第四十一話 魔法使いと鏡の精
「ったく、なんで俺がこんなこと……」
ぼやく。
ヴァリウスの右手には、彼の身長を遙かに超える高さまで積み上げられた箱がある。
『暇だから空けておけ』の予言通り、「今日は一日忙しいから」と新しい主人から暇を渡されたヴァリウスは、何の因果か、やはり王都ファザーンにいた。
前を歩く小さな背中からは、冗談のように長い三つ編みが垂れ下がり、歩くたびに揺れている。
もっとも、先ほどから周囲の視線を集めているのは三つ編みではなく、その後ろで曲芸のような荷物の持ち方をしているヴァリウスの方だ。
大陸全土から珍しい茶葉や菓子が集まるのだと、珍しく意気揚々とファザーンに繰り出した目の前の人物は、この後しばらくは、引き籠もり生活を満喫するつもりらしい。
恐ろしい量を買い溜めする彼の購入品は、すべてヴァリウスの掌の上に載り、大きさも形も違う箱が次々と積み上げられていく。
しかし、糊か何かで貼っているのかと思うほどの絶妙なバランスで積み上げられた荷を、ヴァリウスは顔色一つ変えずに片手で持ち歩いていた。
本日は祭日。
おかしな仮装や奇妙な曲芸を披露する人間が珍しくないこの日は、皆驚きの目で彼らを振り返りつつも、わざわざ声をかけたり不審がったりする者はいない。
「賑やかですねぇ」
周りの奇異の目を全く意に介した様子もなく、クレープを片手に、黒いローブの青年はのんびり口を開いた。
「クリームついてんぞ、まぬけ」
「今年は大陸暦500年だそうですよ」
唇にクリームをつけて歩いているのを指摘するが、彼は完全に無視して自分の話したいことを話し出した。だが、さりげなく指で口元をぬぐうのは忘れない。
「もうそんなに、というべきか。まだそれだけ、というべきか……」
振り返り、彼は遙か上方にあるヴァリウスの顔をじっと見上げた。
頭2つ分ほど低い位置から見上げてくる大きな瞳は、翠と紅の左右異眼だ。珍しいその色を隠すように、紅い右目には片眼鏡がかけられている。
顔だけ見るとどうしたって可憐な少女なのだが、残念ながら立派な成人男子だ。成人どころの話ではない。
その小さな唇から、大きなため息が漏れた。
「人の顔見てため息つくんじゃねぇよ」
「いえ、先は長いなと思いまして」
それだけ言うと、彼は再びヴァリウスに背を向けて歩き出した。
大陸歴500年。
アース暦とも呼ばれるが、ヴァリウスたちがこの呼び名を用いることはない。
聖者エマーヌエルの生誕を元年としており、神聖ディーア帝国初代皇帝アレクサンドラ一世が制定し、現在まで大陸中で共通して使われている暦である。
これはエマーヌエルを始祖とするアース教を、東大陸を含む大陸全土を統一したアレクサンドラ一世が保護したことに端を発する。
以後、途中王朝の交代がありながらも、アース教は400年に渡り統一帝国の国教として信仰され続けた。
統一ディーア帝国最後の王朝が崩壊し、大陸が複数の国家に分裂して100年が経過した現在もなお、アース暦は宗教的意味合いを越え、日常生活の一部としてアースガルダの大地に浸透している。
「あのナルシスト男、また明日もついてこいとか言うんじゃねぇだろうな……」
ため息混じりに、ヴァリウスはぼやいた。
先ほど、大通りから異常な歓声が聞こえた。
どうやら第一王子を乗せた馬車が、パレードで通り過ぎたらしい。あんな変人王子でも、市民の支持は厚いようだ。大国アルファザードも先が思いやられる。
「お前があの王子に、俺が動けること教えたせいで、こき使い度が上がったじゃねぇか。余計な事しやがって」
「それはやはり、販売元としては、所有者に正しい鏡の用法を知って頂かないことには」
「取説すら渡してねぇやつが何言ってやがる」
「あぁ……! 忘れてました」
ぽんっ、とクレープを食べ終わった手を打つ。
ヴァリウスは盛大なため息を吐いた。
「まあいいでしょう」
聞こえていないのか無視しているのか、彼はあっさりと流し――そして、立ち止まった。
「っと、おい、急に立ち止まるんじゃ……」
