第四十二話 ふたりぼっち
オルフェンの町を出てイアルンヴィズの森に入る頃には、とっぷりと日が暮れていた。
3月の夜の森は、まだ肌寒い。
強い風が、木の葉の間を音を立てて通り過ぎ、フィオナの黒髪をさらった。思わず身をすくめると、急に後ろから回っていた腕に力が込められ、ヴァンの胸に引き寄せられた。
「やはりこの森は冷えるな。少し急ぐか」
耳元で囁かれ、つい緊張してしまったフィオナは、答えの代わりに頷く。
言葉の通り歩を早めたクンツァイトに揺られ、森の家にたどり着くのは、思っていた以上に早かった。
このクンツァイトが全力で走れば、一体どれだけの速さを見せるのだろうと思うと、いつか故郷のヘイムダル大平原を疾走する彼を見てみたい気持ちに駆られる。もちろん、乗るのは無理だろうが。
「ウィル……?」
鬱蒼と木々の生い茂っていた視界が開け、突如現れる玩具のような可愛らしい一軒家。
森の中なのに門があり、その左右には綺麗に手入れされた花壇がある。
雲一つない空に瞬く星と月の明かりに照らされた――まるで、童話の中から飛び出したような空間。
その幻想的な風景に溶け込むように、儚げな車椅子の青年が一人、庭に佇んでいた。
「ウィル!」
咎めるように叫んだヴァンの声の大きさに驚く。門までの短い距離を今までにない速さで馬が跳び、フィオナはクンツァイトのたてがみにしがみついた。
「やあ、おかえり」
対するウィルは、突然目の前に表れた巨大な獣に動じた様子もなく、顔を上げ、ふわりと笑った。
「何をしているんだ」
ヴァンはすぐにフィオナを下ろしてくれたが、彼の視線は常にウィルに向けられていた。足早に、車椅子の兄に近づいていく。
微笑みを湛えたまま、ウィルは弟を見上げた。
「花を眺めていたんだ」
「それは分かるが、何もこんな時間に一人でいることはないだろう」
「そういう気分の時もあるよ」
「ウィル……」
のらりくらりと交わす兄に、ヴァンが低く呻く。
今にもいつもの説教が始まりそうだと、思った矢先、ウィルは肩をすくめて車椅子の方向を転換した。
「分かってる。もう戻るつもりだったんだ」
少し、疲れたような声だった。
「フィオナ、パレードは楽しめた?」
ヴァンがそれ以上の追求を止めると、ウィルはいつもどおりの優しい声で聞いてきた。
「ええ、とても素晴らしかったわ」
「そう、良かった」
いつもなら、何も言わずともヴァンがウィルの車椅子を押し家に戻るのだが、その時だけは違った。
「押してもらっていいかい? フィオナ」
「あ、はい」
ヴァンが動く前に名指しで頼まれ、フィオナはその様子を不思議に思いつつも、言われた通りに彼の車椅子を押した。
「すまないね」
「ウィル……?」
――いつもと少し様子が違うウィルからかけられた、謝罪の言葉。
その響きには、別の意味が込められていたような気がした。
フィオナは、いつまでも掴めない花びらが落ちていくのを眺めているような心地で、ヴァンが扉を開いて待つ斜路を上った。
2人の帰りを待って始まった、少し遅めの晩餐の後――
普段ならば各々好きな時間を過ごすはずの住人たちが、席を立つことはなかった。
カミュ、リッド、フィオナが後片付けをしている間、年長組は食卓で顔を突き合わせたまま、沈黙を守っていた。
「……全員、顔怖いんですケド」
カウンター越しにその様子を覗き、カミュが小さく嘆息する。
キッチン側から見て一番手前の席に座るヴァンが、腕を組み、前方を見据えたまま口を引き結んでいる。
ラウは、こちらも腕を組んでいるが、その視線はテーブルに落とされ、らしからぬ影を彫の深い横顔に落としていた。
ユーリは面白くなさそうに肘をつき、ジークは背筋を伸ばしたまま微動だにしない。
