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第四十五話 誘惑にご用心


「こんな場所に、何かご用ですか? 美しいお嬢さん」


 フィオナを見てにこやかに微笑んだ青年は、優雅な仕草で席を立った。


 この人は多分、「近づいてはいけない人」だ。


 そう思い身構えるが、狭い部屋では数歩の距離を詰められ、瞬きの間に、驚くほどの長身が目前に迫った。


 独特の空気感に気圧され、緊張で心拍数が上がる。フィオナは、ほとんど真上にあるような白い顔を見上げた。


「あ、あの、レインに……」

「彼なら留守ですよ。お茶を入れましょう。少しゆっくりしていくといい」

「はぁ」


 踵を返した彼は、フィオナから離れ、奥の棚から食器を取り出して、テキパキと準備を始めた。


 昨日の再会では、いきなり指先に口吻されたものだから驚いたが、意外にも紳士的な対応に、そこまで警戒しなくてもいい人なのかもしれない、という思いが過ぎる。


 そろそろと部屋の奥に進むと、気付いた青年が、そつなく手前の席の椅子を引き、招いてくれた。


「どうぞ」

「ありがとうございます」


 反射的に礼を言い、勧められた椅子に座ってしまう。


 やけに機嫌よく鼻歌など歌いながら、茶の用意をする後ろ姿には、妙な愛嬌がある。初見で感じた異様な存在感との乖離が激しく、フィオナは肩すかしを食らったような気分になった。


(悪い人ではなさそう……?)


 レインやルイロットが警戒していなかったのだから、こちらに危害を加えるような人物ではないのだろう。と思い直す。

 ……そもそも、人間でない可能性の方が高いのだが。


 血が通っているのかと思うような青白い肌。左の頬に広がる、何かの文様のような不思議な痣。そして、先の尖った長い耳。


 思わずじっくりとその横顔を観察しているうちに、香ばしい湯気の立つ紅茶を差し出された。


「どうぞ」

「ありがとうございます」

「どういたしまして」


 目が合うと、艶めいた唇が弧を描いて笑んだ。


「…………」


 微笑み返しながら、フィオナはわずかにその笑みが引きつったのを自覚した。


 なんだろう、この、胸の奥がざわざわとする感じは。


(こうやって向かい合って話しているだけで緊張するというか、変に身構えてしまうと言うか……)


 悪い人ではないのかもしれないが、どうも気が抜けない相手だ。


 どうにも落ち着かないまま、助けを求めるように部屋を見回すと、ヴァリウスの背後に、場違いに鎮座する大鏡があった。


(鏡……)


 渡されたティーカップに口をつけ、大鏡と、それを背に長い脚を組んで紅茶をすする青年の姿を交互に見やる。


「あなた、何者なんですか?」


 喉を潤してから、フィオナは気になっていたことを単刀直入に聞いた。


 レナードの従者であったり、レインとともに行動していたり、出会うたびに謎が深まる人物だったが、何より、今この場にいる彼の姿は、明らかに人ではない。


「私は、鏡です」


 青年の答は、シンプルだった。


「鏡?」

「そう、真実を映す鏡」

「真実……?」


 オウム返しに呟き、彼の背後に立つ大鏡を見る。 


 あの鏡には、ヴァリウスという鏡の精が住んでいる、とルイロットは言っていた。


「本当に、鏡の精……」


 ごくりと唾を飲み込む。次にフィオナの口をついて出たのは、自分でも予想外の問いかけだった。 


「あなたは、何でも知っているんですか?」


 軽く首をかしげたヴァリウスの、相手の出方をうかがうような沈黙に、フィオナは補足した。


「――私の未来も、映せますか?」

「……私は真実を映す鏡ですから、定まらない未来を映すことは出来ません」


 即答された回答に、落胆と同時に、ほっとする。

 どうやら、真実を映す鏡にとっても、未来は決まっているものではないらしい。


 自分で選べるものなのだと、そのことが再確認できたような気がして、フィオナは妙な安心感を得た。


「ですが――今のあなたの心の真実を、映すことは出来るかもしれません」

「え……」

「見たい、ですか?」


 蠱惑的な笑みともに投げられた誘惑は、フィオナの心の隙間に、するりと潜り込んだ。


「真実を映す鏡は嘘は言わない。ただ、それだけですよ――」


 何ということはないとでも言うように、背徳めいた声が手招きする。


 ――見たいのだろうか。


 この、自分でも見極められない、己の心が映す真実を。


「もちろん、あなたは私の主ではありませんから、代償は頂きますが」


 付け加えられた一言に、揺らぎかけた気持ちを引き戻す。


 彼の誘惑は、まるで悪魔の囁きのようで、魅力的であると同時に、危険な香りがした。


(いけないいけない)


