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暁の煉獄【本編】  作者: 野津
episode白起
3/11

飛べない鳥

 白起が彼女の護衛役に任命されたのは、彼の祖国と王室に対する忠節の篤さだけでなく、何よりも寡黙であったことに起因していただろう。

 英邁と名高い申生公子は、天から突如として降ってきた奇妙な衣を纏う瀕死の彼女を見るなり忽ち熱烈な恋情を抱き、以来掌中のたまの如く――それこそ昼夜を問わず慈しんだ。

 学問一辺倒だった公子の余りの変貌振りに、誰もが眼を剥いたのは言うまでもない。

 しかし、彼は主君のすぐ下の実弟であり、政務になくてはならない上大夫であった。四六時中、彼女を傍らに置く訳にはいかなかった。

 故に、公子は自国の民ではない愛しい彼女を護る為、腕に確かな覚えがあり、忠義に篤く、そして彼女の存在を不必要に外部に漏らさぬ口の堅い信頼の置ける武官を求めた。

 こうして、公子自ら幾度も吟味した結果、白羽の矢が立てられた人物が白起であった。






 ――陶器人形のような能面の大男。

 それは、彼女が白起を見て最初に抱いた、率直な第一印象だった。

「白起と申します。本日より、幽姫さまの護衛役を務めさせていただくことになりました」

 胸の前で手を組み、両膝を突いて頭を下げる白起に何も答えず、彼女は銃傷に酷く痛む左肩を庇いつつ、彼から最も離れた寝台の隅で小さなからだを更に縮こませた。

 怯えているのか、窺うように時折向けられる黒曜石の双眸と視線が交わる度、全身を一層萎縮させてビクリと肩を撥ね上げ、抱えた膝に顔を埋める。

 恰好こそ変わっているものの、これといって特筆すべき要素のない平凡な容姿。

 無表情な眼差しで観察する白起は、何故公子が彼女にこうまで執着するのか判らなかった。

 重傷を負っているとはいえ、素性怪しい他国人だ。処分してしまう方がよいのに。

「……幽姫さま。何とかお答え下さりませぬか」

 いつまでだんまりを続けるつもりなのか。さすがの白起も多少は苛立つ。

 咎めるように眼を眇めると、彼女はグッと唇を引き結び、泣き出しそうな表情で幾度もくびを振る。

「それがしのような者と交わす声など持たぬと、そう、言われたいのですか」

 白起は、彼女が自分のことを見下しているのかと思い、更に眼力を強める。

 堪らなく不愉快だった。君命とはいえ、何故自分がこのように怪しげな子どもを護衛しなければならないのか。しかも、決して人に懐かぬ手負いの小動物の如く、微塵も警戒を解こうとしない。

 彼女の何もかもが、白起には疎ましく思えてならなかった。


 彼女がこの国の言葉に全くの不慣れであったことを白起が知るのは、この初対面から暫く時間を置いてのちのことだった。






 彼女は笑うということがなかった。無論怒ることもなかったが、いつも怯えたような、帰り道が判らず途方に暮れた子どものような、どこまでも頼りない表情を浮かべていた。

 何より、誰に対しても心を許さず、何者をも信用しようとしなかった。

 それは、彼女に無類の愛情を注ぐ公子も同じであり――彼女は幾度も逃走を図った。

 未だ傷の癒えぬ躰である上に異様な衣服を纏い、言語にも乏しい彼女が、複雑に入り組んだ王宮を誰にも見つからずに突破することなど不可能だった。

 脱走する度、禁中の兵士に引き摺られるように四肢を拘束され、公子の後宮に戻される彼女の姿は、まるで見えない鎖に縛られ、翼を捥がれた小鳥のようであった。






「――幽姫さま!」

 この日も又、散策と称して中庭に出、隙を突いて白壁をじ登り、城外に出ようと試みていた彼女を発見した白起は、声を荒げて駆け寄り、その小柄な躰を無理やり引き摺り下ろした。

 もう幾度目になるか判らぬ邪魔をされ、彼女は幼い面を思い切り歪め、肩までの短い黒髪を振り乱しながら腕を振り上げて喚く。

「おばか! ハッキ、ばかッ! 邪魔する、キライッ! 放すッ」

 片言の幼稚な叫びは、いつしか嗚咽混じりの弱々しいものへと変わる。

 彼女は自身を押さえ込む官服で覆われた白起の逞しい胸に拳を叩き付け、涙を流す。

 白起は何も言わず、彼女の背に固く腕を回したまま、その責めを受け止めた。


 ……彼女は鳥。

 公子の寵愛という鎖に繋がれ、白起の監視という檻に囚われた、哀れな迷い鳥。


 訳の判らぬままに自由を奪われ、誰ひとり自身を知る者のいない世界に放り出された恐怖と心 もとなさは計り知れないが、一体誰がそのことで彼女を気遣っただろうか。

 ――そんな者はいない。

 だからこそ、彼女は誰も信じず、独りぼっちだった。

 そのことが、彼女の憤りと嘆きに益々拍車を掛ける。


「ハッキも、コーシも、みんな、みんな、嫌い! 邪魔ばっかり、どうして!?」

「幽姫さま」

 えっく、ひっく。

 涙とはなみずでぐちゃぐちゃになった紅い顔で不規則にしゃくり上げる彼女を、白起は最早以前のように疎ましく煩わしい存在とはもくせなくなっていた。それどころか、限りなくいじらしく思う。

 ――ただそれが、公子が彼女に抱く感情と同じものに変化しつつあることが恐ろしい。


 間違っても、そのような対象として彼女を見てはいけない。彼女は天とも尊崇する君主の弟の寵姫であり、白起は彼女の身辺を警護する護衛の一将官に過ぎないのだから。

 社稷の臣として、これ以上惹かれてはならないのだ――絶えず脳裏で繰り返される警告にも、白起は現在己の腕の中で躰を震わせて落涙する柔らかな温もりを抱き締めていたいという、渇望にも似た願望に抗えなかった。






 のちに白起はこう回顧する――己が彼女を捕らえたと同時に、己も彼女に囚われたのだと。

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