第五十三話 これから
ユーリの自動散水機の暴走が収まった頃には、全員で仲良く泥だらけになっていた。
男性陣は川で、フィオナは湖で汚れを落とすことにした。
ウィルの予想通り、洗濯物は山と出たのだが、ヴァンの一喝で、各自、体と一緒に自分で洗うことになった。
せっかくのドレスをドロドロに汚してしまったフィオナは、今はオルフェンで購入した服に着替えている。
「汚れたまま家に入るのはダメ」というウィルの厳しいチェックの元、全員が入室を許されたのは、すっかり日も暮れた夜の時分だった。
カミュとウィルが遅い夕飯の準備に取りかかっている間、騒ぎ疲れたメンバーがリビングでくつろぎ出す。
ソファに倒れ込んだラウが、大きく伸びをした。
「あー、なんだか長い1日だったなー」
「今日ラウなんかしたっけ?」
「いや、まぁ……ってお前も、何もしてないだろリッド」
「うっ……オレは、とりあえず疲れたんだよ!」
1人掛けのソファを陣取り反論するリッドを、ダイニングテーブルに腰掛けたユーリが、にやにやと眺めている。
その前を、ジークがモップをかけながら通り過ぎた。この時間に彼が部屋を掃除するのは珍しいが、よほどレナードに無断で踏み込まれたのが気に入らなかったらしい。
「ヴァン」
そんな、皆が人心地ついた頃合いに、長ソファに一人腰掛けていたヴァンに近寄り、フィオナは頭を下げた。
「私のせいで、ウィルを危険な目に遭わせてしまってごめんなさい」
キアルディがあのような行動に出るとは予想出来なかったとはいえ、フィオナの判断が、結果としてウィルを危険に晒したのは事実である。
ヴァンの怒りが、こちらに向かないことが不思議な程だ。
「いや……あれは……」
そんなフィオナの行動に、ヴァンが珍しく戸惑いを見せた。
「……すまない。俺の悪い癖だ。お前が気に病むことはない」
全員に注目される中、間が悪そうに、ヴァンが謝る。
「怖がらせてしまって悪かった」
「そんな……」
否定しようとして、フィオナは言葉を飲み込んでしまった。
――あの時の、ヴァンの姿を思い出す。
怖くなかった、と言えば嘘になる。あれも彼の一面なのだと思うと、理解しなければいけないような気に駆られるが、足がすくむほどの恐怖に駆られたのも事実だ。
色々と考え、俯いてしまったフィオナに、ヴァンが反省したように一つ咳払いをした。
「すまなかった。その……お前を怯えさせるのは本意ではない。今後、このようなことがないように善処する」
「――もっときつく言ってやってよ、フィオナ」
ヴァンの堅苦しい謝罪に、ウィルがキッチンから姿を現して口を挟んだ。
「俺が言っても直らないんだから」
車椅子で滑るように近づくウィルに、自然と、フィオナはヴァンの隣のスペースを明け渡した。
「この森に来るまでも、何回相手を半殺しにしたか……やり過ぎなんだよ、君は」
「しかし、あれは……」
「あれは、何?」
「う、すまん……」
どうやら怒っているらしい。ウィルの有無を言わせぬ圧力に、ヴァンが小さくなる。といっても、体が大きいので気持ちだけだ。
一体何をしでかしたのか、過去にキアルディのような目に遭ったのは1人や2人ではないらしい。
当然相手にも過失があってのことだろうが、ご愁傷様としか言いようがない。
こんなやりとりも、あんな事件があった後では微笑ましいものだ。普段通りに戻った兄弟に、同居人たちの間に安堵したようなアイコンタクトが交わされる。
「姫サンもお疲れサン。頑張ったよな」
ラウのねぎらいの言葉に、フィオナも微笑み返す。
――レナードに対してはっきりと意見を言えた、あの時の自分は、本物だろうか。
あの時はどこか興奮状態にあったような気もして、あまり実感が湧かない。
それでも、少しは変われただろうか。
