第五十一話 天上の島
「調子に乗るなよ、女」
フィオナを睨みつけるキアルディの、涼やかな鳶色の両眼は、今や怒りに燃えていた。
「貴様のような女が、レナード様のお言葉に逆らう資格があると思うのか!」
家の壁を背に、刃をウィルの首元でちらつかせる。
車椅子のウィルの上半身を押さえつけてしまえば、当然、逃げることは叶わない。
「ウィル……!」
青ざめるフィオナの反応を見るキアルディが、さらに揺さぶりをかけた。
「さぁ、返事はどうした? この女の命が惜しければ、大人しくレナード様のお言葉に従うのだな」
「うわ、本当にやった……」
その時、離れたところにいた青髪の騎士が、レナードの傍まで駆け寄り、頭を抱えた。
先ほどから盛大な勘違いをしているキアルディだが、ウィルを身障の女と思い込んでの行動なのだから、外道もいいところである。
「てめ……ッ! 何しやがる、ウィルを離せ!」
「卑怯だぞ!」
「うん、ほんと卑怯。ごめんなさい」
リッドとラウの非難の声に、素直に謝るアルヴィス。だが、それでキアルディの暴走が止まるわけではない。
「てめぇ、許さねぇ……!」
低く唸るカミュの眼が、烈火の如き憤りに染まる。それでも、ウィルを盾に取られては身動き出来ない。
「待ってください!」
悲鳴に近い声で叫び、フィオナは前に出た。迷う余地など、どこにもなかった。
己のこれからの生き方よりも、彼の命と未来の方が大切だと、アタマが考えるよりも先にココロが決めていた。
「それなら、私が……!」
「フィオナ!!」
強い叱責は、ウィルのものとは思えないような怒気を孕んでおり、フィオナは思わず息を飲んだ。
今までにない厳しい眼差しで睨みつけられ、初めて、この優しい青年に対して畏れに近い感情を抱く。
その瞳が、凍るような冷ややかさを伴って、レナードに向けられた。
「――レナード」
その声は静かだったが、思わず背筋が伸びるような強かさがあった。
「これが君のやり方?」
蒼と紫。2つの視線が交錯する。
喉元に刃を突きつけられてもなお、彼の瞳に怯えはない。
『完璧な王子』
ヴァンが、かつてのウィルを評して口にした、そのフレーズが脳裏を過ぎった。
強く気高い――何者にも屈さぬ、誇り高き次の王。
ヴァンほどの男が、あそこまで心酔するウィルの本当の姿を、垣間見たような気がした。
「――」
一瞬たりともウィルから視線を逸らさぬまま、レナードは右手を上げ、パチンッ――と指を鳴らした。
「キアルディ、離してやれ」
「ですが、レナード様……!」
「お前が今手をかけている男は、サン=フレイア王国の第一王子だ」
その一言に――あまりにも当たり前のようにもたらされたその新事実に――時が止まった。
「……サン……フレイア……?」
ようやく、フィオナが絞り出した声はかすれていた。急速に、口の中が渇く。
「…………」
ギギッ――と、油を差し忘れたカラクリ人形のように首を回し、キアルディが大きな目をこぼれんばかりに見開いて、己が刃を向けている青年を見下ろす。
渦中の第一王子の表情は、どこまでも冷やかで、自らの命を脅かす刃など存在しないかのように、レナードを見据えている。
その際立った美貌は、微笑みという要素を消すだけでこうまで印象が変わるのかと思うほどに、近寄りがたい異彩を放っていた。
まるで声が出ないらしい少年騎士の気持ちは、この時ばかりは、フィオナにも痛いほど分かった。
サン=フレイア王国は、大陸の北西――エーギル海に浮かぶサン島・フレイア島の2つの巨大な島と、いくつかの島々で構成される君主国家だ。
『天上の島』とも呼ばれるその島国は、肥沃な土地と鉱山地帯を有し、豊かな資源と技術力を持つ。
神の海・エーギル海に守られた難攻不落の島は、100年に渡ったといわれる、アースガルダ大陸を覆った暗黒の戦乱時代をも、ほとんど傷を負うことなく生き抜いた。