ウィルですら、どこか心ここにあらずといった、ぼんやりとした視線を虚空に投げかけている。
片付けられた食卓に、新しい蝋燭が一本、煌々と火を灯す。
これ以上の危険はないと判断し、今日、フィオナたちが留守の間に修理された窓からは、柔らかな月光が差し込んでいた――が、それも場の空気を和らげるには至らなかった。
レナードはいつ、という明確な期日は設けなかったが、聖日祭が終われば迎えに来るということは、早ければ明日にも再び現れる可能性がある。
それまでに、フィオナが――ひいては森の家の住人たちが、どう応じるべきか、答えを出さなければいけない。
逃れられないことは分かっていたが、いざその時となると、途端に気持ちが重くなる。
フィオナ達が席につき、先日のレナード王子の話題になると、途端にヒートアップしたのはリッドだった。
「ありえねーって!」
どん! とテーブルを叩き、立ち上がる。
「あんないけすかねー変人王子、いきなり現れて婚約者だのなんだの、意味わかんねーよ! だいたい、本当にアルファザードの王子なのかよ!?」
「それは間違いないよ」
断言するウィルに、リッドは一度押し黙ったが、気を取り直し、黙ったままのフィオナに向き直った。
「フィオナだってずっとココにいたいだろ!?」
「リッド、少し落ち着いて。今は自分のわがままを言うときじゃない」
「わがままなんかじゃ……」
「俺、反対だな……アイツどーみてもオカシイじゃん。あんなやつにお姫様任せらんないし」
たしなめるウィルに、反論しかけたリッドを遮り、カミュが食卓にふせったまま自分の意見を述べた。
「オレも……あんまりいい印象はなかったな。って、別にオレたち姫サンの父親じゃないんだけどさ」
腕の上に顎を乗せ、ぼやくように言うカミュに、ラウが同調する。
「ノーコメント」
「…………」
ユーリは頬杖をついたまま気のない回答を寄越し、ジークは口を閉ざしたまま同じ意を示す。
必然的に全員が順に意見を述べるような流れになって、まだ答えていない人間に視線が集まる。
「ヴァンは?」
「……反対だ」
促したカミュに、短く意を表すヴァン。
「初めから言っている。あいつだけはやめておけと」
その目がフィオナに向けられ、いつかと同じ台詞が繰り返された。
「他のどの国の王子であっても、あいつよりはマシな感性を持っているだろう」
「ほら見ろ!」
「だが、選ぶのはフィオナだ」
「う……っ」
大勢の意見を得て強気になるリッドに、ヴァンが釘を刺す。
「俺は、レナードの申し入れを受けていいと思うよ」
「ウィル!?」
だがそこに、思わぬ反対票が投じられ、リッドが愕然と目を見開いた。
「マジで言ってんのかよ、ウィル」
さすがにカミュが聞き返す。ユーリが意外そうに片眉を上げたが、薄く笑みを浮かべ、向かいに座る麗人を眇め見るにとどまった。
「彼はフィオナを守ると言っていた」
彼らの追及を受けても、ウィルは穏やかな表情で、己の意見を述べた。
「西大陸一の大国の王子の言葉だ。これ以上頼もしいものはないと思うけど?」
「それはそうだけどさ……」
頷くカミュの返答は曖昧だ。
ウィルの人を見る目は信用したいが、レナードのことは信用出来ない――という彼の複雑な心境がありありと表れている。
ウィルは弟とは対照的に、レナードのことを買っているらしい。
それが彼の広い心が成せる技なのか、ウィルとレナードの間に、彼らだけに共有される何かがあるのかは分からない。
だが、今回ばかりは、ウィルの言葉に同調する者はいなかった。
「フィオナを追い出すってことかよ!」
席から立ったまま、睨みつけるリッドの視線を受け止め、ウィルは否定も肯定もせず、静かに言った。
