第四十九話 光の皇子
荒々しく玄関の戸を開け放った男は、怒りに燃えた薄氷色の瞳を滑らせ、室内を睥睨した。
右手のソファとローテーブルのあるスペースに集う住人たちの姿をとらえ、男――レナード=アレクサンドラ=ウル=アルファザードは、開口一番その名を口にした。
「ヴィンセントはどこだ?」
ヴィンセント、とは聞き慣れない名だが、先日彼が訪れた時に、ヴァンに対して放った呼び名だ。
「お姫様迎えに来たんじゃないのかよ……」
てっきり『白雪姫を渡せ』と迫られることを覚悟していただけに、予想外のご指名にカミュが突っ込む。
窓の外を見ると、門前で鹿毛馬に乗った騎士が2人、待機していた。
そのうち青髪の騎士の方が主の白馬を預かっており、たまたま目が合う。
知人にでもするような軽い所作で、ひらひらと手を振られるが、カミュはそれを無視した。
「出てこいヴィンセント!」
外の緊張感のない臣下とは裏腹に、なぜか初っ端から殺気立っている王子が、ずかずかと室内に立ち入る。
「臆したか、ヴィンセント!」
朗々とした怒声が響き渡る。怒声にすら音楽的な美しさが伴うというのは、もはや嫌み以外の何ものでもない。
「うるさいぞ、レナード」
華やかな艶を持つそれとは対照的な、禁欲的な美声が2階から返ってくる。
見上げると、2階の渡り廊下に長身の男が姿を現した。
右の肩に木材を担ぎながらも、見下ろす眼光は鋭く、それだけで独特の威圧感がある。
だが、慣れない人間であれば一歩引いてしまうであろう彼の眼力を前にしても、大国の王子は真っ向から睨み返した。
「貴様に決闘を申し込む」
「寝惚けているのか」
「降りてこいヴィンセント」
「……面倒な男だ」
人の話を聞く気のない男に、ヴァンは言葉通りの表情で鼻から息を吐き、ゆっくりと階段を降りた。
階段の裏側に持っていた木材と大工道具を置くと、レナードを無視してキッチンの方へ向かう。
どうやら、裏口から出て水を飲みに行くらしい。裏庭には、ヴァンたちがこの家を見つけた時からあったという、地下水をくみ上げた井戸がある。
「ついてくるな」
「こんな狭苦しい場所では、互いに剣を振るうことなど出来まい。場所を変えるのは当然だ」
「そういうつもりじゃない」
「それにしても小汚い家だ」
全く会話が噛み合わない。ヴァンの後ろをついて部屋を横断するレナードに、住人たちは返す言葉もなく、ただその後ろ姿を見送っていた。
青いマントの背中で、激しく自己主張をする豪奢な黄金の巻き毛が、この場においてものすごく浮いている。
「……なんなの、あいつら」
カミュの疑問に答える者は、もちろんいない。ヴァンまでひとまとめにするのは気の毒な気もしたが、どちらもマイペースぶりではいい勝負だ。あの強烈な王子相手に全く動じない豪胆さには、心底敬服する。
とりあえず、舞台は裏庭に移ったらしく、室内は嵐が去ったように静かになった。
「決闘……とか言ってたよな。一応、剣持っていってやった方がいいか?」
「そうだな。まぁ、本人受ける気なさそうだけど、いきなり斬りかかられてもマズイし」
ラウの提案に、カミュが頷く。今ひとつ展開についていけていないが、このまま他人事を決め込むわけにもいかないので、彼らも舞台に立たなければなるまい。
ヴァンが愛用している長剣は、今は木材と一緒に、階段裏の壁に立てかけられたままだ。
普段からヴァンは、家でくつろいでいる時以外は帯剣しているため、今回ここに置いていったのは意図的なものだろう。
気持ちは分からなくもないが、あれだけ殺気立っているレナード相手に丸腰を決め込むとは、たいした度胸である。
「ジーク、何が起こるか分からないから、一応お前も……あれ?」
危急時に最も頼りになる男に、バックアップを頼もうと振り返ったカミュは、ついさっきまでそこにいたように思っていた双子の姿がないことに気付いた。
「……ほんと、なんなのあいつら」
最近こういうことが多い。どうも、レナードを避けているようだが、こちらの大陸の事情に疎いカミュにはピンとこない。
「つか、リッドもいなくないか?」
「あっホントだ! 妙に大人しいと思ったら……おぃおぃ、ほんと何なんだよあいつら!」
気がつけば、2人だけこの面倒くさい状況に置いてけぼりだ。全く仲間を援護してやる気のない薄情な同居人たちに、気遣い屋のカミュは髪を掻きむしった。
◇ ◆ ◇
さく、さく、と靴の裏で生い茂る草木を踏みしめながら、森の中を進む足音が――3つ。
サク、サク、サク……ピタ。
サク、サク、サク……ピタ。
何度か様子見に先頭のジークが立ち止まると、テレパシーでも共有してるかのように、全く同時にユーリが足を止める。それに少し遅れて、慌てたように最後の足音が止まる。