危うくぶつかりそうになったヴァリウスが文句を言い終わる前に、相手は三つ編みをなびかせ駆け出した。
「おい、ローズ?!」
道を横断し、隣の通りに続く路地に入り込む後ろ姿を、ヴァリウスは追う羽目になった。
◇ ◆ ◇
「どーも。こんなところで会うなんて、奇遇ですねぇ。隣の通りから見たことのある後ろ姿が見えたもので、もしかしたらと思いまして」
その青年――レインは、どうやら路地の近くに立つフィオナを見つけて、路地裏に引き込んだらしい。
「人混みは目立つので、人の少ないところで話がしたかっただけなんですが、怯えさせてしまってすみません」
あまり悪びれた様子のない笑顔で謝られる。だが、驚きの方が先立ち、フィオナは問いかけた。
「どうしてここに?」
「観光ですよ。そちらは?」
「私も観光……です」
どちらかというと、社会見学に近いかもしれない。
少し回答に迷うと、別の風に解釈したのか、レインが企むような笑みを浮かべた。
「ははーん、デートですね」
「で、デート?!」
「お相手はどちらの王子様ですか?」
「そ、そんなんじゃ……」
否定しかけ、なぜ王子様と分かったのだろうと思い言葉を飲み込む。
だが、すぐにただの比喩だろうと思い直した。
「ローズ!」
レインの後方から、男性の声が飛んでくる。見ると、若い男が隣の通りから路地に駆け込んできた。
まず、塔のように積み上げられた紙箱が目に入り、ぎょっとする。片手で軽く運んでいるが、曲芸師だろうか。
「てめ、人に荷物持たせて先行くんじゃ……って、あ」
「あなた……昨日の!」
フィオナの顔を見て、男が立ち止まる。フィオナも、その姿には見覚えがあった。
黒髪に、漆黒の瞳。全身を黒で固めた衣装に対して、覗く首筋や手の白さが浮き上がる。
だが青白い顔に反して、爛々と輝く目には強い力があった。
どこか退廃的な雰囲気の漂う美貌には、祭に賑わう真昼の都は似合わない。
忘れるわけもない印象的な青年は、昨日、レナードと共に森の家を訪れた従者の一人だ。
「おや、知り合いですか?」
「……まぁ、顔見知り、というか……」
それ以上の説明が思い当たらず、フィオナは口を濁した。
レナードに仕える騎士、というわけではなさそうだ。
一体何者なのか。
レインのすぐ傍まで近づいてきた青年をちらりと横目で見る。視線に気付かれ、にこやかに微笑まれた。
改めて見てもかなりの細身だが、身長だけで言えば、ヴァンよりも大きいだろう。
小柄なレインと並ぶと、大人と子どものようだ。
一体どういう関係だろう。
「ヴァリウス、今日はもう帰っていいですよ」
不思議な取り合わせを疑問に思っていると、レインがそんなことを言い出した。
「そりゃありがてぇけど、お前本当に一人で帰れんのか?」
「大丈夫ですよ。いざとなったらその辺の衛兵に声を掛ければ、アルヴィスくんが迎えに来てくれますから」
「親衛隊長使いっ走りにしていいのかよ」
呆れたように息を吐き、ヴァリウスと呼ばれた青年は、高い位置にある顔を寄せてレインに念を押した。
「んじゃあローズ、ほんとーに帰るからな? いいんだな?」
「しつこいですねぇ。私だって一人で帰れますよ」
「毎度帰れてねぇから言ってんだよ……」
まるで保護者だ。最初に出会った時とは、随分と印象が違い、まじまじと見つめていると、ふいに視線がかち合った。強い輝きを放つ目に慣れず、びくりとする。
彼は艶のある笑みを浮かべると、レインから離れ近づいてきた。
一体どんなバランス感覚をしているのか、積み上げられた荷物を器用に持ち替え、彼は空いた手でフィオナの右手を取った。
腰がひけているフィオナの心情を知ってか知らずか、紳士的な所作でフィオナの手を取り、持ち上げたヴァリウスの唇が、躊躇なく指先に触れた。
「……ッ」
「では、また――」
唐突な行動に絶句するフィオナに、ヴァリウスはするりと手を放し、その脇を通り過ぎる。
手への口吻は、儀礼的な愛情表現だ。
手の甲なら忠誠。
手の平なら親愛。
なら、指先は――?