「いい機会だと思うよ」
優しい声は、だがどこか肌の表面を滑るように、フィオナ達の間をすり抜けていく。
「いずれは、皆ここから出て行かなければいけない時が来るんだから」
吐息一つ分の空白の時間は、水を打ったように静かだった。
「ユーリとジーク」
「はァい?」
「…………」
向かいに座る双子の兄弟の名を呼ぶ。
「カミュとラウ」
「なんだよ」
「お、おう」
改まった視線を向けられ、共に大海を渡った無二の友は、同時に応えた。
「そして、俺とヴァン」
そう言って、一度目を伏せたウィルが、隣に座るヴァンを確認することはなかった。
「俺たちは、皆初めからひとりじゃなかった」
「…………」
ヴァンもまた、ウィルを伺うことはなく、じっと前を見定めている。
ウィルの視線が、名を挙げなかった少年に向けられた。
「リッドには……帰る家がある」
「ねぇよ! そんなもん!!」
怒りにまかせた怒声を、だがウィルは真綿でくるむように受け止め、凪いだ瞳をフィオナに向けた。
「フィオナは?」
問いかけられ、フィオナは押し黙った。答えなど持ち合わせていなかったが、初めからそれを見越したように、ウィルは続けた。
「継母のいる城に帰ることも出来ない。他に頼れる縁もない。そんな状況で、ずっとお城に閉じ込められていたお姫様が、ひとりで生きていけると思う?」
ウィルの言葉はどこまでも冷静で、正しい。
分かっていたことなのに、ウィルの言葉のひとつひとつが、ナイフの様に胸に刺さっていく。
――そう、結局、自分はひとりなのだ。
ウィルとヴァンのようなかけがえのない兄弟も、カミュとラウのような支え合える親友もいない。
この箱庭の家を出たら、夢から覚めたら――
(――たったひとり)
その言葉に、反論したのはリッドだった。
「ひとりって……フィオナはひとりじゃねーだろ! 俺たちがいるだろ!」
「ずっと?」
「……ッ」
痛いところを突かれ、リッドが息を飲む。だが、そんな己に腹を立てたように、彼は挑むような目でウィルを見返した。
「そ、それならオレがッオレが……ッ」
後の言葉が続かず、何度も口を開閉させる。見る見るうちに耳まで赤く染まった顔で、リッドは向かいでぽかんと彼の様子を見上げていたフィオナを見つめた。
「オレが……!」
「リッド」
言葉の先を察したように、ヴァンが厳しい声でたしなめる。
「勢いで言っていい言葉ではない」
静かな声だった。それ以上何を言われたわけでもないのに、リッドは叱られたように顔を歪めた。
萎れるように気勢を失った少年の痛々しい姿に、ウィルが静かに語りかける。
「リッド、俺はね……」
「うるせぇ!!」
大音量に、驚いたようにウィルが言葉を飲み込む。
口の悪いリッドだが、実の兄ように懐いていたウィルに対して、そんな言葉を吐くところなど見たことがなかった。
「いくらウィルでも許さねーよ! そんなこと……そんな風に、オレたちのこと思ってたのかよ! いつか終わる関係だって! 結局、ウィルはヴァンと二人ぼっちで、オレたちはそれ以外のなんでもない奴なのかよ!」
涙の膜に蝋燭の炎が煌めき、黄金の瞳を燃え上がらせる。
「リッド……」
ぶつけられる激情に、ウィルが顔が悲しげに曇る。
彼の声から顔を背けるように、俯いたリッドの肩が震えた。
拳を握りしめ、歯を食いしばり堪える横顔から滴がこぼれ落ちる。ギュッと瞳を閉じ、落ちた涙を振り払うように、リッドが叫んだ。
「ウィルの馬鹿野郎!!」
吐き捨て、顔も見ずに2階へと駆け上がる。
「リッド!」
ウィルの引きとめる声は、届かない。荒々しく、自室のドアを閉める音が2階から響いた。
「ったく、あいつは……」