そんなことを思っていると、リッドが思い出したように、ガバッとソファから身を起こした。
「そうだフィオナ! 本当に、アイツのとこに行かねーんだよなっ?!」
「今更何言ってんだお前。お姫様断ってたじゃん。格好良くサ。あ、そうかお前、あの時いなかったのか」
キッチンから、カウンター越しにカミュが会話に加わる。リッドは、ソファの中でしゃがみ込み、釈然としない顔でモゴモゴと口を開いた。
「だって、オマエ……森を出たら、もっと楽しいことがあるかもって……」
「そうよ」
あの時リッドに言ったことは、嘘ではない。
今はとても楽しい。でも、この森の外には、もっと楽しい世界が広がっているかもしれない。
そう思った方が、絶対にいいと気付いたのだ。
「だって、いつかはみんな出て行かないといけないんだもの」
フィオナの言葉に、リッドが押し黙る。はっきりとそう認められるようになったのは、自分の中で、明確な道筋が出来たからだ。
皆が少し真剣な顔で、フィオナを見つめる。その視線を受け止め、フィオナは全員を見回した。
「私はまだ、ここにいたい。ここで、みんなとの時間をもっと共有していたい」
けれど、ここでただじっと彼らに『保護』されているわけにはいかない。
「でも、ちゃんとひとりで生きる準備もしていかなくちゃ」
それが、フィオナが出した結論だった。
「まず、ひとりでも馬に乗れるようになるわ。そして、森の外に出るの。ジークみたいに色んなところを回って、世界を知る旅に出たい。もし、いつか国に帰れる時が来たら、その経験はきっと私の糧になる。帰ることが出来なくても、それ以外の場所で生きていく術を探す」
今のフィオナにはまだ、難しいかもしれない。何人かが心配そうな顔を見せるのを見て、フィオナは微笑んだ。
「大丈夫。今の私はひとりじゃないもの。でも、みんなに頼り切って、何もできないお姫様のままでいたくない」
彼らは、フィオナを『仲間』だと言ってくれた。ならば、対等でありたいと思う。心配されるより、頼られたいと思う。守られるより、守りたいと思う。
「――ねぇ、私はこの『箱庭』を、成長の場にしたい。今はまだ何もできないけど……ひとりでもこの森を旅立てる日が来るまで、ここで自分を育てたい」
逃げるためにここにいるのではなく、いつか来る旅立ちの準備のために、ここにいるのだと――
そう思うことで、未来が拓けた気がした。
確かなものなど何もないけれど、目標があれば、そこに道がなくても歩いて行ける。切り拓いていける。
「だから、私はここにいるわ。ウィル、ねぇ、いいでしょう?」
歩けない彼が、この家の精神的支柱になっているように、力の弱い、女性であるフィオナにも、誰にも替えられない役割がきっとあるはずだ。『家族』というのは、多分そういうものなのだ。
いつかバラバラになることがあっても、その絆は、きっと大切な宝物としてフィオナの中に残る。
「歓迎するよ、フィオナ」
向けられた透明な微笑みは、いつもフィオナの心を暖かくしてくれたものと同じだった。
「俺は、君の旅立ちを手助けしたい」
「じゃあ、お裁縫と編み物を教えて。それから、絵も描いてみたいわ」
「ふふっ、喜んで」
顔を見合わせて笑う。すると、後ろから肩に手を置かれ、キッチンから出てきたカミュが覗きこんできた。
「やっぱ料理は覚えてて損はないんじゃない?」
「馬はジークに習えばイイんじゃない? 剣も教えてくれるんじゃないかな、あと、掃除と」
「……お前は何をするんだよ」
何かと便利な兄に丸投げする弟に、カミュが突っ込む。言われ放題のジークに、ラウが耳打ちした。
「ジーク、文句言ってもいいんだぞ」
「……別に構わない」
「あっそ……」
ここも通常運転といえば通常運転だ。
「オレは~……オレは~……イテッ」
