差し出されたその手には一片の打算もなく・下
「奚斉ッ!!」
優美な衣装を纏った妙齢の美女が、必死の形相で少年を固く抱き締める。
――これより遅れること数拍。
「驪姫さま、お待ち下さいませ!」
と、口々に言いながら、侍女と思しき女人数名が後方より駆けてくる。
驪姫、というのが、この美女の名なのだろう。
突然の事態に全く反応出来ず、茫然と事の成り行きを見守る他ない彼女を紺の眼でキッと睨み付け、美女――驪姫は鈴を転がすような美しい声音を誰何に荒げる。
「――そなたは誰ぞ? 知らぬ顔だが…、何故この子とこのようなところにいた? …よもや、この国の一の公子と知ってかどわかそうと謀ったのではあるまいな!?」
完全に誤解されている。
猜疑と警戒も露わに今にも掴み掛からんばかりの鋭い語気で怒鳴られ、彼女は後 退りながら弱り切った表情でふるふると頸を振る。
事情を説明し、弁明しようにも、未だにこの世界の言語理解に乏しい為、咄嗟にはうまく表現出来ない。
まるで言葉を知らぬ子どものように幼稚な仕草を繰り返すばかりの彼女に、業を煮やした驪姫が声高に衛兵を呼ぼうとした瞬間、切れ切れの呼び掛けがそれを押し止めた。
「…ぁ、は、母上…」
「…!? け、奚斉、あなた、声が…! 話せるようになったの!?」
「……へ?」
一転、花の美貌に驚愕と歓喜を浮かべた驪姫を前に、彼女はぽかんと眼を見開いた。
まさか、この少年はこれまでに一度も喋ったことがなかったのだろうか?
つい先刻まで左程の支障なく会話していたことを考えれば、それこそ驚きだ。
信じられない思いで、今一度まじまじと奚斉と呼ばれた少年を見つめる。
眼が合うなり、少年は少しばかりはにかむように整った顔を顰め、母の懐中から抜け出した。
彼女の傍に早足で駆け寄り、正面から躰いっぱいに抱き付く。
「わわッ」
受け入れ態勢が出来ていなかった彼女は見事に均衡を崩し、そのまま尻餅をついた。
途中で咄嗟に手を突いた為、幸い背や頭を打つことはなかったが、体重が一極集中した臀部は結構痛い。
対する驪姫は、想定外の我が子の行動に仰天し、愕然と眼を剥く。
「奚斉、何をしているの! 他国の間諜かもしれぬのです、その者から離れなさい!」
「ぃ、や、です。母上、この者、は、間諜など、では、ありま、せん」
「な…ッ、眼を覚ましなさい、奚斉!
…そなた、純真無垢なこの子の心につけ入り、誑かしたのか!?」
誑かす、という単語が発された瞬間、少年はほんのりと眼元を染めて口を閉ざし、殊更に密着してくる。
途端に、激しい怒りを宿す驪姫の双眸が一気に攣り上がる。
「この女狐め……、奚斉に何をしたッ!!」
誤解が解けるどころか、益々悪い方向に勘違いされてしまったようだ。
一方的に追い詰められ、いよいよ彼女は頭を抱えたくなった。
それでも尚、言語の拙さ故に何も言えず、知らず眼の縁がじわりと熱くなる。
弁解ひとつ満足に出来ない己が甚だ情けなく、又恥ずかしくてならない。
ただ、この少年に林檎を分けて、一緒に食べただけなのに……その行為は、こうまで責められなければならない大罪だったのか? ――もう、何が何なのか判らない。
パニックを起こしかけた時、聞き慣れた声が耳に飛び込んできた。
「――幽姫さま!!」
「…ぁ…」
遠目にもすぐ判る、鍛えられた長身。
高位の武官を示す青い袍。
躁狂寸前の大混乱と切羽詰った状況を経た果てに視界にとらえた護衛官の姿に深く安堵すると共に、くしゃりと顔を歪め、堰が切れたように落涙する。
この場に在る全ての者の注目を集めながらも、脇目も振らず己に向かって一直線に駆けて来る白起に、彼女は精一杯両腕を伸ばし、傍らに膝を突いた彼にしっかとしがみ付いた。
――その後すぐ、白起を介して一連の経緯について説明を受けた驪姫は見る間に顔色を変え、最終的に顔を赤らめて恥じ入るように自らの勘違いと非礼を詫びたのであった。
後日。
彼女の房室では、少年――奚斉を連れた驪姫が、彼女に向かって改めて深々と頭を下げていた。
「誠に申し訳ありませんでした。わたくし、とんだ思い違いを……しかも、あんなに頭ごなしに強く叱り付けてしまって……。どうかお許しあそばして、幽姫さま」
「い、いえ…」
当たり障りのないよう答えつつも、先日の剣幕を思い返すとつい萎縮してしまう。
時折ちらちらと顔を覗かせはするものの、世話役の張良の背に隠れ、それ以上は決して前に出ようとしない。
驪姫は自嘲気味に苦笑し、隣で同じく膝を突く奚斉の頭を撫でた。
「この子の――奚斉の声を取り戻してくださったこと、言葉では言い表せぬ程感謝しております。王殿の御典医ですら匙を投げた程ですのに…本当に、ありがとうございました」
彼女の脳裏に、突如『物言わぬ公子』という語が浮かぶ。
房室の外から漏れ聞こえてくる女官らの噂話の中に、幾度か出てきた名称だ。
確か、申生公子の兄にしてこの国の君主である献公の長子を指してそう言っていたように思うが、成程そういうことだったのか。
「幽、姫……」
「ぇ?」
「これ、奚斉! 幽姫さまを呼び捨てにするなどなりませんよ!」
すかさず驪姫の叱責が飛ぶ。
おずおずと彼女が張良の背から顔を出すと、奚斉がこちらをひたと直視していた。
一度合ってしまった眼を逸らすのは何となくおかしな気がして、曖昧に微笑む。
奚斉は途端に真っ赤に紅潮し、不自然に視線を彷徨わせながら口をもごつかせる。
「ぁ…そ、の…。…また、わたし、と、会って、くれ、る、か…?」
「…奚斉、あなた」
「殿下」
驪姫と張良の声が重なる。
だが、二つの声は奚斉の耳には届かない。彼はただ彼女の返答だけを待っていた。
一見、弟が姉を慕うようにも、はたまた少年にありがちな、歳の離れた女性への憧れから、擬似恋情にも似た仄かな思慕を寄せているだけのようにも思える。
しかし、奚斉の場合はそのどちらにも該当しない。彼は明らかに、真実彼女に心奪われていた。
皮肉なもので、これは、本来ならば大いに良しとされる筈の精神年齢の早熟が齎した、思いもかけない不幸な巡り合わせであると言えた。
いかに加冠前の童子であろうとも、叔父の妃に恋心を抱くなど、あってはならないことだ。
将来、王室の禍根の種ともなりかねない。
これまでの歴史を鑑みれば、たかが恋愛沙汰に大袈裟な、などと一笑には付せられなかった。
故に、奚斉の中で芽生えた彼女への恋慕の情がこれ以上大きくならぬよう、驪姫と張良は共に危惧の声を上げたのだが――。
「うん、いいよ」
奚斉の想いにも、驪姫と張良の懸念にも少しも気付かぬ彼女は、深く考えもせずに頷いた。
「!?」
危機感を抱く二人が揃って青くなる中、奚斉は上気した頬を綻ばせ、心底嬉しそうに笑った。