第四十八話 幸せの天秤
鏡に映る己の姿を、フィオナはじっと見つめた。
壁に立てかけられた姿見の鏡は、「女の子の部屋だから」と、この部屋を与えられた数日後に、住人たちが物置から掘り出して与えてくれたものだ。
この部屋が空き部屋で、ユーリの非公認研究室となっていた時には、不要の物だったのだろう。
継ぎ目のない一枚物の大鏡は、それだけで高級品だ。
レインの家の大鏡と比べると高さも横幅も小さいが、細部に繊細な彫刻を施されたそれは、一般市民が手に入れられるような代物ではないはずだ。
こういった物が使われずに眠っているというのも、この家の不思議の1つである。
その中に、水色のドレスに身を包んだ少女が立っている。
城を出た夜に着ていて、森をさまよい歩くうちにボロボロになったのを、ウィルに仕立て直してもらったものだ。
とても大切にしていたが、この森の生活には不釣り合いだと思い、着ることもなく大事にしまっていた。
レナードに与えられた衣装一式は、部屋の隅に片付けてある。
丁寧に髪をときながら、鏡面に映る姿を目にし、久しぶりに見る『王女』の姿に、自分はこんな顔をしていただろうかと、フィオナはふと違和感を感じた。
ここのところずっと、質素で動きやすい服に袖を通し、森の中を駆け回っていたのだから、新鮮さや懐かしさを覚えるのも、不思議ではないのかもしれない。
だがそれとは別に、以前の自分とは、どことなく顔つきや、雰囲気が違うような気がした。
それがいいのか悪いのかは、フィオナには分からない。
だが、この家に来てから確かに、フィオナは『変化』していた。
この時が止まったような優しい空間でも、静かに、確実に、変化は訪れている。
――ならば、変わることを恐れてはいけない。
自身に言い聞かせるように、鏡の中の己に頷き、フィオナは静かに部屋を出た。
※
彼女が1階に下りると、リビングにいたリッドたちが目を見開き、息を飲んだ。
ユーリが口笛を吹く。
「フィオナ……それ……」
ドレスに身を包んで現れたフィオナに対し、一瞬目を奪われていたリッドが、はっと我に返ったように表情を変えた。
「本気かよ?! 本気で行くつもりかよっ?」
「リッド……」
詰め寄る少年に、フィオナが名を呟くと、長身の青年が彼の腕をつかんだ。
「リッド。これは、姫サンが決めたことだ」
「――ラウ。ウィルは?」
リッドを諭すラウを見上げ、問う。
「書斎にいるよ」
予想通りの回答に頷き、歩き出す。自然と道を譲ったカミュに微笑みかけ、少女は奥の廊下へと進んだ。
ウィルとヴァンの部屋のドアをノックするが、返事はない。
室内に入ると、案の定、寝室はガランとしていて、車椅子の青年の姿はなかった。
静かに戸を閉め、更に奥へと進む。
書斎に続く扉の前で、フィオナは一度深呼吸をして、内側にいるであろう人物に呼びかけた。
「ウィル、入っていいかしら」
間を置いて、
「どうぞ」
返ってきた声を聞いてから、ドアを押し開ける。
一本足の円卓の前で、刺繍枠を手にしていたウィルが顔を上げ――入ってきた少女の姿を見て、目を見張った。
そっと卓に針と布を置き、驚いたように紫水晶の瞳が見つめてくる。
「――似合うね」
そんなウィルの表情が、花のように綻んだ。
「それが、君の出した答えなら、俺は応援するよ」
綺麗な笑顔が、細い針のように胸に刺さる。
応えのないフィオナに、ウィルは卓の前に置かれた椅子をすすめた。
前に一度、この部屋を訪れた時にはなかったものだ。フィオナが話があるという伝言を聞いて、気を利かせて運び入れてくれたのだろう。
勧められるまま席につくと、部屋の角に置かれた棚が目に入る。花瓶から零れ落ちそうな、咲き誇る春の花々が芳しく薫った。
「レナードはいい男だよ」
針を片付け、ウィルは十年来の旧友を語るように口を開いた。
「オルフェンの町を見ただろう? あんな国境沿いの小さな町でも、みな豊かに、希望をもって生活している」
オルフェン――不可侵とされるイアルンヴィズの森と境界を接する、アルファザード王国南端の町。
フィオナが初めて見た外国の町だ。
確かに、美しく活気のある町だという印象を受けたのを覚えている。