何か教えられることはないかと必死に探しているリッドの脳天を、ポカンとヴァンが叩く。
「お前は自分が勉強しろ。フィオナがこう言っているんだ。少しはお前も先のことを考えろ」
「う、うるせー!」
頭を押さえ、反抗するリッド。反抗はするが、反論できる余地はない。
「ふふっ……」
日常の騒がしさが戻ってくる。そんな彼らのやりとりを眺め、フィオナはこみ上げる笑みを隠した。
そうして『いつか』の準備をしながらも、少しでもこんな日が長く続けばいいと――
願っている自分もいることは、フィオナはこっそり胸に隠しておいた。
◇ ◆ ◇
その小さな家では、1人の魔法使いを挟んで、2匹の精霊がいがみ合っていた。
「困るんだよねー。この森の中で決闘だなんて」
冷たい紅茶を飲み干し、見た目6歳児の精霊が、やけに大人ぶった口調でクレームをつける。
「どうせヴァリウスがけしかけたんでしょ」
「んなことしねぇよ。アイツが、俺に聞いてきただけだ」
「またご主人様怒らせたんだ? この前、あの人に捨てられたばっかのくせにー」
「捨てられた言うなっ。怒らせるも何も、俺は本当のことしか言わねぇよ」
容赦ない言及に、責められている精霊は不満そうに応答する。
「真実を映す鏡は、嘘は言わない。ただそれだけだ」
「へー……」
得意の決め台詞を使ってみても、森の精霊の冷たい表情は変わらない。
よほど、森を人間に踏み荒らされたことが気に入らないらしい。
こういう時の彼の機嫌を取ることは難しいが、怒りが持続しないのも、この見た目幼い精霊の特徴だ。
あまり気にしないことにして、ヴァリウスは熱い紅茶に口をつけてから、皮肉げに口をねじ曲げた。
「……ま、真実なんて告げたところで、解釈するのが人間じゃ、結局のところ本当のところなんて見えやしねぇんだけどな」
『世界で一番白雪姫に相応しい男は誰だ?』
あの男は、そう聞いてきたのだ。
その真実の回答に対する基準は、ヴァリウスには知るよしもない。
富か、名声か、力か、権力か、容姿か。
はたまた性格か、相性か――彼女の心を占める人間か。
だが、時の流れの中で『世界で一番美しい女』が変移するように、真実というものも決して一定ではない。
そして多くの場合――それこそお伽話の世界でもない限り――相応しい人間と結ばれるとは限らないのも、世の真理である。
鏡ごときが知る真実の通りにことが運べば、 ヴァリウスが本気を出せば世に恋愛の機微に泣く男女は存在しなくなることになる。
「それも面白くねぇよなぁ」
そこまで考え、独りごちる。
まったく、人間というのは次から次へと面白い質問を考えつく。真実の鏡には休む暇がない。
「ま、お子ちゃまには関係ねぇことか」
小馬鹿にされた小さな精霊は、鼻の穴を広げ、目一杯馬鹿にするように反論した。
「ヴァリウスって、時々変に人間臭いよね」
「んぁ? あんなのと一緒にすんなよ」
元々のヴァリウスの立場からすると、大変な侮辱だ。だが、過去にもそういうことを言う者は、確かにいた。
「まぁ、年期が違うんだよ、年期が」
「じじぃー」
「黙れガキジジィ」
「ナニソレ!」
「ヴァリウス、そんな話はどうでもいいです」
彼らのいつもの口喧嘩を聞き流していた魔法使いが、分かりやすく不機嫌に話をぶった切った。
「で?」
右手に銀のナイフ、左手に赤いリンゴを持ち、冷めた顔で促す魔法使いに呆れる鏡の精。
「で……ってお前、なんでそんな簡単なことができねぇんだよ」
どうやら人間にお裾分けされた大量のリンゴを消費するのに、皮を剥くというスキルが必要なことに気付いたらしい。
魔女は、基本的に食事を採らずとも生きていけるため、食は必需品ではなく嗜好の部類だ。
この魔法使いはお茶とお菓子を好むが、ヴァリウスが剥いたリンゴも気に入ったらしい。