唇の感触の残る指先を握り、黒い背中を見送る。
頭一つ飛び出た後ろ姿が人混みに消える頃に、レインが間延びした声で謝罪した。
「あー、すみませんねぇ。帰ったら、ちゃんと消毒しといてください」
振り返ると、レインが少し眉を寄せ、困ったように笑っていた。
「指先への口吻は確か――『誘惑』でしたか。まあ、彼のは癖みたいなもんなんで、あまり気にしないでください」
「癖……!?」
癖が誘惑とは、一体どういう人物なのだろう。
ますます謎が深まるが、レインの言う通りあまり気にしない方が良さそうだ。
「レイン……」
相手の名を呼び、ふと思い当たる。彼――ヴァリウスは、別の名で呼んでいた。
「……ローズ?」
「ああ、私ローズレインと言います。ローズでも、レインでもどっちでもいいですよ」
その説明に、なるほどと納得する。彼はにこにこと付け足した。
「ちなみにローズは母の名前で、レインは父の名前なんですけどね」
「じゃあ、レインで」
はじめにその名で聞いていたものだから、そのほうがしっくりくる。
それに、ローズでは本当に女の子のようだ。
「そこの彼女!」
突然、後ろから声をかけられた。聞き覚えのない軽い声。
(なんか……前にもこんなことがあったような……)
嫌な既視感を覚え、フィオナは振り返るのを迷った。だが、向かい合っていたレインは相手の姿を目に止めたようで、目線が上がる。
路地裏に下卑た口笛が響いた。
「2人? ならちょっと付き合ってよ」
言う間に肩に男の手が触れ、フィオナは慌ててそれを振り払って、レインの後ろに隠れた。隠れられるほど大きな背中ではないのだが、彼の肩越しに声をかけてきた相手を見ると、案の定、2人組の若い男がニヤニヤとこちらを見ている。
レインが、間延びした声で文句を垂れた。
「えー。私まで一緒ですか? 困りましたねぇ」
「というか、あなたが目立ってると思うんだけど……」
フィオナが頭巾を被っているというのに、ローブのフードをおろしたレインは、それでなくとも目立つ長い金髪に、可憐な少女のような顔立ちをしている。
路地裏とはいえ、すぐそこは大通りだ。人も多いし、オルフェンの時ほど乱暴な手に出てくることはないだろう。
話せば分かってくれるかもしれないと思い、フィオナは気丈に対応しようと、意を決して口を開いた。
「あの」
「いやですねぇ。なんで私たちが、あなたたちみたいなのと付き合わなきゃいけないんですか?」
「みたいなのぉ?」
「ちょ、ちょっとレイン!」
その前に言い返したレインの言葉に、相手の声に不穏なものが混じる。
前から思っていたが、彼は口調は丁寧だが言うことは遠慮がない。
「やっぱり、ヴァリウス置いといたら良かったですかねぇ。女性を見ると節操がないので帰しましたが、こんな風に馬鹿な虫が寄ることを考えれば、いくらかマシだったかもしれません」
「おい、お前、今なんて……」
ふぅ、と肩をすくめたレインのぼやきは、相手を挑発する以外のなにものでもなかった。2人組の片方が、青筋を立て腕を伸ばす。
「っ?!」
だが肩に触れようとした瞬間、電撃でも走ったように男が手を引っ込めた。
「――わきまえろ、と言っているんですよ」
野良犬を見るような目で見下すレインの冷めた声に、一瞬、気圧されたように身を引いた男が、その羞恥からか、顔を赤くして拳を振り上げた。
「このっ……」
「仕方がないですね」
小さく嘆息し、レインが口の中で何かを呟いた。
「それ」
緊張感のない声で、トンと手にしたホウキの先で地面を叩く。
(って、ホウキ?)
