第三十九話 完璧な王子
俺が、全てを奪ったんだ。
そう言ったヴァンの眼差しは、真っ直ぐにフィオナを見据えていて、懺悔というにはあまりにも誠実すぎるものだった。
「どういう……ことですか?」
「言葉の通りだ。俺があいつを追いやった。こんな辺境の森に押し込め、自由に歩く権利さえ奪った」
「――え?」
「ウィルに怪我を負わせたのは俺だ」
過去を思い出すように、ヴァンの眼が悔しさを滲ませて歪んだ。
「こればっかりは、今も後悔している」
高ぶる感情を冷ますように、大きく息を吐く。
「――足に怪我を負うまで、あいつは誰も異論を唱える隙がないくらい完璧な王子だった。俺自身、何一つ敵うものなどなかった。完璧だったあいつから、俺は、あいつが今まで積み上げてきた努力の全てを奪った」
淡々と過去を紡ぐ言葉に、わずかながらの憎悪がこもった。
「それから、俺を王位に推し進める声が目に見えて大きくなった」
「そんな……!」
それは、あまりにも安易ではないだろうか。
この大陸で君主制を敷く国家は、統一帝国時代からの流れを汲んで、長子継承を原則としている。
ウィルが兄である限り、彼の次期王位は絶対的なものなはずだ。
ましてやウィルは歩く力を失っただけで、至って健康で、聡明な人間だ。次期王位から降ろす、などという話が大きくなるのは解せない。
その疑問が伝わったのか、ヴァンはフィオナを伺うように見た。
「話せば、随分と長くなる」
「聞かせて下さい」
迷いなく答えたフィオナに、ヴァンが話し出したのは、長い――確かに長い、昔話だった。
それは、彼らが生まれた瞬間に遡るのだから。
「――ほんの数分だった、と言われている」
「え?」
「俺たちが生まれるまでの時間差だ」
そういえば、ウィルも言っていた。
――自分の方が、少し早く生まれただけだと。
同じ日に、別の母親から。
だが、本当にそんな僅かな差だとは思わなかった。
それでは、ほとんど双子と変わらないではないか。
そう思ったところで、思い当たる。
母親の違う第一子が、ほとんど同時に生まれる。
これは、王室にとってかなりシビアな問題ではないのか。
フィオナの懸念を当てるように、ヴァンが続けた言葉は王位継承に関するものだった。
「幸い――というべきか、先に生まれたウィルが正妃の子だったため、王位継承権に関する優位性は完全にウィルにあった。逆の立場であれば、もっと早い段階でこじれていたかもしれない」
原則、王位は長子継承だ。だが、例外的に妃の位が影響する場合もある。
数分の時間差というのがこの例外に相当するのかは分からないが、二人の母親の立場が逆であれば、一悶着あった可能性はある。
「だが、この優位性に納得していない人間がいた――俺の母親だ」
ヴァンは岩の上で足を組み、闇に沈む遠い山を見つめていた。
「正確には、俺の母親個人の欲だけでなく、細かい内政事情や利権も絡んでいるんだが……俺たちが生まれた時から、表面的には落ち着いていたが、水面下では常に俺の王位継承を囁く人間が、少なからずいた」
王妃の出自や、後援者が絡み、王位継承に波乱が含むことは少なくない。
フィオナの母親も、当時の外政事情を考えるとかなり特殊な立場にあったので、もし父に複数の妾妃と王子がいたら、様々な利害が絡んで複雑な身内争いに発展していたかもしれない。
「俺が王になることで有利になると考える層は、確かに存在した。だが、表立って口にできる環境ではなかった」
それはそうである。ウィルが第一王子で正妃の子であれば、彼が次の王になることに異論を唱える隙はない。
「ウィルは聡い。自分の立場をよく思わない人間がいることを理解していた――その上で、俺たちが王位継承を争うことは、内政を揺るがす大きな問題になることも。俺は、そこまで考えたことはなかった。あいつが王になることを、疑ったこともない。昔の俺は、あいつをただ羨望の眼差しで見ていた」
そう言ったヴァンの横顔には、強い憧憬があった。彼にとって、過去のウィルを思い出すことは、憧れの人について語るにも似ているのだろう。
「だが、今なら分かることがある。あいつは、誰にも文句の言われることのない、完璧な王子であろうと、常に努力していたんだ」
その努力を無に帰したと、きっと彼は思っている――