彼はお茶を入れるのは上手いが、それ以外の料理に関する技術は一切持ち合わせていない。
「ほら見てろって」
ショリショリ……
「ほぉ~」
テーブルの中央に積まれた山から赤い実を一つを取り上げ、器用に皮を細く均等な幅で繋げながら剥いていく鏡の精の手際に、森の精が感嘆の息をつく。
ちなみに、円卓に置かれた籠にこんもりと積まれているリンゴの山はまだ序の口で、籠に入りきらなかった大半が、袋に入れられたまま、ヴァリウスの鏡に立てかけるように床に置かれていた。
「…………」
ジョリ、ブチッ
見よう見まねでやってみようとするが、明らかに身を削りすぎ、一瞬で皮がちぎれるローズレインのリンゴ。
「うわ~」
それを見て、落胆のため息をつく森の精霊。
「……飽きました」
ぽいっと剥きかけのリンゴを放り出す魔法使い。
「早っ!」
鏡の精が突っ込む。
どうせそうなるとは思っていたが、予想以上に早い。ルイロットに失望されたのが利いたらしい。
「ヴァリウス、後は任せましたよ。私は『彼女』の為に開いた道を閉じてきます」
さっさと席を立ち、ホウキを手に戸外に出るローズレインの黒い背中を、横目で見送る2匹の精霊。
カランコロン
扉が閉じ、賑やかだったその小さな家の中に、束の間の静寂が落ちる。
その静けさを、鏡の精霊があっさりと破った。
「……悪魔の王子が、ただの人間の女に惚れて添い遂げるなんて、意味不明な実例もあるわけだしなぁ?」
「えー、そんなの聞いたことないけど。なんかの伝説?」
「おこちゃまは知らなくていい大人のおとぎ話だよ」
「むっかー」
頬を膨らませる森の精霊。その不細工な顔を眺めながら、ヴァリウスは言われたとおり大量のリンゴの山を剥き始めていた。
――結局の所、「相対的価値」で生きる人間にとって「絶対的価値」というのは、指針程度にもならないのではないか。
真実を映す鏡の精霊が考えることでもないが、この仕事をしていると、度々言いたくなることがある。
「ほんと、真実の答って意味ないと思わねぇ?」
「なにそれ、自分の存在価値全否定? アハハハハッヴァリウスってがらくた以下だったんだ」
「てめ…ッ、マジでむかつくな。1回締めるか? あァ?」
ガタンと席を立ち、戦闘態勢に入る。
「お?」
腕まくりをして拳を握った時点で、チカチカと鏡の精の姿が点滅し、壁際の大鏡が光った。
「あ、お呼びだね。いってらっしゃい」
これはローズレインの呼び出しの合図だが、彼は先ほど戸外に出て行ったばかりだ。
「……っておい、どうやったら家の周りで迷えるんだ、あのアホ魔法使いは。ほんっと一人で出歩けねぇヤツだな」
しゃーねーな、と前髪を掻き上げてため息をついたヴァリウスの姿が、鏡ごと掻き消える。
ヴァリウスは人の姿をとっていない限り、鏡に映る範囲以外に姿を見せることができない。
ローズレインは近くにヴァリウスがいない場合、こうやって鏡ごと転移させ、呼び出してから人の姿に変えて道案内をさせるのだ。
そんなドがつく方向音痴な魔法使いが住まう、その小さな部屋の最奥――食器棚と、セバスチャンの檻の置かれた棚の間。
壁が見えないほど物の敷き詰められた正方形の部屋で、そこだけきれいに大鏡1個分の隙間が生まれて、再び、嘘のような静けさが落ちる。
「……アレ、だれか歌ってる……どうしたんだろ」
飲み干してしまったアイスティーを惜しんで、グラスの中で溶けた氷水を舐めていた森の精霊が、ふと顔を上げた。
「光の精霊たちが? ……ああ、そうか。あの子がよろこんでるからか」
目に見えぬ誰かと会話を交わす。
静かに瞼を閉じ、窓のないこの家で、ルイロットは外の精霊たちの歌声に耳を傾けた。
――ここは『迷いの森』
道に迷った者は みちびいて
道をなくした者は やさしく包む
ここは
イアルンヴィズの 迷いの森
やさしい魔女が 守る森さ――
