時通り給仕に訪れた女官らに思い切って訊ねてみるも、そっけなく返されるばかりで、それらしい情報は一向に得られない。
そもそも、宦官を除き、持ち主以外の男が足を踏み入れることなど本来在り得ない筈の後宮に一妃の護衛として禁軍の武官が置かれるなど、前例のない前代未聞の事態である。
それでもその非常識な超法規的措置が認可されたのは、申生公子の後宮に未だひとりの妾妃も存在していなかったこと、同じ王宮の敷地内に在りながら公子の後宮が彼の兄・献公の後宮から遠く隔たっていたこと、そして何より公子自身が強く望んだが故であった。
整然と居並ぶ文武百官の面前で公子が兄王に頭を下げてまで護衛官の配置を懇願した理由は、彼女が素性の知れぬ他国人であることを秘匿する為であり、同時に公子の彼女に対する並々ならぬ寵愛の深さの表れでもあった。
しかし、自分が既に公子の妃とされ彼の後宮に置かれていることを知らず、後宮に置かれた自分に護衛として男の武官が付けられていることの異常ささえも一切認知していない彼女は、ただただ白起の不在の原因が気になった。
結果、日課である王宮脱走はおろか、房室の外に出る気すら起きず、こうして菱形の大きな窓から木枠越しにぼんやりと中庭を眺めつつ、大人しく寝室に留まっている。
『何かあったのかなぁ…』
表情に乏しいながらも陶製の人形のように端整な顔立ちをした長身の護衛官に何事かあったのではと案じ、彼女は心配そうに顔を曇らせながら母語でぽつりと呟いた。
夕刻。
食事もそこそこに、彼女は新たに整えられた柔らかな寝台に潜り込んだ。
「公子さまは、今宵はこちらにお見えにはなれないとのことです」
女官らによって手際よく片付けられてゆく膳の音に紛れて、そう報告される。
――コーシは来ない。
彼女は蒲団の中でほっと安堵の息を吐いた。
『コーシ』こと申生公子は、手酷い銃傷を負った状態でこの世界に迷い込み、生死の境を彷徨っていた彼女を庇護してくれた大恩ある人物である。しかし、夜毎房室を訪ねて来ては寝台の上に押し倒し行為を強要してくるので、はっきり言って嫌いだ。
「お召し替えを致します」
「じ、自分でする」
先日のように有無を言わさず着衣を剥ぎ取られ、着せ替え人形のように扱われるのは御免だ。
腰の帯に手を掛けられる前に慌てて蒲団を撥ね上げ、簡素な仕立てながら正絹で編まれた夜着に腕を通す。
彼女が脱ぎ捨てた衣装を綺麗にたたみ、女官は下がって行った。
ひとりきりになり、手持ち無沙汰となった彼女は、被っていた蒲団から顔だけ覗かせ、等間隔に部屋の壁に掛けられた燭台の火を何気なく見つめた。
ゆらゆらと静かに揺れる紅い炎は、人間に不思議な安らぎと眠気を与える。
その例に漏れず、彼女は次第にまどろんだ眼でうつらうつらと船を漕ぎ始め、いつしか完全に瞼を閉じて小さく寝息を立てていた。
深夜、いつ頃とも判らない時分。微かな空気の振動を感じ取り、彼女は眼を開いた。
『…だれ?』
ぽつりと零し、ぼやけた視界をはっきりさせようと眼を擦る。
やがて見えてきたのは、油が尽きかけ火の小さくなった燈に照らされた、彼女がこの一日の間ずっと気に掛けていた青年武官の白皙の面だった。
「…ハッキ!」
途端に寝台から起き上がり、沓も履かずに小走りで駆け寄る。
白起は振り返った態勢のまま一瞬動揺したように瞠目し、凛々しい眼元をほんの僅かに染めた。
「よくお寝みのようでしたのでお起こしするに忍びなく、灯りだけ消して失礼しようかと…。断りなく寝室にまで足を踏み入れてしまい、申し訳ありません」
護衛とはいえ、男の身で王弟の妃の房室――それも寝所にまで入ることは絶対に許されない。
真偽の程がどうあれ、弁解の余地なく王室への叛意ありと判断されて大逆罪に問われ、間違いなく厳罰に処される。最悪の場合、命を奪われ梟首【⋆1】さえされるというのに。
ここにきて漸くそれを思い出した白起は、らしくもなく軽々に行動してしまった自身に驚き、また恥じた。ただ、薄い夜着一枚を纏っただけの無防備な彼女の姿を前にして、疚しい思いが全くなかったとも言い切れないことに気付き、愕然とする。
そんな白起の心情など露程も知らず、妙に歯切れが悪く、常ならざる挙動を呈する彼を訝しげに見上げつつ、彼女は幼子のように唇をへの字に曲げる。
「今日、どうしていなかった?」
「…は」
「だから! 朝からずっといなかった。どうして?」
禁軍の象徴である白鷹が刺繍された官服の袖を掴んで詰め寄ると、白起は眼に見えて狼狽した。不自然に視線を逸らし、さり気なく彼女の手をほどく。
「…狄【⋆2】の方面にて不審な策動ありとの情報が入り、視察に行っておりました」
今でこそ彼女の護衛が主務となっている白起であるが、元々は近衛きっての武官であり戦時には軍の指揮統率になくてはならない筆頭将軍でもある。