消えることのない傷を負わせたことを、後悔している。
過去のウィルを語る彼の熱は、そのまま今のヴァンを傷つける、身の内の刃となっているような気がした。
「だがお前が考えるとおり、それだけでウィルの地位を脅かすことは出来ない。だが、内部の不安や不満を恣意的に煽ることは出来る。それからウィルとっては、居心地の悪い生活が続いた」
そこで、彼の声が低くなった。話の核心を感じ、フィオナは身を乗り出した。
「――俺たちが17になる年だ。とうとう焦りだした何者かが、動いた。城の内部で、ウィルの命が狙われ出した」
一般的に、西大陸では女性は15歳、男性は17歳が成人年だ。
これは正式に結婚が認められる年でもあり、王族にとっては、国王が在命中に継承者に王位を譲ることが出来るようになる、意味のある年齢だ。
成人した継承者への王権の移譲は、現王の一存に拠るものになる。
いつウィルが王になってもおかしくない状況、というのは、反対派にとってはおいしくない事態なのだろう。
当時のことを思い出したのか、ヴァンの顔が険しく歪められた。
「時間の問題だった。足が不自由な状態で凶手に襲われれば、いくらあいつでも逃げられない。だから、俺は――」
「ウィルを連れて、逃げた……」
「ああ」
頷いた彼に、フィオナは息を吐いた。それならば、分かる。
彼がウィルを思い、起こした行動だ。ならば何故、誘拐などと自分を貶めるようなことを言うのだろう。
「でも、合意の上、だったんですよね? ウィルも、ヴァンの助けを必要として――」
「あいつがどこまで、俺の意見に賛成していたかは分からない。ただ、あいつを死なせないためにはそれしかないと思って、強引に説き伏せた面もある」
「でも……」
きっと感謝しているはずだ。自分の命のために、全てを投げ打って共に逃げた弟に、感謝しないわけがない。
なのに、ヴァンの言葉は、どこか自分を追い詰めているようにも聞こえた。
「ヴァンは、ウィルに怪我を負わせたことだけは、今も後悔していると言いましたよね? じゃあ、ウィルと国を出たことも、今ここにいることも後悔はしていない、ということですよね?」
「…………」
フィオナの問いに対し、ヴァンは長い沈黙の後、はっきりと答えた。
「後悔はしていない。必要だったことだ。あの国は、あいつを失うわけにはいかない」
「なら!」
強い言葉で身を乗り出し、フィオナはヴァンの腕を掴んだ。少し驚いたように、ヴァンが振り向く。
「まるで、罪を犯したみたいに言わないで下さい。あなたがウィルのために、国のために起こした行動なら、それは、周りがなんと言おうと、正しいことのはずでしょう!?」
「その通りだ」
当たり前のように言われ、フィオナは拍子抜けした。
「え?」
「お前はたまに、驚くほどの理解力を見せる」
フィオナを見下ろすヴァンの目は、言葉の通りの感心があった。
「俺は今も不安になる。本当にこれが、ウィルにとって正しいことだったのか。ただ、確実に言えるのは、俺にとっては正しいということだ」
その言葉に、ようやく理解する。
ヴァンの中には、二つの望みがある。
ウィルにとっての幸せと、ヴァンにとっての幸せだ。
それが全く一致しているかどうかは、分からない。それは、おそらく誰にも分からないことだ。
だからこそ不安にもなるし、己を戒めようともする。
「周りがなんと言おうと、ウィルがどう思おうと、俺はあいつを守る。それが俺の使命だ」
だが、不安はあっても迷いはない。
彼は、愛する兄と祖国を飛び出した瞬間から、一切の迷いを捨て、己の信じた道を突き進むことを決意したのだ。
――迷いのないその瞳は、そのような状況にあっても、希望を捨てていないように見えた。
先にある何かを、彼は見据えている。
「だが、お前はひとつ思い違いをしている」
ヴァンの持つ強さに改めて身を打たれていると、彼は付け加えるように訂正した。
「俺が罪人であることは間違いない。一国の王子を拐かしたのだ。これが平民であれば、間違いなく死刑を言い渡される大罪人だ。ただ、俺は立場上罪を問われることはないだけだ」
「それは……ウィルとヴァンは一緒に逃げただけで……」
