何だか芯がもやもやする
作者のやや特殊な趣味と嗜好が満載な設定となっています。
閲覧要注意。
未だ銃弾を躰に残したままながら、徐々に肩の銃創が塞がり始めた頃。
いつも番犬の如く傍らに立つ護衛の白起が眼を離した一瞬の隙を突き、彼女は素早く物陰に隠れた後、周囲を警戒しながら小走りに駆け出した。
すぐに白起の大きな声が聞こえてきたが、身を潜めながら疾風の如く移動する彼女を見つけることは出来ない。僅かな隙間に器用に滑り込んだ彼女に気付くことなく、白起は整った眉宇を僅かに歪めながらその前を通り過ぎてしまった。
その後ろ姿を確認し、彼女はほっと息を吐きながらそろりと隙間から外に出た。
――ハッキは生真面目過ぎるから、息が詰まる…。
まだ巧くこの国の言葉を発音出来ない彼女は、白起のことを「ハッキ」と呼んでいる。彼等にはそれが酷く舌足らずに感じられるらしく、尚更子ども扱いされるのだ。
ズキズキと痛み始めた左肩を右手で押さえ、彼女は顔を顰めながら暫し凭れるように柱に額を押し付けた。
だが、漸く白起という厳しい監視の眼から逃れられたのだ、この貴重な機会をふいにしたくはない。
斜めに傾けていた躰を何とか起こし、彼女は着慣れた紺のオーバーコートの襟を引き上げながら、少々覚束ない足取りで庭に降りた。
きっちりと枝葉の剪定された庭木の間を、敷石に沿って歩き進む。
この時には既に傷の痛みは随分と和らぎ、彼女は純粋に庭の景色を愉しんだ。
だが、つい先日まで重い銃傷を負っていた身である。途中で歩き疲れてしまった。
木陰を見つけ、幹を背に片膝を立てた恰好で腰を下ろす。
それから特段何をするでもなく、たださやさやと通り過ぎる風の音に耳を傾け、或いは柔らかな木漏れ日に眼を細めたりする。
それは、とても静かで穏やかな時間だった。
チチ…という鳴き声と共に、鶺鴒や目白といった小鳥が、警戒する様子もなく彼女の近くに集まってくる。彼女は昔から、何故か不思議と動物に好かれる性質の人間だった。
無心に羽虫を突付くその姿に、知らず緩々と頬を綻ばせる。
やがて、一羽が彼女の軍服の裾を嘴でツンツンと引っ張り始めた。それに倣うように、他の小鳥たちも衣服を突付いたり、終いには肩に乗って髪を咥えたりと好き勝手をする。
しかし、彼女は微笑みさえ浮かべて追い払おうともしない。寧ろ、人と共にいるよりも安らいで見える程だ。
そんな安寧に彩られた空間は、突如敷石の道の向こう側から現れた人物によって破られた。
「――ッ!?」
逸早く人の足音を聴き付け、鳥たちが一斉に飛び立つ。
突然の出来事に思わず顔の前に手を翳して固く瞑目した彼女は、次の瞬間何者かに腕を掴まれ、無理やりその場に立たせられた。
「大丈夫か!?」
近距離で響いた怒鳴るような声に眉を顰め、反射的に眼を開く。
そこにあったのは、見知らぬ若い男の顔だった。
折角の癒しの時間をめちゃくちゃにされ、彼女はキッと眦を決して涼やかな面を睨み付けると、男の手を乱雑に振り払った。
驚いたように切れ長の眼を見開く男に向け、憶えたての罵倒を力一杯浴びせる。
「おばかッ!」
「…え?」
余りに幼稚な言葉を出し抜けに叫ばれ、男は面喰らい、硬直する。
彼女は両の拳を握り締め、怒りに震えながら尚も声の限りに喚く。
「ばか、ばかッ! 仲良ししてたのにッ! みんな、行っちゃった! お前、ばかッ!」
長く慣れ親しんだ母語とは全く異なる言語を用いるこの国では、彼女の語学力は五歳児並みに――若しくはそれよりも格段に低く、拙い。
頭の方は立派に大人なのだが、言葉上酷く幼い為、中身までお子さまだと思われている。それを充分に判っているからこそ、余計に腹立たしい。
男は暫し呆気に取られていた様子だったが、不意に面白そうに口の端を攣り上げた。
「――そうか。おまえが、申生公子が入れ込んでいるという幽姫か」
「…う?」
声は聞き取れたが、発言内容は判らない。何やら声に嫌な雰囲気を感じて、妙にもやもやする。
八の字に眉を曲げ、難しい顔で頸を傾げる彼女に、男は軽く拱手してみせる。
「お初にお眼に掛かる、幽姫どの。おれの名は、平。
先程、白起将軍があなたを探している姿を見掛けたが……何故こちらにおられる?」
――ハッキ!