その文明文化は、一度は焦土となった大陸国家に大きく水をあけ、相対的価値を著しく高めることになる。
国土面積自体は、シュヴァルト帝国、アルファザード王国に及ばないものの、長年蓄積された海洋技術の粋である海軍を主体とした軍事力は圧倒的であり、実質大陸最強とも噂される列強である。
サン=フレイアがその気になれば、統一帝国の再現も夢ではないと――最も恐れるべきは東の餓えた狼ではなく、西の眠れる獅子であると――囁かれ続け、既に数百年の時を、孤高の大国は不気味な沈黙を続けていた。
大陸の民が全てを失った暗黒時代から数えて、五百余年。
神の海の対岸に住まう『天上人』への羨望と劣等感は、大陸民の血と記憶に染みついており、時に激しい嫉妬の対象にもなり得るかの国の継承者を前に、フィオナは身体が震えた。
「――ウィリアム=コンスタンティン=バルドル=アイザック=サン=フレイア……?」
こちらも寝耳に水だったらしいアルヴィスが、疑わしげな声で呟く。
バルドルは最も高貴な女性――すなわち、正室を表す母方の家格だ。
かの大国の第一王子。つまりは――次の王。
サン=フレイアは海の覇者だ。
彼の指先一つで、エーギルの海が大陸に牙を剥く。
――ぞっとした。
たった数分の違いで、それだけ巨大な権力が2人の人物の間を移動するという事実に、あの星空の下、ヴァンが語った彼らの過去――その重圧を、今更ながらに理解する。
選ばれなかった方は、どんな気持ちなのだろう。
ヴァンは納得しているようだが、彼の母親は? その一族は? 彼を支持する者は?
『仕方がない』で、納得できるようなものなのだろうか。
それこそ、『本当に向こうが早かったのか』と、その正当性を疑う者はいないのだろうか。
彼らが背負うものは、フィオナが想像していたよりもずっと重く、押し潰されそうに巨大だった。
ウィルがずっと抱えている焦りの理由の一端を、理解する。強大な軍事力を有する国の、次の指導者が決まらぬ現状を――その中で混迷する祖国の先行きを、当事者である彼が憂わないはずがなかった。
暗黒時代以降、大陸に不干渉を貫いている『天上の島』の王位継承者が、こんな内陸の森に隠遁しているという異常事態を、事実として受け入れるのには、少なからず時間を要したらしい――ゼンマイの切れかかったカラクリ人形のようなぎこちない動作で、キアルディは、おそるおそる王子を捕らえていた腕を解いた。
「ウィル!」
逃れたウィルがその場を離れると、ラウとカミュ、リッドが一斉に駆け寄った。
その時、フィオナの脇を、風のように黒い影が通り過ぎた。
――ごぅっ!
「ぐはっ……!」
人を殴ってこんな音がするのかと思うような激しい音を立て、キアルディの小柄な身体が飛んだ。
背後の家の壁に叩き付けられ、声なき悲鳴を上げた少年を見下ろす一人の男――ヴァン。
その背中に、全身が総毛立つほどの殺気を感じ、フィオナは本能的に足がすくんだ。
「ヴァン……?」
見たこともないようなヴァンの豹変に、唖然としたのはフィオナだけではないらしい。ゴクリと唾を飲み込むリッドの、かすれた呟きが耳に届く。
「――殺されたいのか、貴様」
その言葉には、誇張も脅しも存在しない。
冷徹で、それでいて底知れぬ憤怒を内包した声に、寒気がした。
「うぐっ……やめ……っ」
ヴァンは大股で少年に近づき、片腕でその胸倉を掴み上げた。
足がつかぬところまで持ち上げられ、苦しげに爪先をばたつかせる少年の姿は同情を誘うものがあったが、それを見つめるヴァンの目は冷淡だった。
空いた右手には、キアルディが取り落としたらしい短剣が握られている。
その瞳に、いつものような理性の色はない。
「お、おい、ヴァン! どうしたんだ!?」
その様子に、戸惑ったラウが声をかける。が、刃を握りしめた腕が振り上げられるのを、止めることはできなかった。
(やめて……!)