 ぶんぶんと頭を振って、フィオナはねっとりと纏わりつくような誘惑を振り払い、話題を変えた。


「あなた、闇の精霊だったんですよね……?」

「……それは、誰から?」


 少しばかり、ヴァリウスの声音が変わった。


「ルイロットが言ってました。闇の精霊で、悪いことをして精霊の長の怒りを買って、属性を剥奪されたって」

「あぁ」


 納得したように頷くヴァリウスは、確かに、視覚的なイメージから言えば、鏡の精というよりは闇の精霊と言われた方が、まだ幾分かしっくりとくる。


「人のことべらべらしゃべりやがって……」


 こめかみをかき、小さく呟いた彼のぼやきが聞こえる。


「まぁ、そういうことにしておきましょうか」


 不服そうに、だが含みを残した言葉でそう答えた鏡の精が、仕返しのように教えてくれた。


「あのガキ……じゃない、お子様こそ、元は風の精霊で、いたずら好きが調子に乗って森で大火事起こしたせいで属性を剥奪されて、メソメソ泣いてたのをローズに拾われたんですよ」

「そうだったの?」


 ルイロットが風の精霊。こちらは、イメージがぴたりと当てはまった。


 まるでおとぎ話に出てきそうな、ふわふわで軽やかな、愛くるしい姿を思い出し、納得してしまう。

 だが、ヴァリウスと違って、ルイロットは不思議な色の瞳を除けば、見た目は人間とほとんど変わらない。

 もっとも、その姿すらも、先日のヴァリウスのような仮の姿である可能性も、否定できないが。


 ティーカップを置き、物思いにふけるフィオナの右手に、体温の低い白い指先が絡められた。


「私のこと……もっと教えてあげましょうか?」

「え?」


 手を握られ、顔を上げたフィオナの目の前に、爛々と輝く黒い瞳があった。


「あ、あの……っ」


 驚き、手を引いて立ち上がったフィオナの目の前から男の姿が消え、ふっと背後に気配が現れる。

 ――正面の鏡に、フィオナのすぐ後ろに佇む長身の青年の姿が映っていた。


(何で? いつの間に……)


 顎に触れる指先の冷たい感触。首筋にかかる熱い吐息。


 フィオナは声も出ず、首の皮膚に吐息が触れるその様子を、鏡越しに見つめていた。

 笑みを刻んだその唇から、白い牙が零れる。


「ッ……」


 今すぐ逃げ出したいほどの恐怖に駆られているのに、金縛りにあったように動けなかった。

 目を見開き、愕然と鏡面を凝視する己の強ばった表情が、まるで他人のモノのように映る。


 顎に触れていた手が頬に滑り、指先が唇をなぞる。肌が粟立ち、フィオナは吐息を漏らした。

 ゆっくりと……まるでスローモーションのように、首筋に唇が落ちるのを、ただ鏡越しに眺めていた――その時。


 ピカッ――と、鏡面が光を反射するように輝いた。


「…………」


 それに合わせて、鏡に映る彼の姿が一瞬、薄らいだ気がした。

 窓のないこの家で、強い光を照射するような光源は見当たらない。


「にゃろう……」


 耳元で呻く声が聞こえ、顎にかかっていたヴァリウスの指先から力が抜ける。

 金縛りから解かれたように、フィオナはその腕をすり抜け、テーブルの反対側に逃げ込んだ。


 相手に背を向けたくなくて振り返った時に、勢い余って背後の棚に腕をぶつけてしまう。

 棚の上の檻が音を立てて揺れ、チュー! という小さな悲鳴が聞こえた。


(ごめんなさい、セバスチャン!)