わざとらしく息を吐き、仕方なくユーリが背後を振り返った。
「なんでお子サマまでココにいるんですかねェ?」
「お子様言うな!」
全く身を隠す気はないようだが、それでも遠慮はしてるのか、数歩の距離を開けてついてくる少年が、憮然と言い返す。
今はほとんど使われていないが、ウィルとヴァンの部屋に繋がる廊下の先には、屋外に通じる戸が設えてある。
戸には内側から錠がかけられており、鍵の管理はヴァンがしているはずだが、ユーリが針金1本でたやすく解錠してしまった。
その戸を使用し、彼らはカミュたちにも気付かれずに、あの場を逃げおおせたのだ。
声をかけられたのをいいことに、リッドは駆け足で2人に近づいた。
身長差分見上げる、猫のようにつり上がった小生意気な瞳には、少年期特有の無鉄砲な気の強さが表れている。
「オマエら、あいつが来ると、すぐどっか行くじゃん。そんなにアルファザードの王子が怖いのかよ」
リッドからすれば、フィオナを連れ去ろうとするアルファザードの王子は敵だ。王子を避け、自分たちの立ち位置も明確にしない双子に、不満を募らせているのだろう。
「ボクたちを懐柔して、レナード王子を追い返す手助けをさせようって魂胆?」
「ぅぐっ……」
すっかり見通され、押し黙ったリッドの顔がツボにはまったのか、ユーリが吹き出した。
「なるほど、おバカ王子サマも、ちょっとは外交を考えるようになったワケだ。ハハハッ」
「笑うな!」
腹を抱えて笑うユーリに、顔を真っ赤にして反発するリッド。放っておけば収拾がつかない言い合いに発展する彼らに、ジークが水を差した。
「……俺たちは、あの男に顔が割れている。その意味は、お前でも考えれば分かるだろう」
「…………」
ジークの、静かだが有無を言わせぬ物言いに、リッドは深刻な表情で黙った。
それきり、黙々と森の奥へと進む2人に、てくてくと、黙り込んだままついて行く。
「いつまでついてくる気?」
「…………」
「お姫サマのトコロに帰った方がイイんじゃない?」
「ユーリとジークは帰らないのかよ」
拗ねたような物言いに、双子は目を合わせた。足を止め、同時に少年を振り返る。
「フィオナがどうなってもいいのかよ」
リッドは両拳を握り、俯いたまま吐き捨てた。
「フィオナが、あんな奴のトコロに嫁に行っちまうんだぞ?! それでいいのかよ?!」
「……俺たちには、関係のないことだ」
「……ッ!」
「……この森の中にいる間は、ネ」
ジークの回答に、気色ばんだリッドに対し、ユーリが付け加える。
ざわりと、森が意思を持つもののように枝葉を揺らす。
「一歩外に出れば、『関係ない』なんて優しいことすら言えなくなる」
「……何言ってるか、意味わかんねーよ」
憮然と返すリッド。無意識か、意図的か――理解を拒絶する少年に、ユーリはわずかに首を傾けた。そして、薄い唇を歪め、口角を上げる。
何かを企んでる時の顔――と、彼を知る者ならば評すだろう。
「じゃあキミは、説得が成功するまで、どこまでもボクたちについてくるワケだ? 事情を知らないお姫サマならともかく……キミはボクたちのこと知ってるはずだけどねェ」
「だからどうしたって……むぐっ」
急に片手で口を塞がれ、リッドはすぐ脇の木の幹に身体を押しつけられた。強かに背中を打ち、顔を歪める。
「――攫って欲しいの?」
背筋を這い上がるような囁きは、冗談とは思えないほどに冷やかだった。
脈絡のないユーリの行動に驚き、リッドは逃れようともがくが、簡単に押さえつけられてしまう。
「――無防備だヨ、皇子サマ」
怯えを滲ませ、相手を凝視する金色の瞳に、翠の瞳が酷薄に細められた。
「ユーリ、子供をからかうな」
兄の静かな叱責を受け、ユーリがぱっと手を離す。正体の分からない圧力から解放され、荒い呼吸を吐き出すリッド。その表情は硬く強張っていたが、それでもその場から逃げ出さないのは、彼なりの意地なのだろう。
「自覚のない皇子サマには、世の中の世知辛さを分からせてやるのも、優しさだと思うけどねェ」
「…………」
「どのみち、このままじゃ利用されるだけ利用されて、汚いオトナに食い散らかされるだけだヨ。だったらボクたちが利用してやった方が――」
木の幹に張り付き、警戒を見せる猫の目から、静観を続ける人形の目に視線を移し、ユーリは試すように言葉を続けた。
「多分、アルベルト兄さんは喜ぶんじゃない?」
「…………」
だが、心にもない言葉に返答を用意するほど、ジークは親切ではない。
予想通りの黙殺に、ユーリはわざとらしく息を吐く。
「まぁ、ボクはどうでもイイけど」
「何でだよ……」
低く、呻くように絞り出された少年の声に、2人が注視する。