「アルファザードの国力というのはもちろんあるけど、国が大きいだけでは、ああはならない。レナードはまだ王位を継いではいないけど、内政の多くを取り仕切っている。彼が国の中を見るようになってから、アルファザードはとても良くなったよ。枝葉の先のような市民の生活にまで、豊かさを求める感性と信念がなければ、こうはならない」
穏やかに語る彼の言葉には、まるで身内を誇るような慈愛の響きが含まれている――ように思えた。
「確かに、ナルシストでわがままで、色々突き抜けてるところもあるけど――多分、君なら理解してやれると思う」
その言葉に、きゅっと胸の奥を締められるような痛みを感じた。
「――きっと彼にも、君が必要になるんじゃないかな」
急速に喉が渇いていく。唇を噛み、フィオナは膝の上の拳を見つめた。
彼の『正しい』言葉が、右から左に通り抜けていく。
「フィオナ……顔を上げてくれないかい?」
その言葉だけは不思議と心地よく耳にとどまり、フィオナはすくい上げられるように顔を上げた。
澄んだ紫水晶の瞳と目が合う。
「うん、すごく綺麗だ」
晴れた日の湖面のような静かで清廉な微笑みは、フィオナが好きなものだ。
「やっぱり君には、その姿がよく似合う」
なのに、彼の言葉は、微笑みとは裏腹に彼女を突き放した。
「……私に、いて欲しくないってこと……?」
思わず口をついて出た言葉は、今にもかすれてしまいそうで、フィオナは懸命に声を整え、吐き出した。
――そのつもりだったのに、涙は抑えきれず、勝手に零れ落ちる。
これではまるで子供ではないかと、胸の片隅で自身を叱責するが、止まらなかった。
『必要だ』と言って欲しかったのだと、今更ながらに痛感する。
会って間もない、お荷物でしかない己が、そんな欲を持つこと自体が、わがままで恥ずかしいことだと思っていた。
それでも――自分にとって彼らが大切であるように、彼らにとっても自分が必要だと、言って欲しかったのだ。
「ごめん、なさい……わた……わたし、こんなこというつもり……!」
指先で涙をぬぐい、慌てて取り繕うが、涙線に押されて震える声を隠すことは出来なかった。
こんな姿を見せたかったわけではない。思い通りに話せない自分に、悔しくなる。
強くなりたいと思っているのに、なぜ彼の前ではこんなにも弱音を吐いてしまうのだろう。
ぬぐってもぬぐっても零れる涙に嫌気がさした。
「ああ、もう……!」
突然泣き出した少女に、打たれたように固まっていたウィルが、彼らしからぬ乱暴な仕草で己の髪を掻きあげた。その拍子に、緩やかに肩口で結われていた紐がほどける。
しなやかな弧を描き、背に広がる、長い銀糸の髪。
素早く車椅子で傍に寄った青年の腕に、フィオナは抱きしめられていた。
「馬鹿だな。居て欲しいに、決まってるだろ……!」
絞り出すように吐き出された言葉には、強い苛立ちが混じっていた。
「ウィル……?」
「本当に……自分自身に嫌気がさすよ。でも俺は、こういう生き方しか出来ないんだ。俺は……っ」
それは、フィオナに向けられたものというよりは、自身を責め立てるような呟きだった。
幾拍かの沈黙の後、ウィルはフィオナの頭を抱えたまま、大きく深呼吸をした。
すると強く引き寄せられていた腕が緩み、顔を上げたフィオナを、ふわりと、泣きそうな微笑が迎えた。
「――でも、君は幸せにならなきゃいけない。俺たちのわがままで、君をそばにおいておくことは出来ないよ」
それでも、先ほどの感情の波が嘘のように、彼の主張は変わらなかった。
「俺たちでは、君を幸せには出来ない」
彼は、己の出来ることと出来ないことはよく分かっていると言った。
彼が出来ないということは、きっと出来ないのだろう。
彼が出来ない事を、フィオナが出来るとは思えない。
「分かってる……やりたいことと出来ることは違う」
それは、この森の家に訪れて、痛切に感じたことだ。
フィオナは一人で馬に乗ることも出来ないし、服を仕立て直すことも出来ない。
一人で立って歩いていきたいと思っているのに、外の世界で生きていくには、何もかもが無力だった。
「でも、今を諦めたくはない。まだ……私は、ここにいたい!」
フィオナの訴えに、胸を突かれたように彼の表情から笑みが消え、代わりに、痛みを押し殺すように柳眉がひそめられた。
「レナードはいい男だよ」
繰り返された言葉に――だから、結婚するのが君の為になると――言外にそう言われ、一瞬、沸騰するような苛立ちが沸いた。