そんなもの、持っていただろうか。
フィオナが疑問に思うのと、目の前の地面から勢いよく大量の水が吹き上がったのは、ほとんど同時だった。
「うわぁぁっ?!」
「なんだこれはぁぁっ!?」
フィオナは信じられない心持ちで、水柱に突き上げられた男2人が悲鳴を上げるのを
――見下ろしていた。
「えっ……?!」
視点の異常さに気付き、フィオナは目を瞠った。
(う、う、浮いてる~っ?!)
そこは、フィオナたちが立っていた通りの『真上』だった。
「あまり暴れると危ないですよ」
本能的な恐怖心から目の前にあるものにしがみつく。すると、『それ』はどこまでも冷静な声で忠告した。
「レ、レイン!?」
「はい」
にっこりと――間近で日だまりのように微笑むのは、オッドアイの美しい青年だ。
思いのほか男らしい腕力で抱き上げられ、フィオナは彼の腕の中にいた。
そして彼女を抱えるレインは、宙に浮くホウキに足をかけて立っている。
……目眩がした。
「町中で使って一番被害が少なそうな水魔法を選んだんですが、ちょっとやりすぎましたね」
軽く反省したらしいレインが小首を傾げる。
指向性を持って吹き上げ続ける謎の噴水に、町中は大パニックだ。
ちょっと、とか、やりすぎとか、そういう問題なのだろうか。
「あなた、ほんとうに、ま、ま魔法使い?!」
「はい」
そうとしか考えられない現象に、フィオナが回らない口で聞くと、相手はあっさりと肯定した。
「ばれたら仕方ありませんね。内緒にしてて下さいね」
クスリと笑って、指先を自分の唇に押し当てるレイン。
癖のある蜂蜜色の髪が、風に煽られて白い頬をくすぐる。無垢なその容姿からは、『魔法使い』が持つ陰鬱なイメージは結びつかない。
『魔法使い』や『魔女』という存在が、この世に存在するのは知っている。
実際、物語だけでなく歴史上にも幾度となくその名は登場し、時に大きな功罪を残していた。
最初に彼らの名が大陸史に登場したのは、今から500年以上前の、暗黒時代末期。
100年に及ぶ戦争で荒廃した大地に現れた、人智を越えた力を持つ彼らは『魔女』と呼ばれ、その異能を持って人間を駆逐しようと動いた。
これに対抗する形で大々的に魔女狩りが行われ、結果、魔女はその数を激減させ、表舞台から一度姿を消した。
以降、彼らが集団として何かを成すことはなかったが、各地に散った魔女の生き残りは、時折、歴史の表舞台に姿を見せる。
昨今では、東のシュヴァルト帝国が魔法使いを擁しているという話もある。
「これはさすがに、殿下に怒られるかもしれません」
内容に反し、やはりのんびりした口調で、足元の惨状を見下すレイン。
(殿下……レナード様……?)
先ほどのヴァリウスは、レナードの従者だった。
いつかオルフェンで聞いた、果物店の女性の話を思い出す。
――レナード王子が寵愛する魔法使い。
そんな噂は、ただの噂だと思っていた。
「アルヴィスくんに見つかる前に帰りますか……おや?」
レインが眉を上げ、ある一点を見下ろす。その口元が、面白そうに歪んだ。
「おやおや」
「フィオナ!」
聞き慣れた声がここまで届き、フィオナもそちらを見下ろす。
遠目から見ても目立つ長身の偉丈夫が、今だ混乱が続く通りでフィオナを探していた。
まさか頭上にいるとは思わないようで、明らかに焦った様子でしきりに周囲を見回している。
「王子様の元へお返ししますよ」
クスッと耳元で笑われ、思わず顔が赤くなる。
レインが起こした騒ぎで注目が一箇所に集まっているため、もう一本外れた路地には、まったく人通りがなかった。
レインは空飛ぶホウキでそこに降り立ち、フィオナを下ろしてくれた。
「では、ここでお別れですね。あまり落ち着いて話が出来ませんでしたが、まあいいでしょう」
そういえば、彼は話がしたいと言っていた。
一体何の話だろうとも思ったが、彼の言うとおり、これ以上は2人でいられない。
「あのっ」
だが今は、フィオナも彼と話がしたいと思っていた。
踵を返した相手を呼び止めると、彼は立ち止まって振り返ってくれた。
「――どうやったら、また会えますか?」
「そうですねぇ」
少し考えるように、レインは首を傾げ、やがていつもと同じ笑顔を見せた。
「あなたが会いたいと思ったなら、探してみてください」
「え……?」
あまりにもアバウト過ぎる回答に、呆気にとられる。
「ではでは、ごきげんよう。フィオナ王女」
トレードマークの三つ編みをひるがえし、ホウキにまたがってフワリと浮き上がるレインを、フィオナは夢見心地で見送った。
そして、もう声も届かない程の距離まで見送ったところで、あることに気付く。
「……森って、あっちだったような」
どう見ても逆方向に飛んでいくレインに首を傾げる。
「他に行くところでもあるのかしら……」
帰ると言っていた気もするが、そこまで詮索するのもお節介かもしれない。
(……って、フィオナ王女って……?)
