第五話 憑依
そこに女の子がいた。
夜中、ノートに向かってペンを動かしているとすぐ横に、体が透けている女の子が立っていた。
一瞬で悟った。これは幽霊だと。しかも、ぼくと彼女との距離は、三十センチくらいしかない。空気がピンと張り詰めた。
まずい。呪われる。死んでしまう。どうしよう。何か手はないか。えっと、映画ではどうしていたっけ? このままだと――
「助けて……」
隣から、幼げな少女の震え声が聞こえた。ぼくは驚きで、「え?」と発することも出来ない。
「お願い。あたしを救って」
今度は、はっきりとそう聞き取れた。救ってとはどういうことだ? と、とにかく、返事をしないと何されるか分からない。
「ええと……、何かお困りですか?」幽霊のほうを向いた。だが直視はできない。
「あたしを、成仏させてほしいの……」
彼女は、うつむき加減にそう答えた。な、なるほど。こんな状況でよくある手だ。
「心当たりはありませんか? たとえば、この世でやり残したことがあるとか」
だんだん落ち着いてきた。幽霊の声は人間と同じように聞こえてくるし、パッと見ただけでもなかなか童顔でかわいいと分かった。彼女にならちょっと襲われてみたい。
「ごめん。思い出せない……」
今にも泣きそうな顔をしている。幽霊ってこんな表情するんだ。あれ、もしかして生きている女の子よりも魅力あるんじゃないか? ちょっと敬語なしで話してみよう。
「そうか。悪いけど、ぼくじゃ力になれないよ。少し霊感が強いだけで、術とかお札とかを使えるわけじゃないから」
あ。あからさまに否定しちゃまずかったかな。もうちょっと言葉を柔らかくすればよかった。
突然、幽霊がぼくへ大接近してきた。その距離十センチくらい。無臭だ。
ヤバい。本当に呪い殺される。どうしよう。でも、もう逃げられない。
ぼくは、短い人生にさよならして目を閉じた。
「そんなこと言わないで! お願いお兄ちゃん。今まで出会った人は、たいてい逃げ出したりお札を貼ったりして、あたしを近付けなくしてきた。やっとまともに話を聞いてくれる人を見つけたの。助けて。あたしを一人にしないで!」
幽霊は半ベソをかいている。どうやら殺されることはないようだ。
だが、これから面倒なことに巻き込まれそうであるのは、いくらクラス成績最低ランクのぼくでも理解できた。それでも、幽霊であっても泣いている女の子をほうっておくことは出来ない。
「分かったよ。とりあえず、明日のテストが終わってからにしてくれないか。パソコンとゲーム機の没収がかかっているんだ」
「ありがとう! 本当に……ありがとう……」
幽霊はその場に突っ伏し、泣いて喜んでいる。とりあえず、この場はなんとかしのげたようだ。
ぼくは、ノートへと視線を戻した。
次の日の夕方、ぼくは学校から帰った。
『おかえり!』
ぼくは驚きで尻もちをつき、腰が抜けてしまった。な、なぜコンポからあの幽霊の声が……?
『あ、驚かせちゃった? あたし、いろんな機械にとり憑くことができるの。もちろん生き物にもね』
「すごいな……。ということは、ぼくにもとり憑けるってこと? そうしたらぼくは死んじゃう……?」
『あはは。そんなわけないよ。ただ、その人の腕をつかんで連れて行ってもらうだけ。あたし、自分の力だと少ししか移動できないから』
「へえ、幽霊にもいろいろいるってことか」
『そういうこと。……ところで、テストはどうだった?』
うっ。一番聞かれたくないことを。ぼくは立ちあがって、カバンを机に放り投げた。
「パソコンとゲーム機なしで、ぼくはどうやって生きていけばいいんだろう?」
プッと笑われた。あれは、完全にバカにしている声だ。
『やっぱり。きのう、全然勉強しないで寝ちゃったもんね。そうだと思った』
「うるさいなぁ。戦士にも休息は必要だろ」
ぼくは、本棚から写真集をとりだした。思わずニヤける。
「エロ本でも見てるの?」いつの間にか、ぼくのすぐ後ろに浮いていた。
「違うよ! 鉄道さ。これを眺めているだけで幸せなんだ」
「ふーん。あたしなら、あのグループの写真集がほしいな」
思い出すように言ったのは、五年くらい前にはやった男性アイドルグループの名前だった。今はそれほど人気がない。
ぼくはしばらくの間、そうして過ごしていた。幽霊もときどき、興味深そうに見てきた。
数日後、すべてのテストが返却された。家へ帰って来るとすぐに母親に呼び出され、ぼくはこっぴどくしかられた。ぼくにだって、プライバシーがあるのに。どうして成績を親に見られなくてはならないのか。
三十分後には、机の上に妙な空間が出来上がっていた。テレビの下に保管してあったお宝も、その姿を消している。
どうやら、幽霊はぼくが不幸になると、うれしくてたまらないらしい。さっきから腹をかかえっぱなしだ。
「このやろう……。張り倒してやろうか」
「へへーん。どうぞ、殴ってみてくださいよー」
ニヤニヤと顔を近づけてくる。くそっ。ぼくがお札を使えれば!
「プルルル……」
階下で電話が鳴っている。すぐに音が消えた。
数分後、母親にまた呼び出された。
「おじいちゃんがね、今年もいらっしゃいって。明日から夏休みでしょ」
ぼくは毎年、父方のおじいちゃんの家へ農業を手伝いに行っている。その近所に住む女の子と一緒に遊ぶ、という目的もあるけど。
部屋へ戻ると、ぼくはさっそくリュックに下着や服を入れ始めた。
「おじいちゃんの家に行くの?」
「話を聞いてたのか。まあな。お小遣いをくれるから」
すると、幽霊がもじもじし始めた。なんだ、さっきまで威勢がよかったのに。
「あのね。あたしも連れて行って。もしかしたら、そこで何か思いだすかもしれないし……」
ああ、そうか。その手があった。そのままおじいちゃんのところにおいてくればいいのか。
「よし、分かった! おじいちゃんに、女の子も一緒に行くからって言っとくよ」
「……別に言う必要ないよね……? どうせ、あたしは他の人には見えないんだから」
ぼくは、ニヤッと笑い返してやった。
「あ! からかったな!」
呪ってやる! と逃げるぼくを追いかけてきた。
彼女は、なんだかうれしそうだ。
次の日の朝、ぼくはローカル列車の中にいた。特急で行けないこともないが、ゆっくりとあちこちを見て回りたかったからだ。
でも、なぜかぼくよりも浮かれているやつがここに一人。
『楽しみ! どんなところなのかなー。女の子に早く会いたいな。霊感があるといいな』
今彼女は、ぼくのケータイの中に入っている。画面に笑顔がぼんやりと表示される。
「きのう写真を見せてから、ずっとそんな調子か。まあ、気持ちは分かるけど」
ちなみに、これから会いに行く女の子は、今年で五歳になる。
ぼくは、窓の方を見た。外の景色が、あっという間にすっ飛んでいく。
ここから、ぼくたちの旅が始まった。
今回は、短編風に書いてみました。たまには、こんな感じの作品も悪くないと思うのです。