第四十六話 アタマとココロ
カランコロン
その小さな家に鐘の音が響き、振り返ったフィオナが見たのは、戸口に立つ黒いローブの人物だった。
「ただいまかえりました~」
目深にかぶったフードを下ろすと、予想通り飴色の髪の青年が、予想通りの笑顔で、間延びした挨拶をした。
「レイン!」
待ち人の帰還に、歓声を上げる。
「ったく、ほんっと世話やけるぜ……」
その後ろには、先ほど忽然と消えたヴァリウスの姿があった。今は、人の姿をしている。
「あー、お待たせしてすみませんー。ちょっとそこで迷ってしまいまして」
「一晩行方くらましてて、ちょっと、か……?」
にこにこと言い訳をするレインの後ろに立つヴァリウスの手には、袋いっぱいに詰め込まれたリンゴがある。
「昨日、水魔法で町を壊したことがバレちゃいまして、怒られちゃいました」
ヴァリウスの突っ込みを無視し、彼の手から大量のリンゴを取り上げるレイン。
「一日ただ働きですよもー」
それをフィオナの待つテーブルへと載せると、レインは不満そうに嘆いて肩をまわした。
「まぁお裾分けはもらいましたけど」
紙袋の口から、コロンと赤いリンゴが一つ転がり出る。丸いフォルムのそれが円卓から落ちる前に拾い上げ、フィオナは町で聞いた噂を思い出した。
『最近はねぇ、そういう季節外れのものを食べるってのが贅沢嗜好ってことで、都会で流行ってるんだよ。なんでも、王都の王子様が、魔法使いにリンゴ園の天候を変えさせて作らせてるんだってさ』
思わず、まじまじとリンゴとレインの顔を見比べる。
季節はずれのリンゴの生産に、彼は魔法使いの知識を持ってして携わっていたということだろうか。
「食べます?」
目が合い、艶やかでおいしそうな果実を差し出すレイン。
にっこりと微笑み、付け加える。
「あ、持ってかえっていただいていいですよ。ぜひ、料理の上手な王子様にでも」
「…………」
彼は、どこまで知っているのだろう。ちらほらと、この青年は7人の王子の素性を知っているような素振りを見せる。
「はい、ヴァリウス」
「俺が剥くのかよ!」
笑顔で、ナイフとリンゴを押しつけるレインに、押しつけられたヴァリウスが青筋を立てた。
だが、不満を口にしながらも、彼は不機嫌に奥の椅子に腰を下ろし、器用な手つきでレインに渡されたリンゴの皮を剥き始めた。
それを尻目に、さっそくお茶を入れ始めたレインの姿を見つめながら、フィオナはずっと話を切り出すタイミングを見計らっていた。
季節外れのリンゴすら作れるような、何でも知っている魔法使い――ローズレイン。
「あの、レイン……相談したいことが……」
「ほら、ローズ。剥いたぞ」
かなり逡巡した末に、口を開いたフィオナの声は弱々しく、手早くリンゴを切り分けたヴァリウスの終了宣言に掻き消された。
「はい、ヴァリウス。お疲れ様です。もう帰っていいですよ」
「お前な……」
笑顔であっさりと告げ、レインが奥の壁に手をかざすと、ぽんっ、と煙を上げてその場所に大鏡が戻ってくる。
同時に、ヴァリウスの容貌が精霊のそれに戻った。
その現象にフィオナが目を丸くしていると、レインのぞんざいな扱いにぶつぶつと文句を言いながらも、ヴァリウスは、まるでその先に部屋でもあるかのように、鏡の枠縁をくぐる。
鏡面に吸い込まれるようして姿を消した黒い精霊に、フィオナは慌てて大鏡に駆け寄った。
ぺたぺたと触ってみるが、ひんやりとした固い硝子の感触があるだけだ。
今その場には、レインとフィオナの二人しかいない。
「本当に鏡の精なんだ……」
今更ながらに実感する。
目の前で見た現象は信じるしかないのだが、いろいろと不思議が起こりすぎて、驚きの方が追いついてこない。
鏡の前に立ち尽くすフィオナに、レインが謝罪する。
「すみませんねぇ。また彼の悪い癖が出たみたいで」
「癖……」
あれを癖で済ませるのはいかがなものだろうか。