フィオナは、自分の身分をあの青年に明かしたことはない。
彼は、森の家の住人のことも王子様と言っていた。
レナード王子と繋がっているならば、知っていてもおかしくはないが……例えそれがなくとも、彼は何でも知っているような、そんな気がした。
彼はあの不思議な森の子供、ルイロットとも一緒に住んでいるのだ。
「そういえば、ヴァリウスって――」
レインの保護者のような青年の名だった気がするが――ルイロットは、鏡の精と言っていなかったか。
「もうわけ分かんないわ……」
独り言が増える。混乱する頭を押さえ、フィオナは路地を出た。
「フィオナ!」
すると、すぐにヴァンが姿を見つけ、駆け寄ってくる。
怒られるかと思ったが、怒声の代わりに両肩に手が置かれ、強い力で掴まれた。
見上げると、こちらを見つめていた紫の瞳から、力が抜けた。大きく肩を落として、息を吐く。
分かりやすく安堵する姿は、あまり人前で動揺を見せない彼にしては珍しい。
「……心配させるな」
「ごめんなさい」
フィオナとて意図的に彼の前から姿を眩ませたわけではないが、相当心配させてしまったことを自覚し、申し訳なくなる。
「何もなかったか?」
「え……?」
「いや、ないならいいんだ」
「あの、ヴァン……」
「なんだ」
言おうか言うまいか悩んだが、フィオナは躊躇いがちに口を開いた。
「少し、痛い……です」
「ああ、すまない」
その言葉に、無意識に力の入っていたらしい両手をぱっと放す。
「すみません」
解放され、気まずさからもう一度謝ると、宙に浮いていたヴァンの手が泳ぎ、少し迷うような間の後、ぽん、と頭に置かれた。
多分、「もういい」という合図なのだろう。
不器用な彼の信号を受け取って、胸が温かくなる。表情に出そうになるのを我慢して俯いていると、手が離れ、ぽつりと声が落ちた。
「……帰るか」
「……はい」
そう言って、静かに歩き出す。
突如地面から噴出した水柱はいつの間にか止んでいて、後には『事故』に巻き込まれた不運な若者2人が目を回していた。散る様子のない野次馬たちの隙間に、王立騎士団の赤い軍服姿がちらほらと見える。
その騒ぎの脇を――フィオナだけは、心持ち足を忍ばせながら――通り過ぎる。
少しだけ回り道をして、お土産になりそうなものを物色した後、2人は帰路についた。
予定よりも早く切り上げた分、日が暮れるまではまだ時間がある。
行きにフィオナが体調を崩したことを考慮して、ヴァンは往路よりも大分ゆっくりと、クンツァイトを歩かせてくれた。
「疲れたならもたれていい」
「はい……すみません」
事実、疲れていたフィオナは、ヴァンの言葉に甘え、素直に彼の胸に背を預けた。
背中にヴァンの体温を感じることにもいくらか慣れ、2人で小さな空間を共有していることに、居心地の悪さを感じなくなった頃、
「フィオナ」
触れた場所から身体に響くように、己の名を呼ぶ声が届く。
「――お前は、自分で選択をしたことがあるか」
「選択……?」
「自らの道を、自分の判断で選ぶということだ」
唐突な問いかけではあったが、今の自分の状況を顧みれば、突拍子もない話題というわけでもなかった。
聖日祭が終わったらまた来ると、アルファザードの王子は言っていた。
果たして本当に選択の余地があるのかどうかも甚だ疑問だが、少なくとも今のところは、レナードもフィオナが自らの意志で彼を選ぶことを想定している。
仲間たちも皆、フィオナの意志を尊重してくれている。
それは嬉しいことであると同時に――とても、不安だった。
「……ありません」