平時における狄方面の守備監視は、彼が長として預かっている部隊の任務のひとつであった。
「じゃあ、病気になった、怪我をした、とは、違う?」
「はい」
「そう…よかった」
彼女は安堵に表情を和らげ、ほっと微笑んだ。暗がりでも判る程、その笑みは愛らしい。
「ッ」
白起の心の臓が一際大きく拍動した。意識せずとも眼が吸い寄せられ、離せない。
頭では一刻も早く立ち去らなければと思うのだが、縫い付けられたように足が動かない。
彼は眼前に佇む小柄な躰を己が懐中に抱き寄せたいという衝動を必死に堪え、ややあってカラカラに渇いた喉の奥から何とか声を絞り出した。
「……わたしのことを、案じておられたのですか?」
震え掠れた情けない声音であったが、そう言うだけで精一杯だった。
「ん」
屈託なくこくりと頷き、彼女はふと考え込むように若干面を伏せた。
目線が外されたことで一時葛藤から解放された白起は、これ以上の長居は身の破滅だと己に幾度も言い聞かせ、止まっていた手を急ぎ動かし消灯の作業を進める。
この灯火を消せば終わりだというところで彼女が顔を上げ、口を開いた。
「ハッキは、いつもそばにいる、が、当たり前。だから、いないと変。淋し…い?」
たどたどしく言葉を繋げ、最後の部分で眉を顰めながら尚も思案顔で頸を傾げる。
それは、自分の心境に合致する単語をなかなか探し出せず、悩んでいるが故の無意識の仕草であった。
――が、彼女への恋慕と劣情に眼が眩んでいた今の白起には、そうとは映らなかった。
罪のない殺し文句に、許容範囲を超えての涙ぐましい鋼の忍耐も最早ここまでであった。
「幽姫、さま、それは」
一体どういう意味ですか――と続く筈だった言葉は、直後に白起自身がとった行動によって、遂にみなまで発されることはなかった。
「や……ハ…キ…、く、るし…」
背を弓状に撓らせ、彼女はいきなりきつく抱き締めてきた白起の腕の中で苦悶の表情を浮かべる。
宙に浮いた両足を懸命にばたつかせるも、拘束は微塵も緩まない。
「淋しいと…、わたしが傍にいないのは淋しいと…本当に、そう、言われたのですか?」
一語一語噛み砕くように問われ、耳朶に吹き掛けられる熱い吐息に身震いする。
――な、何だ、今の。背筋がゾワッとした。
とにかく解放して貰わなければ。このままでは押し潰されてしまう。
「ほ、んと、だから…ッ、は、放すッ、はやくッ! いーたーいー!」
正面に回した両手で広い胸や肩をバンバン叩く。
白起は憑き物が落ちたようにはっと我に返った。
「――申し訳ありません!」
常時の落ち着いた口吻からは考えられない程の大声で謝り、急ぎ彼女の躰を下ろす。
背を前屈みに丸めた状態で呼気を整えると、彼女は下から覗き込む恰好で白起を睨んだ。
「ばかハッキ! いきなり何するッ」
「…お許し下さい、つい」
「もうッ! 突然ギュー、だめ! 傷、もっと悪くなる!」
頬を上気させて喚き気味に責めながら、未だ銃弾の残る左肩を押さえる。
白起はというと、黙って彼女の譴責を受け止め、沈痛な面持ちで深く項垂れたままだ。
あからさまな反省の色に自然と勢いを失くし、彼女は小さく息を吐き出した。
責めるように固く握り締められた白起の右手をひょいと手に取り、両の掌で包むように撫でる。
「お仕事ご苦労さまでしたハッキ。いつも護衛、ありがとう」
眼を見開き、呼吸を止めて硬直する白起を真っ直ぐに見つめ、又も無邪気に微笑む。
瞬間、白起は強烈な眩暈に襲われた。
彼女は己の理性を試しているのか――?
無論、どこまでも邪気のない純粋な双眸を見れば、そのようなつもりのないことは誰の眼にも明白だったが、未だ完全に鎮火されずに燻っていた彼の熱情の火種を再燃させるには充分だった。
「――殿下、お許しを」
一言短く詫びた後、彼女の腋と膝裏に腕を差し入れて抱き上げ、寝台に運ぶ。
まるで壊れ物でも扱うように丁寧に横たえると、白起はきょとりとした様子で自身を見上げてくる彼女の顔の両側に手を突き、移動に際して生じた微風に煽られ、露わになった額に素早く口付けた。
「最後の火をお消し致します。それではおやすみなさいませ」
何をされたのか認知する暇もなく、傾けていた面を上げて彼女の傍を離れた白起は、消灯を終えると足早に退室してしまった。
『へ…ぅえ、ぇ…? い、今の、一体何だったんだろう…?』
額に唇を押し付けられたような気がするが、気のせいだろうか。
彼女は微かに柔らかな感触の残る額に手を遣りつつ幾度も眼を瞬かせ、暫し思考を巡らせていたものの、忘れていた睡魔が急激に戻ってきた為それ以上は何も考えられず、全身に襲いくる眠気に誘われるがままに瞼を閉じた。
それでも、この真夜中に白起が見せた不可思議な行動に対する疑念が完全に払拭されることはなく、澱の如く記憶の欠片として彼女の脳裏の奥底に残った。
作中用語解説
【⋆1】さらしくび、の意。
【⋆2】北方の異民族を指していう言葉。