「それが私の為って言うなら、そんなの、私は嬉しくない!」
服の袖をつかんだフィオナの剣幕に、ウィルが、深い悲しみを湛えて見つめてくる。
「私はここにいたい」
「ここは、ずっといられる場所じゃない」
かぶりを振ったウィルの答えは頑なだった。
「君も、俺たちも、ずっとこの森に守られているわけにはいかない。いつか、現実と立ち向かう時が来る」
「例え止まり木みたいな日々だとしても、私はここにいられる今が、一番幸せなの」
「フィオナ……」
平行線を辿る会話に、ウィルは意を決したように正面からフィオナを見据える表情を変えた。
「でもね、ここにいるのは決して安全じゃない」
理性的な強い眼差しと、固い声。
「あの矢……」
思い出すような彼の言葉は、アルファザード王国の騎士から最初に受けた襲撃を指しているのだろう。
車椅子で咄嗟に動けないウィルを狙った弓矢は、彼の頭のすぐ横に突き刺さった。
「とうとう来たんだ、と思ったよ」
「ウィルの命を狙っているっていう、国の人間?」
「ヴァンから聞いたんだ」
思い当たる節があったフィオナの問いを、ウィルは間接的に肯定した。
「他に何か言っていた?」
「……………」
『俺はあいつから、全てを奪ったんだ』
あの夜、ヴァンが話してくれたウィルへの想いは、第三者が伝えていいものではない気がして、フィオナは口を閉ざした。
「あいつが、俺から奪ったとか」
「………!」
「やっぱり、相変わらずそう思ってるんだな」
正直なフィオナの反応を見て、そう漏らす。
カマをかけられてしまった。ヴァンへの申し訳なさで、自分の馬鹿正直さを責めていると、
「ゴメン」
そんなフィオナの胸中を見て取ったのか、ウィルが謝ってくる。
ふいにその瞳が、痛ましげに揺らいだ。まるで、フィオナを見つめる先に、何かとても辛いものが存在するように。
「ごめん」
2回目の謝罪は、違う意味が込められている気がした。
「君に偉そうなことを言っておいて、結局俺は逃げてるだけだ――それも、自分の足で逃げることも出来ず、弟を犠牲にしている」
自嘲気味に伏せらせた瞳が、長い睫に隠れる。
「ヴァンから全てを奪ったのは、俺の方だ」
「そんな――」
「俺はこれ以上、大切な人を不幸にするのはごめんなんだ」
フィオナの言葉を遮り、ウィルは強く言い切った。
「あれは、ただの脅しだったけど……本当に、俺の命を狙う人間が、いつ来てもおかしくない。その時に君を巻き込みたくない」
そう言う彼の瞳は真摯だった。本当に、フィオナのことを思ってそう言ってくれているのだと分かる。
けれど――
「俺は、自分の出来ることと出来ないことは分かってるつもりだ」
そうなのだろう。彼は聡明な人間だ。全てを先回りして、理解してしまう。その上で、最善の策を求める。
それは、フィオナがほんの数時間前まで、渇望していた力だ。そんな風に、先を見通せる広い視野と決断力をもって、正しい道を選びたいと、ずっと思っていた。
進むべき道が分かっているはずなのに、なぜ自分は迷うのか。なぜ選べないのか。その幼さや愚かしさを恨んでいた。
(けど、今は……)
「俺より……俺たちより、レナードの方が君を守れる」
正しいことを選ぶ彼の言葉が、こんなにも腹立たしい。
その思いが、表情に出ていたのかもしれない。フィオナの顔を見て、ウィルが苦笑する。
「君にとって、これは、ただの俺のわがままなんだろうな」
その言葉尻を奪うように、馬の嘶きが聞こえた。そして、複数の馬蹄。
「来たね」
予定調和のように顔を上げたウィルの視線が、扉の向こうに投げられる。
そして、名残を惜しむようにそっと右手を取られた。
「――これだけは覚えていて欲しい」
器用で繊細な指先が、フィオナの手を持ち上げ、そっと掌に口吻た。柔らかい唇の感触から、温もりが染みこんでくる。
掌への口吻は――親愛。
「いつだって、俺は君の幸せを願っている」
「そんなの……」
(――そんなの、わがままだ)
先に言われてしまった言葉を飲み込む。
ウィルは、ずるい。
いつだって先に、キレイで正しいことを言ってしまうから、何も言い返すことが出来なくなる。
憮然と口をつぐんだフィオナの耳に、玄関から荒々しく戸を開く音が届いた。