きっとその不安は、フィオナ自身が、今まで己で選択することを放棄してきた故の、弱さに起因するのだろう。
フィオナは、常に周囲に求められた『あるべき姿』でいようとしていた。
それは、決められた道をただ漫然と進むもので、そこに彼女自身の意志は働いていない。
そのことに空しさや寂しさを感じることはあっても、疑問に感じることはなかった。
そんなものなのだと受け入れていた。
だが今は、自分が『どうありたいか』を投げかけられている。
「そうか」
短い応えに、胸が疼く。
失望されたのだろう、と感じたフィオナの失意に気付いたのか、ヴァンは繕うように付け加えた。
「いや、そうなのだろうと思ったんだ。お前は心が優しく、理想を求める節がある。おそらく、何かを選ばなければいけない岐路に立たされたことがないのだろう、と予想しただけだ」
ヴァンの言葉には、なじるつもりもおだてる意図もない。彼の公平な目が見たフィオナという人間に対する分析はどこまでも正しく、その分、深く突き刺さる。
「……自分でも、甘いと思っています」
「自覚があるならいい」
彼の言葉は――それこそ出会った頃から、フィオナに対しても、他の仲間たちに対しても、平等に厳しかった。
「俺は3年前まで、自覚がないまま同じ状況にいた」
だがそれ以上に、己に厳しいということを、フィオナも、そして彼の仲間たちも知っている。
だから、『森の家』の住人は、口では彼の口うるささを邪険にすることがあっても、その言葉の正しさを理解し、受け入れている。
彼のその厳しさと強さがどこからくるのか、フィオナは不思議だったが、つい最近、その原点は彼自身の過去にあるのだろうと思い至った。
「いつも理想ばかり考えていた。本当に選ばなければならない時が来るまで、選ぶ覚悟を持っていなかった」
迷いのない声が過去を語るとき、いつも以上に厳格さを増す。
「何かを選ぶと言うことは、何かを捨てるということだ。そこには痛みと覚悟が伴う」
「覚悟……」
その単語を復唱する。
『覚悟がある』と、カミュは言った。
それはつまり、今の穏やかな止まり木の日々を捨て、彼ら自身の本来あるべき人生を選ぶ『覚悟』だ。
(私には、『覚悟』がない……)
まだ、ない。
選ぶべき道が見えていないのだから、今を捨てる覚悟など持てるはずもない。
「ヴァンは、国を捨てたんですか」
口に出してから、それは酷な質問だと思った。
『国を捨てる』
フィオナは国を逃げ出したが、『国を捨てた』という意識はない。
一国を背負う重圧と責任があるからこそ、それを『捨てる』ことに痛みが伴うのだ。
もとより国を動かす立場にあるわけでもないフィオナには、頭では理解していても実感がわかない。
「……俺が捨てたのは家族だ」
吐き出された答は、意外なものだった。
「家族……?」
「俺には弟がいる。母親を同じくする弟だ」
それは初耳だった。
ヴァンの口ぶりでは、ウィルこそがまるで無二の兄弟のように聞こえ、他にも弟がいるとは想像しなかった。
「家族というのを血縁で考えるなら、俺にとって一番濃い家族は母と弟だ。彼らは、俺が王になることを何よりも望んでいた」
「…………」
昨夜の話を聞く限り、それは、ヴァン自身の意志とは相容れないものだ。
「俺は彼らを裏切った」
「でもそれは……」
「ああ、ウィルを選ぶには必要なことだった。後悔はしていない」
フィオナの言葉を予想したように遮る声には、相変わらず迷いはない。
見上げれば、前を見据える精悍な横顔があった。
「それでも痛みは伴う」