「あとでよく言っておきますよ。まぁ、あんまり効果はないでしょうけど」
そう付け加え、ふぅ……と嘆くように息をつく。
レインをもってしても、彼の手癖の悪さを改心させることは出来ないらしい。とりあえず、ヴァリウスには今後近づかない方がいい、ということだけは、己の胸に書き留めておく。
「あの、お二人はどういう関係なんですか?」
ヴァリウスは、レインに対する態度と、それ以外への態度が全然違う。2人のやりとりを見ていても、かなり親しい間柄なのだろうとは思ったが、謎が多い。
その問いに、魔法使いはすぐには答えなかった。言いよどんだというわけではなく、単に目の前のリンゴに意識の比重が向いていたからだ。
食べやすい大きさに切り分けられた果物は2つの皿に取り分けられ、銀色のフォークが添えられていた。
文句を言いながらも、そこまで世話をしてから鏡の中に帰っていくヴァリウスは、やはり悪い精霊ではないような気がする。
シャク、と白くみずみずしい輝きを見せる果実にフォークを刺し、口元に運ぶレイン。
3口ほどで一欠片を食べ終わると、ゆっくりと咀嚼してから紅茶に手を伸ばし、ようやく彼は問いに答えた。
「私は彼の主人です」
カップを片手に答えた彼の、片眼鏡の奥の紅い瞳が、妖しく輝いた。
「この鏡はね、母の形見なんですよ」
そう言って、レインは部屋を一瞥した。
「まあ、この家全部が形見といえば、そうなんですが……これはちょっと特別で」
「特別、ですか」
「はい」
確かに特別だ。中にあんな青年が入っているのだから。
「この世に2つしかない鏡です」
「2つ……?」
「ええ。ひとつはこれ、母の形見の品で、もうひとつは最近まで、母の姉が持っていたはずなんですけどね」
立ち上がり、レインは鏡と対峙するフィオナの傍らに立った。自らの背丈よりも、遥かに大きい姿見の鏡に手を添える。
細い腕がローブからこぼれ、磨き抜かれた鏡面に映り込んだ。
そういえば、埃をかぶった部屋において、この鏡には、塵一つついていない。
「今は、別の人間の手に渡っています」
大事な物なのだろうと、そう思った。
「特別な、魔法の鏡……」
「はい」
こちらを振り返ったレインが、間近で笑顔を見せる。
「この鏡に彼を封じたのは、私の母です。『彼』ごと私が受け継いだと、そう思って頂いたら結構です」
レインの説明は、簡潔で分かりやすかった。多分、フィオナにも分かるように簡単に言ってくれたのだろうが、確かに、詳しいことを聞いたところで理解できる自信はなかった。
そういうものなのだと納得することにして、フィオナは席に着き、差し出されたリンゴの欠片を一口囓った。みずみずしい甘さが口の中に広がり、喉を通る。
ついもう一つ、と手を伸ばしながら、フィオナはリンゴと一緒にレインの説明を咀嚼していた。
……ということはつまり、その『別の人間』がレナード王子なのだろうか。変わったモノを蒐集するのが趣味だというレナードならば、いかにもありそうな話だ。
そんなことを考えていると、
「では本題に入りましょうか」
席に戻ったレインが、唐突に切り出した。
「私に聞きたいことがあるんでしょう」
フィオナの目的を、最初から知っているような口ぶりに、もはや驚くことはなかった。きっと、彼にはそれくらいお見通しなのだ。
どこから話すべきか悩み、フィオナは最初から説明することにした。
「レイン、あのね、実は……話せば長くなるんだけど……」
「あぁ、いいですよ。全部『知って』ますから」
「え……?」
切り出した前置きをあっさりと遮られ、さすがのフィオナも呆気にとられた。確かに、彼は何でも知っていそうだ、と思ったのは確かだが――
「私はこの森の魔女ですから、この森で起きていることは全て把握しています」
当然のようなレインの口ぶりからは、誇張も嘘も感じられない。