「――今の魔女は、ぜんぜんやさしくないけどね」
120年前から変わらないその唄に、精霊は小さく苦笑した。
◇ ◆ ◇
レナードが、サン=フレイアの王子たちと出会ったのは、彼らが12歳の春だ。
北西の島国は長い間、アースガルダ大陸への政治的介入に、消極的な姿勢を見せていた。
だが近年、『天上の島』の内部でも。思惑の変化が出てきたらしい。
東の大国シュヴァルト帝国の著しい軍備増強と、北はスヴィド共和国に対し度々侵略戦争を仕掛けているヴァルク王国の不穏な動きに、天上の民はいつになく警戒を強めていた。
アルファザード王国と東の国境を接するヴァルク王国は、大陸西海岸からサン=フレイア王国と睨み合う位置にある。
万が一、ヴァルクとシュヴァルトが手を結ぶようなことになれば、間に挟まれる形になるアルファザード王国はもとより、サン=フレイア王国にとっても、ヴァルクを足がかりに帝国がエーギル海に踏み込む契機にも繋がりかねない状況は、望ましくない。
双方の利害が一致し、サン=フレイア、アルファザード両国が、歴史的ともいえる同盟を結んだのだ。
それが、大陸歴491年の出来事である。
そうして翌年、同盟締結後の交流の一環として、文化的先進国であるサン=フレイア王国への、次期国王たるアルファザード王国第一王子の留学が実現した。
大陸歴以前、アースガルダ大陸を焦土と化した100年に及ぶ大戦の後、統一帝国を実現した大陸国家は、現在に至るまでに急激な復興と発展を遂げた。
とはいえ、大陸不干渉を貫き、暗黒時代の戦火による損失をもたなかったサン=フレイアの文明水準は、やはり抜きん出ている。
今は同盟国とはいえ、いつ脅威になるとも知れない大国への視察に、使命感を持ってエーギル海を渡ったレナードは、思わぬ出会い――だが必然的な出会いを果たした。
奇しくも同じ齢の、サン=フレイア王国の2人の王子。
それまでの人生において、自らの天賦の才覚に一筋の疑問も抱かなかったレナードにとって、才気溢れる彼らを知ることは、己と対等な存在と、己を比較し、己を知ることに同じだった。
彼らは、レナードを映す鏡たり得たのだ。
2人の聡明な王子と共に過ごした期間は、その後のレナードを形作るに大きな影響を及ぼしたが、そのことを彼自身が認めることはないだろう。
「お前、ほんと意外に丈夫よね」
「何を言う、今だって死ぬほど痛いぞ」
街道を往く騎馬を並べ、アルヴィスは涼しい顔で自分の馬を駆る相棒を、呆れ半分、感心半分に見やった。
イアルンヴィズの森を抜け、オルフェンの町に辿り着くと、もう日が暮れていた。
宿で一夜を明かして、日が昇ると共に出立した3騎は、緩やかに隆起する街道を北上していた。
よほどの恐怖体験を味わったのか、昨夜は「黒い化け物馬が来る」など、よく分からない寝言を発しながらうなされていたキアルディだが、朝起きたら都合の悪いことは忘れたように、ケロッとしていたのはさすがである。
完全に自業自得とはいえ、壁面まで殴り飛ばされた彼の姿を見た時は、さすがに肝が冷えたものだ。
「これは肋骨にヒビが入っているな。あーしばらく仕事(主に雑用)は出来ないな。僕はずっとレナード様のおそばでお世話をしているから、後のことは全て任せたぞ隊長」
「お前ね……」
怪我にことかいて嫌な仕事を全部押しつけようという魂胆が見え見えすぎて突っ込む気も起きない。
従者2人がくだらない会話を続けていると、唐突に前を行く主が命じた。
「――キアルディ、先に戻れ」
「ええっ、僕だけですか!?」
「怪我人を連れて回るわけにもいかない。アルヴィス、せっかく南端まで足を運んだのだ。西を回って帰るぞ」
目前に、2股の分かれ道が近づいてくる。直進すれば王都に帰れるのだが、アルヴィスたちの前をいく美しい白毛馬は、鼻先を西に向けた。