彼の視線の先を追えば、徐々に深みを帯びる空を背景に、果ての見えない丘のような森が広がっている。
南へ延びる街道は、オルフェンへと繋がっている。北から見るイアルンヴィズの森は、広い台地の上に広がっており、ファザーンまでなだらかな丘陵が続くこの街道からは、オルフェンが谷間の町のように見下ろせた。
一本の街道がつづく両脇には、のどかな麦畑が広がり、その先に林が見えた。
青々と色づくその林の向こう側にある、市壁に囲まれた小さな町――オルフェンは、ここから見下ろすと、赤い屋根と白い壁の民家がひしめき合い、囲いの中でぎゅっと濃縮されているように見えた。
まるで箱庭の町だ。
赤煉瓦の屋根が目立つ中、町の中央に一際鮮やかに映る青い尖塔が見える。
町に一つしかない教会の鐘楼だ。
背の低い建物に囲まれ、頭一つ飛び出た小さな塔が愛らしい。
クンツァイトの漆黒の鼻先がオルフェンを指し示し、ゆっくりとそこを目指しながら、ヴァンは言葉を続けた。
「何かを捨てるとき、痛みを伴うのは人として健全だ。それすらもなければ心を失う――だが、後悔はしない方がいい」
例え痛みを伴っても、後悔しない選択をしろと――そう言われたのだと分かる。
彼の言葉を理解できるようになったのは、フィオナ自身が成長したからなのか、彼との距離が近くなったからなのかは分からない。
出会った頃はいつも、ウィルに通訳されてばかりだった。
今思えば、まったく意志の疎通が出来ていなかったのだから、ウィルが笑ってしまうのも無理はない。
ヴァンは、フィオナの人生の選択を親身に考えてくれている。
「……はい」
ちゃんと選ぼう。
逃げるのではなく、ちゃんと選びたい。
表面的な言葉以上に、温かい彼の心に触れられたことが嬉しく、フィオナはきゅっと腹を結ぶように息を吐いた。
そこで、一度会話が途切れた。
この時期に街道を行き来するのは勿論フィオナたちだけではなく、必要以上にゆっくりと征く青毛馬を、旅人を乗せた軽種馬や、荷を引く馬車が抜き去る。
それらの背中を見送りながら、フィオナはぽつりと話題を振った。
「ヴァンに、弟がいたんですね……まだ小さいんですか?」
「……お前と同じ年だが……」
答えるヴァンのトーンが、不自然に落ちる。迷うような沈黙の後、ふいにヴァンが切り出した。
「フィオナ、お前はウィルのことを――」
「え?」
見上げると、間近で紫闇の瞳と目が合った。そこに浮かぶ感情は、不思議そう、というのが一番近いかもしれない。
そのことが逆に不思議なフィオナと、奇妙な見つめ合いが続き、先に視線を外したのはヴァンの方だった。
「いや――なんでもない。忘れてくれ」
珍しく口ごもる彼に、それ以上詮索はせず、フィオナはヴァンから東の空にかかる月に目を移した。
晴れ渡る薄紫の空にかかる、大きな月は、あと3日もすれば見事な満月を迎えるだろう。
「……おまえは、いつまで俺を怖がるつもりだ?」
穏やかに微笑むような、美しい丸みを帯びたその月に見とれていると、背後で小さく呟く声が聞こえた。
「え?」
「……いや」
問いかけのように聞こえたが、夕焼けと月の共演に気を取られていたため、聞き取れなかった。
聞き返したフィオナに、ヴァンが言葉を濁す。
彼らしくない行動が続き、フィオナは首を傾げたが、それ以上は会話らしい会話もなく、馬上の揺れに身を任せる。
2人を乗せたクンツァイトは、ゆったりとした足取りで市壁の前まで辿り着いた。
茶のシンプルな市門は、ファザーンの城門を見た後では、随分と簡素に映る。
物見塔の下のアーチ型の門をくぐり、2人はオルフェンに足を踏み入れた。