真面目過ぎる護衛役の名を聞くなり、彼女はさあっと顔色を変えた。
言われてみれば、随分時間が経っているような気がする。これ以上逃走を続けるのはさすがに不味いだろう。白起は無言のまま怒るので、とても怖いのだ。
青くなって考え込んでいると、平と名乗った男が徐に顔を傾けてくる。
「おれが、同伴して差し上げましょうか? おれといたことにすれば、将軍もそう怒らない筈だ」
唇が触れそうな程に寄せられた面を見上げつつ、その言葉をゆっくりと反芻してみる。
確かに、誰かが傍にいたのならばひとりで行動したことにはならない。
「どうします?」
再度問われ、彼女はこっくりと頸を縦に肯かせた。
「――幽姫さま!」
姿を見るなり、珍しく声を荒げて駆けて来る白起に、彼女はサッと平の背後に隠れる。
腕にしがみ付き、親の顔色を窺う子どものようにそっと顔を覗かせるその様子に、平はクッと愉しげに喉を鳴らし、白起は意志の強そうな双眸を僅かに細めた。確認するように平に視線を動かす。
「…都尉どのが、今まで傍についておられたのですか」
「そういうことだ。だから、余り叱られるな」
「……承知致しました」
どうやら、脱走の件についてのお咎めは免れたらしい。
ほっと安堵の息を吐くと、彼女は自分が平の袖を握ったままであることに漸く気付き、パッと手を離して一歩後ろに退いた。それでも彼から視線は外さない。
「あの……あり、がと」
ほんの少しだけ微笑む。それだけで、幼く平凡な彼女の面が一気に可憐さを増す。
平は大きく息を呑んでその顔を凝視した後、ニヤリと不敵に笑った。
「礼には及びません。……これで、先程のことは許していただきたい」
「う、え……? ……あ!」
その意味深な囁きに、彼が言わんとしていることを察し、彼女は何度も頷いた。
平は満足げに眼を細め、彼女の腰に腕を回してグッと顔を近付けた。
それはほんの一瞬のことで、避ける暇もなかった。
「いずれ又、お会いする機会があるでしょう。……では」
早口に言い、最後に素早く額に唇を押し付けて、平は颯爽と去って行った。
額を押さえて眼を瞬かせていると、白起が険しい表情で彼女の肩を掴んだ。
「幽姫さま、何故抵抗されなかったのですか!? あ、あのような不埒な振る舞いを黙認なさるとは…」
そこで漸く、呆気に取られてぽかんとした様子の彼女に気付いたのか、白起はらしくもなく焦り、取り乱してしまった己を恥じるように視線を逸らしながら手を離した。
「…申し訳ありません。ですが、幽姫さま、これだけはしかとご記憶下さい。
あの方――都尉陳平どのは、王宮でも名の知れた色好みの士。気を許してはなりません」
「……う、げッ」
――女好き。それならば、先程の妙に手馴れた馴れ馴れしい態度や動作も得心がいく。
彼女の中で、平に対する好感度は地の底まで急降下した。艶福家だった父のせいで、母子共々幾度も涙を呑んできた彼女は、そういった類の男が大嫌いだった。
「うん、判った。もう、平、会わない」
力強く宣言する彼女に、白起は漸く愁眉を開き、眸に柔らかな光を宿した。
「はい。是非、そうなさって下さい」
だが、しかし。その誓いは翌日、虚しく散った。
「う、う、え、な、何で、平、ここ、いる?」
「本日より、幽姫どのの世話役となりました。改めて宜しくお願い申し上げる」
「い、嫌だーーーッ!!」
広い王宮に、彼女の叫び声と平の笑い声が重なって響いた。