第四十三話 微笑みの真実
こんなところまで一人で出てきたのは、いつぶりだろう。
……といっても、実は弟の目を盗んで一人で出歩くことは、そう少なくもないのだが。
やわらかな月明かりの下、冷めた夜風を受けながら、ウィルは目前にそびえ立つ大樹を見上げていた。
草木すらも寝静まった時刻。
寝室を抜け出したウィルは、一人、車椅子で夜の森へと出かけていた。
ヴァンは気配に聡いから、ウィルが起きたことは分かっているだろう。
呼び止められなかったのは、先ほどの席での気まずさからか。
まさかこんな風に、夜中に外に出るとは思っていないのかもしれない。……部屋に戻ったら起きて待っていて、怒られる可能性も大いにあったが。
怒られるのは嫌だな、と思いつつ、仏頂面で腕を組んで待っている彼の姿を想像すると、自然と笑みがこぼれた。
結局、そんな口うるささを期待しているところもあるのかもしれない。
「もう咲いてませんヨ」
――唐突に、背後から声をかけられた。
振り返らずとも分かる声の主に、ウィルは視線を大樹に向けたまま、応えた。
「うん、すっかり散っちゃったね」
「雨も降りましたからね」
草を踏みしめる音が近づき、ウィルの隣を通り過ぎる。縦横無尽に枝葉を広げる樹の下に立った青年の背中で、灰色のしっぽ髪が揺れた。
細長い体を折り曲げて地面に手を伸ばし、縁が茶色くなった花びらを摘みあげる。
「まだ夜は冷えますヨ」
花弁を手に、振り返った翡翠の瞳がウィルを映し込む。
「ヴァンみたいなこと言うね」
「一応、言っとこうかと思って。代わりに」
「ふふっ、ありがとう。でも大丈夫」
ユーリは薄く笑みを浮かべると、ウィルに近づき、何も言わず車椅子を押した。
樹齢を感じさせる太い幹が近づき、夜の闇に手を広げる巨大な生き物のような枝葉に迎え入れられる。
見上げると、暗い葉の影が重なる中で、月光を受けた葉の一部だけが、明るい翠色に淡く輝いていた。
数日前までそこにあったはずの、優麗な花天井が夢幻だったかのように、力強い春の息吹が、そこには息づいている。
この場所を初めて訪れたのは、弟と2人、不思議な森の家にたどり着いて、最初に迎えた春の頃だった。
恐ろしく美しく幻想的な光景に、その時は死すら感じた。
あの風景を見て死後の世界を連想するとは、当時の自分も、随分と危うい思考をしていたらしいと、今になって思う。
「ウィルの花だそうですよ」
「え……?」
記憶の中の花装束を思い起こしていると、そんな言葉が耳に届いた。
見ると、こちらを見下ろしてくるユーリが、傍らで肩をすくめて続けた。
「お子サマがわざわざ報告にきました。フィオナと仲良くなれたみたいで、自慢げでしたよ」
「君、意外になつかれてるよね」
「遊び相手だと思われてるんですヨ」
「はは、同レベルだ」
「酷いなァ」
笑い飛ばすと、ユーリが眉根を寄せて、笑みの形に唇をゆがめた。困っているのか、面白がっているのか、それすらも読めない表情。
「俺の花、ね……」
そんな彼の薄っぺらい嘆きを受け流し、呟く。
怒りに燃え上がらせた黄金の瞳に涙を溜め、背を向けたリッドの姿に、同じ年頃の少年の姿が重なる。
「今それを聞かせるなんて、君はいじわるだなぁ」
「おや? 少しはアナタに、罪悪感を抱かせることができましたかね」
分かりやすいユーリの皮肉に、ウィルは唇を尖らせてみせた。
「ひとを無神経みたいに言わないで欲しいな。ちゃんと傷ついてるよ。ちゃんと、ね」
「それは良かった」
「……君、俺のこと好きだろう?」
「よく分かりましたね。つい、いじめたくなるんですよ」
「ははは」
ユーリは片眉をあげた。これを笑い飛ばす彼が面白い、とでもいうように、興味深げな目でウィルを見下ろす。
「ヴァンも、ずいぶん彼女のことを気にかけているようですね」
「何が言いたいの?」
「ヤキモチですか?」
彼は、普段の言葉は分かりにくい癖に、皮肉だけはストレートだ。おそらく、本音ほどわかり難く、相手に伝わらないようにしている。それを読み取れる者だけが、彼とまともに意思疎通が出来る。随分と高いハードルを、他人に対して設けているらしい。
クスッと笑い、ウィルは泰然とユーリを見返した。
「そう見える?」
探るように、翠の瞳が、じっとウィルを見据える。
ない眼鏡のブリッジを押し上げるような仕草で、右手で顔に触れた。
ともすれば吸い込まれそうな程の鮮やかさで、見る者の心に手を伸ばしてくる翡翠から目を逸らさないのは、もはや意地のようなものだった。
「君の目、怖いよ」
「よく言われます」
しばらく互いに目を逸らさず見つめ合いが続いたが――やがて、分からない、という風に肩をすくめ、ユーリが首を振った。
少しだけ、子供じみた優越感が湧く。人に譲れないものなどほとんどないウィルだが、つい、彼の挑戦はこうやって受けてしまうことがある。
