第五話 二日目
この家にいていいと言われ、人心地ついてほっとすると、どっと疲労が襲ってきた。
夕飯を辞退して、フィオナは自室の寝台に腰掛けた。
与えられた2階の一室は、決して広くはないが、机や箪笥、寝台など、必要なものはだいたい揃っていた。そして、そのどれもが、華美ではないが上等な品であることが分かる。
夕飯までの間にユーリとジーク……というか、ほとんどジークが片付けてくれたらしい部屋は整頓されていて、フィオナのために、ウィルが昼に干しておいてくれたという布団は、ふわふわとあたたかく、太陽の匂いがした。
もちろん、全てにおいて最上級の環境を与えられた城での生活とは比ぶべくもないが、それ以上に、ここではフィオナを温かく迎え入れてくれる空気があった。
その空気に包まれるように、ベッドに横になる。
「疲れた……」
ボロボロになった服は、処分するか仕立て直すか考えものらしい。女性ものの服は置いていないので、しばらくは体格が近いリッドのおさがりを借りることになった。
男物の服に袖を通すのは初めての経験で、それ自体が新鮮だった。
(これからどうなるんだろう……)
もう国へは帰れないのだろうか。ロバートがうまくやっていれば、フィオナは『死んだ』ことになっているはずだ。
継母に快く思われていないことは感じていたが、命を狙われるまでの理由は思い浮かばなかった。ロバートは『鏡を処分する』とも言っていたが、それが今回の件とどう関係あるのかも分からない。
ただ、もう城にはいられず、逃げ延びた先で、この家に辿り着いた。その事実だけが、フィオナの中に残る。
一人で逃げている時は不安と迷いしかなかったが、今は少し違った。
ほんの少しの希望と、期待が生まれている。こんな形で城から逃れたというのに、現金なものだが――
「私、もう自由なんだ……」
そう口にすると、急に現実味が帯び、言葉が立体化したような高揚感があった。
塔から出ることも許されないまま、15歳になれば、父親が決めた婚約者のもとに嫁ぐ。それが、フィオナに定められた運命だった。仕方がない、と諦めていた。
それでも、心のどこかで、物語のような幸せな恋に憧れていた。
『本当に愛した人と、静かに暮らすこと』ささやかなようで、絶対に叶わない夢を、フィオナが口に出したことはない。
(でも、これからは、もしかしたら……)
『エルドラドの王女』であるフィオナが死に、他の何者でもないフィオナが生まれたとすれば――
フィオナは『何も描かれていない、真っ白なキャンパスだ』とウィルは言った。
(今はまだ何もできないけど……)
『色んなことを少しずつ学んで、その中で自分が出来るものを見つけていけばいい』と、彼はそう言ってくれた。
(いつか、成長して、自分で生きていけるようになって……)
この家の人たちに、迷惑をかけなくても生きていけるようになれば、自分の足で世界を歩いて、誰かと出会うことも出来るようになるだろうか。
それはフィオナにとって、この上なく未知への挑戦に近いものに感じられた。
それでも、『目標が出来た』と思った。
これからを生きていく目標。
ただ漠然と――諦めと少しの悲哀を抱え、15歳になる日を待っていた今までの自分とは違う。未来をつかみ取るため、自ら行動する自分。
これからのフィオナを思い描き、少女は、深い眠りに落ちた。
◇ ◆ ◇
――朝。
ここはどこだろう、と一瞬思った。見慣れない天井は、城の私室よりも大分低い。
軽い混乱はすぐに記憶のひきだしに落とし込まれ、フィオナは新しい一日を迎えた。
寝台から起き上がり、締め切られたカーテンを開けると、眩い朝日が部屋に差し込んでくる。
朝鳥の声が聞こえた。
「うーん……気持ちがいい」
窓を開けると、森の匂いと春の風が吹き込んできた。同時に、人の話し声が耳に届く。
「おはよー! みんな、今日も元気かー?」
「ラウ?」
見下ろすと、家の横手の庭に設えた花壇に、ジョウロで水をまいているラウの姿があった。
朝日を反射し、明るい金髪がキラキラと輝いている。
(花に話しかけてるのかしら……?)