「あの辺りはつい最近も、ヴァルクとの小競り合いがあっただろう。様子を見たい」
「僕も行きます! 全然元気です! ぴんぴんしてます! 痛いところなんてありません!」
「お前、ほんと現金よね」
レナードも全然気にしていないように見えたが、意外に臣下の怪我の状態を案じてはいたらしい。
主の配慮に感激するよりも、同伴させてもらえない不満が先立つらしい少年騎士が、掌を返して壮健をアピールする。
王子が留学から帰る途中、偶然立ち寄った街の裏路地で、野垂れ死にかけていたところを拾われた少年は、以来盲目的なまでのレナード信者だ。
彼はレナードに対する賛辞として「美しい」を連発しているが、それは単にレナード本人が自らの美貌に誇りを持っているからであって、キアルディ自身が美醜に対する厳しい審美眼を持ち合わせているかと言うと、そうではない。そもそも、そのような教養は持ち合わせていない。
レナードが白と言えば白で、黒と言えば黒なのだ。
とはいえ、キアルディと同じ立場にあるアルヴィスが、はたして同様に彼の主君に心酔しているかと言うと、「そーでもない」とアルヴィス自身は思っている。
ただ、彼の主がどれだけ突っ込みどころ満載な人物であったとしても、死ぬまで彼の主であるという事実は変わらない。それだけのことだ。
それは、忠誠心などというアルヴィスの苦手な騎士道精神に溢れたようなものではなく――『そういうもの』なのだ。
「アルヴィス、帰ったら報告書を準備しろ。復興状況についてまとめたものを、ヒゲ宰相に直接持ち込む」
「了解しました。けど、殿下の立てた戦争被害地域の復興援助計画、渋られてませんでしたっけ。やり過ぎとかなんとか」
戦争被害跡を『最も醜いもの』に分類するレナードが力を入れている政策の一つに戦争被害地域の復興促進があるが、常に完璧を求めるレナードの、多額の補助金を計上した予算案に、大臣が青い顔をしていたのは記憶に新しい。
「金勘定が仕事の財務大臣か? 知らんな。奴らは王たる私に黙って従っておけばいい」
「殿下はまだ王子ですけどねー」
「すぐに明け渡させる。たいした違いはない」
「そうですか」
下手をしたら不穏とも受け取られるレナード節に、アルヴィスは慣れたように頷いた。
「この国はいずれ私のものとなる。壊された古き場所に新しいものを再構築するならば、私の美的感覚に沿うものでなければならない。より完璧に、より美しくするのは当然だ」
彼の言動はいささか極端で強烈で、内政に携わるようになった今も、度々波紋を呼んでいる。
だが、人の上に立つ者が確固たる信念を持っていなければならないとすれば、その点において、この男に不足はないだろう。
彼の主義主張は確立されており、その眼差しは、揺るぎない未来を見据えているからだ。
「美しい街並みは美しい生活を作り、美しい生活は美しい民の心を作る。私の臣民である限り、アルファザードの民は美しくなければならない。そうだろう? アルヴィス」
「そうですねー」
レナードが12歳の秋、アルヴィスは11歳だった。神話の賢者が由来だという、この身の丈に合わぬ大層な名も、まだ持ち合わせていなかった頃の話だ。
出会ったあの頃から、彼の主君の台詞が変わることはない。
いつも通り間延びした相槌を打つアルヴィスの口元は、薄く微笑んでいた。
「あーぁ、帰ってもまだまだ忙しそうだわ、コレ」
「そうだ、アルヴィス! 働け働け、レナード様の為に馬車馬のごとくな!」
「お前もなー」
先に帰れと命じられていながら、後を追ってくるキアルディを振り返る。
彼の後ろに続く1本の街道は、南端の町オルフェンまで続いている。
その先に広がる不思議の森に、美しい王女と王子たちが静かに暮らしていることを、知る者は少ない。