レインの黒衣の上を、白い塊が走った。素早く肩まで駆け上ったセバスチャンを指先で撫で、レインは穏やかに笑んだ。
「――ねぇ、セバスチャン?」
「じゃあ、あの、森の家は……レインが……?」
森の中に突如現れる、不思議な家。
森の中だというのに門があり、上質の硝子窓の嵌められたその家には、望むものが全て揃っていた。
誰が、何のために、あの家を建てたのか。
奇妙な縁で、一つの家に導かれた、共通点を持つ若者たち。
それが奇跡に近い偶然でなければ――誰が、何の為に――
――そう疑問に思ったことは、確かにあった。
「何のために……」
「何の為?」
思わず、かすれた声でそう口にしたフィオナに、レインは奇妙な単語を聞いたとでもいう風に首をかしげた。
「そう、定められているからですよ」
左右異眼が笑う。どこまでも冷めた眼差しで。
彼は、どこまでも高い視点から、フィオナたちを見下ろしている。冷ややかに、平等に、全てを見渡している。
目の前の人物にとっては、フィオナの抱える悩みなど、取るに足りないことなのかもしれない。
彼と話していると、己がとても小さく、無知な存在のように思えた。
ソーサーに置いたカップの取っ手に指を這わせ、フィオナは視線を落したまま呟いた。
「……私、どうしたらいいんでしょうか」
違う、こんなことが聞きたいわけではない。フィオナは小さく首を振った。
これでは、今までの自分と何も変わらない。
ただ、道を提示して欲しがっているだけだ。
客観的な立場にあるレインに助言を求めには来たが、答を求めに来たわけではない――答は、自分で出さなければいけない。
「ウィルが言うことは、正しいと思うんです。何度考えても――正しい」
言葉を選び、フィオナは己の思いを吐露した。
――本当は、道なんてはじめから1つしかないのかもしれない。
そう思うほどに、ウィルが指し示した方向は、考えれば考えるほど、正しいのだ。
「私はここにいても、どこにも進めない。ここにいる限り、時間は止まってる。居心地のいいまま、止まってるから」
視線をティーカップの水面に落としていたレインは、それでも、フィオナの言葉に静かに耳を傾けていた。
「でも、『永遠』なんてない」
レインが黙って頷いた。
この短い間にフィオナを取り巻く環境が大きく変わったように、緩やかに過ぎるこの森の中での時間も、決して永遠ではない。
時は、残酷なほど平等に流れる。来るべき時はいずれ来る。今来なければ、来るべき時に来るだけだ。
ただ流されて時機を待つのか、己の意思で時機を選ぶのか。
その違いは、とても大きいような気がした。
「皆がこの家を出ていかなきゃいけない時、私はどこにも行く場所がない……そうなったら、きっとみんな心配する。私は、あの人たちの足手まといになりたくない」
紡ぐ言葉は、己自身に言い聞かせるものだった。
「レナード様は、きっと悪い人じゃない。あれだけ国民に慕われているのだから、きっと良い王様になる。私が生きていることが分かって、アルファザードに嫁げば、お父様もとてもお喜びになる。もう命を狙われる心配もない。国にとっても、大国と縁が結ばれれば、心強い――」
最善の選択だ。
まるで栄光のディーア通りのような――地平線の先まで見渡せそうな、美しく整備された大通りを渡るように、未来が明確に視え、全てが丸く収まる。
あとはただ、フィオナがレナードの手を取ることに、頷けばいいだけ――
「あなたは、どうしたいんですか?」
リアリティを伴った想像を打ち砕いたのは、レインの率直な問いかけだった。
そのシンプルな質問はあまりにも唐突で、フィオナは頭で考えるよりも前に、胸に浮かんだ答を口にしていた。
「……あの家に、いたい……」
あの日々が、ずっと続いてくれたらいいのにと思う。
(でもそれは――)
あり得ない絵物語。