 余裕がないまま、心の中で謝る。

 安眠を邪魔された白ネズミが寝床から姿を現し、衝撃で外れた戸から飛び出した。フィオナの腕を伝い、素早く肩に這い上がる。


 チュー! と、もう一度、フィオナの肩の上で、ヴァリウスに向かって鳴き声を上げた。


 まるで威嚇しているようだ。


「生意気なネズミ……」


 白ネズミを視界に入れたヴァリウスが、ひくっと顔を引きつらせる。


 再び鏡が明滅し、今度は確かに、ヴァリウスの姿が幻のように薄く揺らいだのが分かった。


「わーったわぁった!」


 ここにいない誰かに疎ましそうに腕を振り、ヴァリウスが声を上げる。


「ったく、いいとこで邪魔しやがって……目でもついてんじゃねーだろうな……あ」

 

 毒づくヴァリウスが、何かに気づいたようにセバスチャンを見る。


「お前かよ……」


 今度こそ、何とも言えない苦虫を噛み潰したような顔で、呟いた。


 チチッ、と応えるようなタイミングで鳴いたセバスチャンの赤い目が、じっとヴァリウスを見つめている。

 

 今度は、鏡面とヴァリウスが2度明滅した。

 何かを急かすようなその様子に、鏡の精が大きく息を吐く。


「わぁってるって……しょうがねぇなぁ。オイ、あんた」


 不機嫌そうに呼びかけた声は、先ほどとは随分と印象が違った。


「ちょっくら迎えに行ってくる。勝手に逃げんなよ? 家に帰れなくなるぜ」


 そう言い放ったヴァリウスの姿が一瞬薄らぎ――次の瞬間、その場から消滅する。


 同時に、部屋の最奥に置かれていた大鏡もまた、嘘のように掻き消えていた。


「……どういうこと……?」


 一人残され、呟いたフィオナの問いに応えてくれる者はいない。


 所在なく、フィオナはしばらくその場に立ちつくした。


 まるで全てが白昼夢であったかのような静けさが、その小さな家に訪れる。

 つい先ほどまで、異様な存在感を示していた大鏡があったはずの場所が、ぽっかりと空いている――その虚ろな違和感だけが、かろうじて先ほどまでの出来事に現実味を添えていた。


 何がなんだかさっぱり分からないが、とりあえずフィオナは椅子に座り、おとなしく待つことにした。

 あんな目に遭った後に、ヴァリウスの言葉に従うことにいささかの抵抗はあったが、ここに至るまでの道筋すらも、霧に覆われて分からない以上、むやみに逃げ出したところで、遭難する可能性の方が高いのは確かだ。


 背筋を伸ばし、先ほどまで鏡があった壁を睨むようにして座っていると、円卓の上に、ちろりと白い影が走った。セバスチャンだ。


「さっきはありがとう、セバスチャン」


 フィオナは、鏡の精に立ち向かい、助けてくれようとした白ネズミに礼を言った。

 すると、ネズミはちょうどフィオナの目の前で、後ろ足で立ち上がった。つぶらな瞳が、こちらを見上げてくる。小首をかしげる姿が、なんとも愛らしかった。


「私は、どうしたらいいのかな」


 少しだけ気持ちが落ち着き、フィオナはセバスチャンに語りかけた。

 どうせ、他に話し相手もいない。


 話を聞いて欲しかったレインは、ここにはいない。


「……今がずっと続かないのは、分かってる」


 肘をつき、距離を近づけたフィオナから、白ネズミが逃げることはなかった。そのことに甘え、卓に伏せるようにして顔を近づけ、目の前の小動物に近い目線で呟いた。


「でも、認めたくない……のかしら」


 その先の未来が何も見えないまま、今の温かい時間を手放したくないと思ってしまうのは……子供じみた我が儘だろうか。


 冷静に判断するならば、ウィルの言う通りなのだろう。

 彼らは優しいから、いつか彼らが旅立つ選択をする時、とり残されるフィオナのことを気にかけるはずだ。それはもしかしたら、彼らの大事な選択に影響を与えてしまうかもしれない。


 母国でフィオナの死を嘆いているであろう父王にとっても、エルドラドの未来のためにも、レナードに嫁ぐというのが、最善の選択であるはずだ。


(でも……)


 こんな風に、諦めきれない気持ちが残るのは、なぜだろう。


 以前の自分ならば、仕方がないと割り切れていたはずだ。

 それが己のあるべき姿なのだと、そうでない道があるなど思いもせず、漫然と用意された道を歩いていけたはずだ。


 ――今は、道が2つある。


 どちらへ進むのか、選択を迫られている。


 自分で選ぶとは、つまりは、そういうことなのだ。


 カランカラン


 その時、不揃いな鐘の音が響き、思考に没頭していたフィオナは、弾かれたように戸口を振り返った。





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