顔に出したつもりはないが、勝利を誇るウィルの内心に気付いたのか、急に笑みを消したユーリの手が肩口に伸びた。
サイドでゆるく束ねた長髪から、毛束を引き抜く。指先に絡めたそれをピンと引っ張られるが、痛みは感じなかった。
「イイワケを聞いてあげてもいいですよ?」
もしかしたら――実は少しだけ、彼は怒っているのかもしれない。
ユーリの言葉に混じるわずかな『本音』から、そんな可能性に思い至る。
だとしたら、それは驚くべきことだ。彼が怒る理由はいくつか想像できるが、いずれにせよ、今一つ実感がわかない。彼がそんな風に人に執着すること自体が、想定外だった。
少しずつ、何かが変わっている――動き出しているのかもしれない。
ユーリは、あの場で己のスタンスを明確にはしなかった。だが、その根底には、彼女を引き留めたいという思いがあったのだろうか。
思わず探るようにじっと見上げるが、その瞳の奥底が簡単には読めないのは、ユーリも同じだ。
「俺たちでは、彼女を幸せに出来ないよ」
ユーリの言葉通り、『言い訳』を、ウィルは口にした。
黙ってその言葉を聞くユーリの顔に、いつもの謎めいた笑みはない。
人形のように表情を消し、ただ人の髪を弄ぶ指をじっと見ている。
指先を滑る艶のある銀糸が、月明かりを反射してキラキラと輝く。
それに対し、ユーリの髪は、月の光すら吸収するように鈍い鋼色に淡く輝いていた。
癖のない真っ直ぐな髪は、どこか硬質で、刃のようだ。
ユーリは、言葉で人を刻む性質がある。
それを自覚して、煙に巻くように人に近づかない。
それでもウィルには、たまに気まぐれな猫のように近づいてきては、言葉のナイフを投げてくるのは――嫌われているのか懐かれているのか――その両方かもしれない。
「傷つけるのはね、趣味じゃないんだ。君と違って」
この程度の皮肉を返したところで、彼は何とも思わない。薄い唇にわずかに笑みが戻り、小さく首を傾けたユーリの反応を見る。
「でも、必要な時はある――そう思わない?」
その回答に、彼は笑みを深めた。
「アナタは、いつだってキレイで正しい」
シニカルな笑みには、見えない刃が潜んでいる。
「ソレ、つまんなくないですか?」
「つまらなくはないよ。とても、楽しんでる」
「怖いなァ」
「そう言ってくれるのは、君くらいだよ」
「怖いですよアナタ……壊れそうで」
付け加えられた言葉に、ウィルは、彼のミスリードに気付かされる。意外さを隠さず、問いかける。
「俺を心配してくれてるの?」
「さァ、どうでしょう?」
髪を弄びながら、車椅子の背にもたれ掛かり、彼は花びらの散った湿った芝に座り込んだ。
はぐらかされたところで、会話が終わる。それ以上追求する無意味さを知っているウィルは、話題を変えた。
「この樹、君の故郷にはたくさんあるのかい?」
「場所によりますね。あまり寒すぎても咲きませんし。ここほど暖かくてもよくないみたいです。ただ、植栽はよくされているので、王都なんかは見事なもんですよ」
「聖日祭の次の満月の日に満開になるんだっけ?」
「今年は聖日祭の3日後が満月だそうです」
こういった知識を教えてくれるときだけ、彼の言葉はとても明瞭になる。
「不思議だな、一体どうやって数えてるんだろう?」
「精霊が数えてるんじゃないですか」
「ははっ、それは素敵だな」
笑う。本当だったら、素敵だ。
だが、リアリスト2人の会話に本当の意味での感嘆はなく、幻想の象徴のような単語は、軽口の一部として流れていく。現代においての『精霊』とは、つまりはそういう存在だ。
「じゃあ、これからだね。いいな、一度見てみたい」
「行きますか?」
「フフッ」
ユーリの誘いに、ウィルは笑った。笑って、誤魔化した。
意図したものではなく、それは条件反射的なものだった。そのことに笑ってから気付き、自嘲する。これは、悪い癖だ。
彼の提案に真剣に向き合うつもりで、ウィルは大樹を見つめた。闇に沈む太い幹の表面は、目が慣れると様々な形にうねり、歪んでいるのが分かる。
「君の国は……遠いね」
膝をさする。
無意識の行動だが、ユーリが目の端でそれを捕らえた。
だがまるで気付いていないように、彼は相づちを打つ。
「そうですね」
遠い……それは、距離だけの問題ではないのかもしれない。
「アナタの国も遠いですよ」
「うん、そうだね」
もう一度、膝をさする。
「本当に……お互い、ずいぶん遠くまで来たものだね」
大樹に吸い込まれるような呟きが落ちる。
応えはない。
ただ、やわらかな月光が注ぐその場所で、流れる静謐な時間。
澄んだ空気と一体化しそうなほどの静けさの中で、ウィルは、木漏れの月明かりを辿った。
その夜、密やかに交わされた彼らの言葉に潜む真実を――
月だけは知っているように、静かに微笑んでいた。