「おまえらがシュヴァルトの人間だからって、オレを利用しなきゃいけないとか、そんなのオカシイだろ……!」
ボロボロと大粒の涙をこぼす、リッドの悲痛な叫びが森にこだました。
シュヴァルト帝国の第二皇子と第三皇子。
牙狼王の血を受け継ぐ、冷酷な三人の皇子――と世では評されているらしい。
もっとも、今の彼らは、祖国から追われる身だ。
牙狼王バルドゥルは、国内では『皇帝』と呼ばれている。
法王の任命なく、大陸の覇者たる皇帝を名乗る彼の外交姿勢は明白で、日々軍備増強を続ける東の大帝国の脅威に、西大陸は警戒を強めている。
当然、西大陸の主導国を自認するアルファザード王国とは敵対関係にあり、地理的には中立国エルドラドを挟んでの睨み合いが続いていた。
「今の政情を考えると、利用しない方がオカシイんだけどネ……」
やれやれと息をつき、涙をこぼす少年を見下ろすユーリ。
「……お前は、今の自分の価値を自覚するべきだ。早急に」
ジークの言葉は冷たく突き放しているように見えて、実のところ、ユーリよりよほど彼の身を案じて発言されている。
ただ、それを理解し受け止められるほど、まだリッドの精神は成長していないということだ。
王族としては、少し幼すぎる彼の精神構造は、彼自身の生い立ちに起因するものだ。
むしろ、王族という特殊な立場にいる人間としては異常というだけで、一般的に見れば、同年代のフィオナと比べても、よほど健全な精神の持ち主であることは疑いない。
「……この森を出ればお前は、もうただの子供ではない」
「違う……! オレはそんなんじゃない……!」
ジークの言葉を振り払うように、激しく首を振り否定する。
「オレはただのパン屋の息子で、母さんとじいちゃんに育てられて、港町で魚釣って、ダチとバカやって育った、ただの子供だ! 父親が誰かなんて知らないし、どうでもいい! 関係ない!」
「関係ないでは済まされない。王族として生まれた者には、王族としての使命がある」
「血の呪いはいつだってボクたちを縛り続ける。逃れることは出来ない」
同時に放たれた双子の皇子の言葉は、一つの真実を、表と裏から見るように共鳴した。
不意にユーリの手が伸び、リッドの顎に触れる。顔を上げさせ、頬を伝う涙をぬぐう青年の顔が、皮肉げに歪んだ。
「何のありがたみもなくて笑っちゃうケド」
指先についた滴をピンと弾き、続けた彼の台詞は、先のいたわるような行動に反し、相手が最も嫌う類のものだった。
「ましてや君の血は、最も尊いらしいからネ? 我らがアース神の寵児、エマーヌエルの末裔――神の代理人たる法王陛下の、たった一人の実子――」
「うるさい!」
事実を抹消しようとするように、叫ぶ。一際響いたその声が林立する木の幹に反射し、拡散するのを待たず、淡泊な声が追い打ちをかけた。
「リディオ=フェルナンド=リーヴ=フェリーニ=イザヴェル――それがお前の名前だ。否定することは出来ない」
イザヴェル皇国の君主は法王と呼ばれ、すなわち、俗界におけるアース教の頂点に君臨する教皇と同義である。
神聖ディーア帝国が大陸全土を支配した時代も、唯一独立を認められた国家であり、その君主はアース教の始祖、神の子エマーヌエルを初代法王とし、以来、聖人の正統なる後継者によって受け継がれている。
教皇は、大陸の真の支配者たる皇帝の任命権を持つが、統一ディーア帝国最後の皇帝の死後、新たに皇帝の冠を賜った者はいない。
皇帝不在が常態化する中、指針を失った民の導き手として、アース教の総本山は、絶大な指導力をふるうことになる。
『教皇の溜息で大陸が揺れる』――とまで言われた往年の威光は今や影を潜めたが、それでも、大陸の精神世界を支配する神の代弁者が与える影響力は計り知れない。
120年前の法王、光の皇子とも呼ばれた聖者コンスタンティンは、まばゆい光に包まれながら産声をあげたという。
聖なる光の力をもって悪魔を封じたという彼の奇跡は、正統なる血筋を証明する偉功として、今も広く語り継がれている。
現法王はコンスタンティンの直系であり、リッド――リディオは、その血を引く唯一の人間だった。
もっとも、彼がそれを知ったのは、13歳の時だ。
容態の思わしくない法王が、世継ぎとして明るみに出したのが、平民の娘に生ませた隠し子の存在だった。
ある日突然、全ての世界の色を塗り替えられた少年は、迷いの森へと逃げ――束の間の、箱庭の夢を得た。
ずるずると、幹に凭れ地に座り込んだリッドが、焦点の定まらない瞳を虚空に投げかける。
彼の虚ろに滑り込むように、妖しく擦れた囁きが耳を侵す。
「ホラ、早く箱庭に戻った方がいいですヨ、次期法王陛下。まだ――ただの子供でいたいならネ」