『今』は、いつ終わってもおかしくない。ただ、皆己の人生の中の、ほんの限られた時間を、共有しているだけにすぎないのだから。
「あなたは、ココロをアタマで考えるタイプですね」
悶々と、昨夜から何度も巡っている思考に没頭していると、それらを見透かしたようにレインが言った。
「え……?」
「いえ、私は好ましいと思いますよ。感情でしか動けない人間は、時にとても愚かで、醜い」
その冷めた眼差しは、底冷えするような深い闇を抱えているように見えた。
「ただ、そうやって生きるには――あなたの生は、少し短すぎるかもしれません」
「生が……短い……」
己の人生が長いとか短いとか、そんなことは考えたこともなかった。
目から鱗が落ちるような一言に、フィオナはしばし、ぼんやりと彼の貌に見入った。
「あなたを見ていると、なんとなく思い出しますよ」
ふわりと、微笑んだ彼は懐かしそうに眼を細めてフィオナを見返した。
「たった数十年の短い生を――あなたは完璧に生きる必要がありますか?」
完璧に生きる? そんなことは考えたこともない。
――ただ、どう生きるべきかは、常に考えているかもしれない。
この先の理想の人生を夢見ることもあれば、現実的な周囲に求められる生き方を考えることもある。
未来のあらゆる可能性を考えて、逆に道を選べず立ち往生しているような――
(ああ……これが、完璧に生きようとしているってことなのかしら?)
正しいと思える道を選ぼうと悩むことは、当たり前のことのような気がするけれど、それがいけないのだろうか。
「なにもいけないことはありませんよ」
やはり、まるで心の声を読んだように、レインの声が穏やかにフィオナの思考をすくい上げる。
「ただ、迷い立ち止まり、もがいてどうしようもないっていうなら……アース神に祈るよりも、魔法使いに頼るよりも――単純に、あなたのココロに聞いて見るのが早いんじゃないですか」
紅と翠。色の違う2つの瞳は、透明なようでいて、その先を見通すことはできない。
映るのは、己の姿ばかり――まるで鏡だ。
だから、無性に彼に会いたかったのかもしれない。
「フィオナ」という人間を、教えて欲しかった。
――どこまでも冷めた、真実を映すその瞳で。
その後、2人の間に会話が続くことはなかった。
黙り込んでしまった少女は、ゆっくりと紅茶を飲みながら、揺らぐ水面に視線を落としていた。
「……帰ります」
「はい、お疲れ様です」
紅茶を飲み終わり、音もなく立った少女が放った一言に、レインは気を悪くすることもなく、にこやかに見送った。
ふらふらと出入り口に向かう華奢な後ろ姿が、扉を出る瞬間、はっと気付いたように振り返る。
「お茶、ごちそうさまでした!」
「どういたしまして。帰るときは、まっすぐ、迷いなく進んでくださいね。決して振り返らないこと……じゃないと、もう戻れないかもしれませんよ?」
脅すように声を潜めると、少女の顔がわずかに青ざめ、はっきりと頷いた。
素直な反応に、思わず笑ってしまいそうになるが、その時にはすでに、彼女は外に飛び出していた。
どうやら走って帰るらしい。そこまで、怖がらせたつもりはないのだが。
カランコロン
不揃いな鐘の音を立て、扉が閉まる。
おもむろに、彼は手元の白い果実をフォークで突き刺した。
シャクリ――と、暫く咀嚼音だけが、狭い部屋に響く。
「……本当に、面倒な生き物ですよねぇ、人間って」
最後の一口を飲み込んだ後、言葉を話すものが他に誰もいなくなった空間で、ぽつりと、魔法使いは冷めた感想を漏らした。
「単純に生きるのも、複雑に生きるのも悩ましいなんて」
チチッ――と、卓の上で白ネズミが鳴いた。言葉は話せないまでも、言葉を理解しているその小さな生命を見下ろす。
「ま、どうでもいいですけど」
ルビーのような瞳で見上げてくる小さな頭を指先で撫で、ローズレインは底に残った紅茶を飲み干した。