「そうだな、その手がある。ウィルを凶手から守るため、俺はあいつを連れて国を出た。だが力及ばず、追いかけてきた凶手の手によってウィルを死なせてしまった――そうすれば、国に戻っても美談になるか」
「何を……」
何を言っているのか。彼が悪趣味な冗談を言う人間ではないと分かっているだけに、その言葉にフィオナは眉をひそめた。
「シュヴァルト帝国のバルドゥル帝王を知っているだろう。彼は今でこそ、牙狼王などと呼ばれ畏怖されているが、もとは帝位継承から最も遠い皇子だった」
次にヴァンが口にしたのは、異国の王の名だった。
「シュヴァルトは『王以外は皆臣下』とされる長子継承制を取っている。長男以外の皇子は全員、軍人として勲功を挙げなければ出世できない徹底した実力主義だ。臣として兄に膝を屈することを是としなかったバルドゥルは、自分の上に連なる継承権保持者を全て殺した。あれは血塗られた玉座だ――それでも、奴はおこがましくも皇帝を名乗り君臨している」
シュヴァルトの軍事情は知らないが、現帝王の即位までの経緯は聞いたことがある。
彼は末子でありながら、兄皇子を全員殺し、また反対する勢力を徹底的に潰して玉座についた。
帝位を得た彼の凶刃は、次は国内の反政府的な他民族勢力に向けられ、彼らを蹂躙し屈服させた後は、周辺諸外国へと振り下ろされた。
圧倒的な軍事力と非情な戦略で、次々と周辺国家を従属させ、植民地としたシュヴァルト帝国の版図は今、建国以来最大を誇っている。
帝国従属国となったニーチェ、ベルクソン、ディルタイは、いずれもエルドラド王国と東の国境を接している。
狼の牙は、もはや西大陸の目と鼻の先まで迫っているのだ。
「そこまでの凶行がまかり通るのはあの国くらいかもしれないが、多かれ少なかれ、似たようなことはどの国でも起こっている。それはお前もよく分かっているだろう」
ヴァンの投げかけに、フィオナは顔を強ばらせ、俯いた。
フィオナの父は、第二王子だった。第一王子だった父の兄が一度は玉座についたのだが、子を成す前に急逝し、思わぬ形で権力が転がり込んだのだ。
未だにあれは現王の陰謀だったのだと、裏で囁く者もいる。
フィオナは否定したかったが、その陰謀論を立証することも出来ない代わりに、疑いを晴らすことも出来ないのが現実だ。
ヴァンは、エルドラドの国情についても熟知しているらしい。
権力を巡る陰謀論は、どの国でも、どの時代でも、決して途切れることはない。
(だからって、ヴァンがウィルを殺すなんてこと……)
彼らを知る者からすれば、そんなことは、考えるだけでもおぞましい。
きっと、ヴァンはもっとおぞましいのだろう。
自分が、ウィルの血に染まった玉座に座る――
そんなことを嫌でも考えさせられる環境に、彼はずっと置かれてきたのだ。
フィオナならば、どうだろうか。気がおかしくなるかもしれない。毎晩夢にうなされるかもしれない。ウィルの笑顔を見る度に、やりきれなさと不安に苛まれるだろう。いっそ、彼を連れて逃げ去りたいと――
そう、ヴァンは思ったのだろうか。
ハッと思い至り、顔を上げる。
「俺がウィルをここで殺して、国に帰ったとしても、馬鹿正直に告白しなければ罪に問われることはないだろう。同じように、俺を王にするために、誰かがウィルを殺したとしても、俺が罪に問われることはない。それが例え、俺の指示だったとしてもだ。醜い話だが、それが現実だ」
だが、彼の横顔を見て、フィオナは悟った。
一瞬でも彼と同じ理解を得られたかと期待したが、当ては外れたようだ。
――そこにあるのは、ただ何かから逃げている者の目ではない。
確かに前を見据え、先に進もうとする者の眼だった。
だが彼は、自嘲気味にこう締めくくった。
「俺はただ、兄殺しの玉座につきたくないだけなのかもしれない」
「そうは見えませんけど」
「お前の目は面白いな」
振り返ったヴァンの表情は、いつもよりも柔らかい。感心したように言われ、フィオナは喜びたかったが、そうできなかった。
彼の眼差しの先は、今よりずっと高みにある。
フィオナには想像することもできないその気高い未来を、揺るがぬ瞳で見つめている。
――同じ未来を想像することも、理解することも出来ない己の底の浅さに、怒りにも似た感情を覚えたことを、フィオナが自覚することはなかった。