咄嗟に声が出ず、フィオナは祈るような気持ちで目をつぶった。
狂うような怒りに囚われた男の断罪を、その場にいる誰一人として止めることは出来ない。
――かに見えたが、
「ヴァン、やめるんだ」
冷静なウィルの声に、ぴくりとヴァンが動きを止める。
「やめるんだ」
「しかし……ッ」
2度目の制止で、ようやく理性を取り戻した色の目で、振り返ったヴァンがウィルに訴える。
だが、兄と目が合うと、迷うように紫水晶の瞳が揺れた。
「俺は、レナードの意志でないなら構わない」
「…………」
その言葉に、ヴァンはようやくキアルディを下ろした。
最初の一撃目のダメージが大きかったのか、大きく噎せながら地面に転がり、腹部を押さえる少年騎士。
その姿には目もくれず、ヴァンは早足にウィルの傍に寄った。
「ウィル」
「俺は大丈夫だよ、ヴァン」
心配そうに肩を掴むヴァンの手に己の手を重ねると、安心させるように穏やかに微笑みかけるウィル。
いつもは強い光を湛えているはずのヴァンの紫闇の瞳が不安げに揺れ、兄を見つめる。
(まただ――)
その感覚に、フィオナは胸を押さえた。
風穴が空いたように、胸の虚ろが疼く。
彼の、不動の意思に固められた瞳が揺れる理由は、決まってウィルのことだ。
ヴァンの魂を揺さぶるのはウィルの存在でしかなく、そこにはフィオナの入る余地などない。
彼の心の扉は、たった1人にしか開かれていない。
生まれた時から共にある、片翼のような存在と己を比べること自体がおこがましいことは、理性では分かっている。
だが、その絶対的な事実を見せつけられる度、フィオナの心は不安定に揺れた。
(何か……すごく、嫌だ)
彼らの絆を見て、虚しくなる己の性根を卑しく感じる。
自分自身を嫌いになりそうな感覚――
この感情の名前を、フィオナはまだ知らない。
※
ヴァンが正気を取り戻すのを見てとり、ウィルは車椅子をその場で回転させて、後ろで様子を見ていたレナードを振り返った。
背後に、定位置のようにヴァンが立つ温度を背中で感じる。
ウィルにとって当たり前で――そしておそらく、ヴァンにとって、これからもそうであることを疑ったことがない距離感。
「君は何かあるかい? レナード」
穏やかだが優しくはない声で促され、レナードは変わらず傲岸不遜な態度で、だが謝罪の言葉を口にした。
「私の臣下が無礼を働いたことを、主として詫びよう」
いまだ地面に横たわるキアルディを、薄氷色の視線で指し、言葉を続ける。
「見ての通りの若輩者だ。こちらからは後ほど厳しく言い含めておく。何卒ご容赦願おう」
「主君を思っての行動だろう。その忠誠心は大切にすべきものだ」
「躾がなっていないな」
ウィルの寛大な言葉とは対照的に、ヴァンが不機嫌に鼻を鳴らし苦言を呈した。
「貴様にしては、随分と育ちの悪い子供を傍に置いているようだ」
臣下をなじる言葉に、だがレナードは傲然と相手を見返した。
「臣下の非は主君にある。分かっているな?」
「フン――貴様こそ、相変わらずウィリアムのことになると眼の色が変わる。暑苦しい男だ」
「………………」
「………………」
お互い、険悪な様子で睨み合う。無言で火花を散らす2人に、その間に挟まれていたウィルはクスクスと笑い出した。
子供の頃から一向に成長しない2人のやりとりが、ツボにはまったのだ。
ウィルは、変わらないものを信じない。
永遠が存在しないように、不変があるわけがなく、あるわけがないものを頑なに信じられるほど――ウィルは一本気な気性を持ち合わせてはいない。
それでも、こんなふうに変わらないものを、愛おしいと思うことも、時にはある。
変わらなければいいのに、と望むことも……時にはある。
そんな風に思うくらいには、12歳の夏は、短く、暑く――色鮮やかに、彼らの人生を駆け抜けていったのだ。
「何がおかしい、ウィル」
「何がおかしい、ウィリアム」
こみ上げる笑いを抑える車椅子の彼を見下ろし、全く同時に咎めた2人に、ウィルはいよいよ声に出して笑った。