立ち上がり、階上に消える背中を目で追っていたカミュが、大きく息を吐いた。前髪をかき上げた彼の視線が、遠慮がちにウィルに移される。
2階を見上げていたウィルが、その目線を落とし、どこか寂しげな微笑を浮かべ、呟いた。
「仕方ないよ」
こんな時でも彼は微笑むのだと、そんな場違いな感想を抱いた。
「酷いことを言った自覚はあるんだ」
顔を上げ、ウィルはその場に残ったメンバーを見回した。
「すまないね、みんな」
謝罪の言葉に、だが誰も目を合わせようとはしない。各々に浮かべる表情は違ったが、胸に抱く感情には、どこか共通した部分があるような、そんな気がした。
リッドの言葉は、きっと他の皆の代弁でもある。
分かっていたこと。諦めていること。それでも、言葉にされるとこんなにも淡泊で、虚しいものなのだと思い知らされる。
いつか終わりが来るということは、再び彼らがバラバラになるということだ。
だが、その間の時間が白紙に戻るわけではない。
過ぎていく時間は、ただ流れていくだけのものではなく、確かに絆という形で存在する――そう、ほんの短い時間しか共にいないフィオナでも、感じていたのだ。
ウィルの言葉は、とても――刺さる。
何か取り繕う言葉が欲しかったが、思考は空転し、言葉はフィオナの喉から先に押し出されることはなかった。
沈黙に痛みが伴うことがあるのだと、フィオナは初めて知った。
この、胸にぽっかりと風穴があいたような感覚には、覚えがある。
ヴァンがウィルを「守るべき唯一の存在」と告げたあの時、少しずつ近づいていた気がしていた彼の存在が、急に遠ざかったような、寂しさ。
2人の世界には1と0しかなく、互いの存在こそが「1」で、それ以外の全てが「0」なのだとしたら――
差しのべられた手も、優しい言葉も、笑顔も、全てが急速にその色鮮やかさを失い、どこか、硝子一枚を隔てた鏡の向こう側の世界のように、手を延ばしても届かない存在のように感じる。
誰かを想う気持ちが、受け止められていると信じていたその想いが、実は、ただ幻に向けて投げかけていたものだと気付いた時に襲う、虚しさと、寂しさ。
それがこんなにも辛いものなのだと、フィオナは初めて知った。
永遠に続きそうな沈黙に押し出されるように、ウィルは静かにその場を離れ、自室へと戻っていった。
「……俺たちばかりが意見を戦わせても意味はない」
その場で初めてと言っていいジークの発言に、ようやく時が動き出す。
「その通りだねェ。結局、選ぶのはお姫サマなんだからサ」
兄の言葉に同意したユーリが、脱線した話を戻す。
「ねェ、お姫サマ。アナタはどうしたい?」
「私……は……」
声がかすれた。
まだ、自分が先ほどのことを引きずっているのだと分かる。
リッドにつられたわけではないが、場違いにこみ上げた涙が目に溜まり、喉の辺りがきゅっと閉まる。
座っているだけなのに鼓動が早まって、心臓が引き攣れるように痛んだ。
「わたし……は……」
レナードに選択を迫られた時、ウィルの言葉が欲しいと思った。彼の意見を聞きたいと、そう思った。
だが今は、実際に突き付けられた現実を、うまく落とし込めていない。
ただ引きとめて欲しかったのだろうか。そんな都合のいい言葉だけを期待していたのならば、とんだ甘えだと、自分自身を恥じる気持ちが湧き上がる。
混乱している、と自分でも思う。
「まだ……わかりません」
今、まともな判断を下せる自信がない。
かすれた声でその一言を絞り出すのが精一杯で、フィオナは目を伏せた。
膝の上に揃えた両手を、小さく握りこむ。
食卓の面に、ゆらゆらと揺れる蝋燭の炎の影が、ぼんやりと浮かんでいた。
ぼんやりと、まるでフィオナの思考のように輪郭の解けたそれを、ただ見つめていた。