「ラウ! おはようございます!」
声を張ると、ジョウロを持ったままラウが振り返った。
「よっ。姫サン、元気か?」
「はい! おかげさまで、すっかり元気になりました!」
大きく手を振って爽やかに笑うラウに、手を振り返す。
いつまでも二階と一階で会話をするのも、他の住人の迷惑になりそうなので、フィオナは足早に庭に降りた。
「こんなに朝早くから、精が出ますね」
「ああ、朝ご飯は花にとっても活力の元だからな! いっぱい食って、元気に咲けよーおまえらー」
「やっぱり、お花に話しかけてたんですね」
「え、変かっ?」
笑われると思ったのか、ラウが大げさに身を引いた。フィオナは微笑んで首を振った。
「いいえ、素敵だと思います。きっとお花たちも、声をかけてもらえて嬉しいと思うから」
肯定すると、ラウが相好を崩した。
「だろ? ウィルがさ、言葉が通じなくても、言葉から伝えようとするエネルギーは、どんな生き物にも伝わるから、花も愛情をもって声をかければ応えてくれる……って言うから、俺もなるほど! と思って、こうやって実践してるわけだ」
「ウィルが?」
ジョウロから流れ落ちるシャワーが、朝日を反射して輝く。その様子を目を細めて眺めながら、ラウが爽やかに語る。
「言葉のエネルギーって、あるよな。言葉そのものじゃなくて、そこに乗っけた『伝えよう』っていうエネルギーっていうか……なんか、難しいけど」
「大丈夫、分かります」
フィオナは力強く頷いた。ラウが安心したように笑って、言葉を続ける。
「前はオレ、言葉っていうのは、ルール通りに文字を組み合わせたもので、『とりあえずその通りに話せば通じる』くらいに思ってたんだけど……ちゃんとエネルギー乗せて話さないと、本当の意味は伝わらないって気付いたんだ」
「ウィルに教わったんですね」
ウィルの言葉も素敵だと思うが、その言葉を受け取って、実践するラウの素直さも素敵だ。
フィオナの相づちに、ラウが白い歯を見せて笑った。
「そう! それ聞いて、おーなるほど! って思うと同時に、オレはこれまで、割とうわべの言葉だけで生きてきたんだなー、て反省したわけだ」
ジョウロの中の水が切れてしまったので、ラウが屈んで、傍らに置いていたバケツの中の水を流し込んだ。
その隣にしゃがみ、フィオナはラウの作業をじっと眺めた。
ぱしゃん、と涼やかな水音がする。
ジョウロを挟んで、向かい合ってしゃがみ込む。目線の高さが同じになり、すぐ傍に空色の瞳があった。
「だから、花で実践。日常的にちゃんと、エネルギー乗せた言葉で会話できるように」
目と目が合い、自然と笑い合う。
「……あ、このことは内緒な? 花に話しかけてるの、カミュに見られてすげー馬鹿にされたからさ」
「ふふっ……ハイ、内緒です」
二人で人差し指を口に当てるポーズをして、約束を交わす。
「あ。ワルい、オレなんか朝から変な話したかも」
「楽しかったですよ?」
「そうか? なら良かった。オレはあと、裏庭の方も面倒みるから、中に戻りなよ。ちゃんと手、洗えよー」
バケツとジョウロを持って裏庭に向かうラウを見送る。
彼は、突然現れたフィオナに対しても、分け隔てなく接してくれる。まるで初めから距離なんてないみたいに。
昨日、はじめて出会った時から、彼の明るさには随分救われている気がした。
人差し指を見つめ、フィオナは出会って二日目で共有した内緒事を思い出し、小さく笑った。