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第三十四話 箱庭の夢


 フィオナが森の家に戻ったのは、すでに夕方に差し掛かろうという時分だった。


 朝、ルイロットに手を引かれて門をくぐってから、実に半日以上が経過していた。


 帰りの道のりも、やはり霧に覆われ、正確な距離や時間は分からない。

 そもそも上ったのか、下ったのか、平地だったのか、それすらも覚えていない。


 一体何が起こったのか。呆然と、グラデーションを彩る空を見上げながら、玄関のドアを開けると、複数の声に迎え入れられた。


 咎める声。心配する声。


 回らない頭で聞くそれはおぼろげで、一枚膜を張った向こう側の世界のように、わんわんと共鳴しながら耳に届く。

 ぼんやりと眺める彼らの顔すらも、見慣れた家の内装すらも、どこか非現実的で奥行きを感じない。鏡像のようだ。


 やがて、わんわんと響く音が周囲から遠ざかり、フィオナは徐々に焦点が合ってくるように、広がりきった感性が収束していくのを感じた。


「こんな時に、無断でいなくなるのはよくないな」


 鼓膜を打った声は、今度ははっきりと聞こえた。


「本当に、心配したんだよ」


 目の前にあったウィルの顔が、鏡像から実物へと切り替わる。


「ごめんなさい」


 本当に、なぜ外に出てしまったのだろう。


 謝りながらも、後悔以上に疑問が頭を占めた。

 足下がふわふわする。いまだ、霧に覆われたあの森を歩いているような錯覚があった。


 心ここにあらずなフィオナに、ウィルは小さくため息をついた。

 呆れられたかもしれない。

 そう思い、彼の目を見るが、車椅子の麗人は心配そうに微笑んでくれた。


(なんでこんなにやさしいんだろう)


 そんなことまで考えてしまうのは、いつもとは違う精神状態だからだと自覚する。

 霧がかった脳裏が、たくさんの謎を運んでくる。


 なぜ。どうして。


 分からないことはいっぱいあった。知りたいと思わないではなかったが、聞くべきではないと自重していた部分が多い。


「ウィルは……」


 自分でも考えがまとまらないまま口を開く。何かを聞こうとしたのだが、その時、外から馬の嘶きが聞こえ、フィオナは唇を閉じた。


 ジェードか、クンツァイトか。

 そう言えばジークとヴァンは、今日は家にいるんだったろうか。

 何かを考えようとするほど、思考が溶けていく。


(なんで、私はここにいるんだろう)


 いつまで、いれるのだろう。


 夢じゃない、けど、夢みたいな場所。

 終わりが来て欲しくないのに、いつ来るのかと待ちわびているわけではないのに、意識せずにはいられない。

 焦りとも怯えともつかない――心臓の裏側を蹴り上げるような――遠くから、何者かの足音が近づいてくるような――徐々に浸食していくこの気持ちは、多分、彼らがいう『覚悟』なのだろうと、フィオナは悟った。


 灰色の毒のようなこの諦観が全身に回ったら、安らかな気持ちになれるのだろうか。


「お姫様」


 出入り口の戸が開き、カミュが苦々しい顔で縦枠に腕をかけた。

 その後ろに立つラウの横顔が、まるでヴァンのように眉間に皺を寄せた、険しい表情を刻んでいる。

 彼らが外に出ていたことすら気付かなかった。


 重苦しい空気が部屋に流れ込み、


「ふざけんな!」


 リッドの怒声が、そのただならぬ状況を物語っていた。


「帰れ!」

「リッド、落ち着け」


 ラウが、玄関先でリッドの肩を掴んでいる。その先にいる何かに対して少年は威嚇しているようだが、フィオナたちがいる位置からは見えない。


「カミュ」


 促すような、ウィルの冷静な声。

 カミュは渋面を作り黙り込んでいたが、フィオナの顔を見据え、ようやく口を開いた。


「……お客さん、みたいだぜ」


 

 まだ、毒は全身には回っていない。





               ◇  ◆  ◇





「あれ? この曲、聞いたことある」


 不揃いな鐘を鳴らし、家に入ってきた精霊は、開口一番そんなことを口にした。


 その小さな家では、手作りのオルゴールから静かな旋律が流れていた。

 白ネズミも、曲に聴き入っているのか――単に寝ているのか、いつものように騒がしい滑車の音を響かせることもなく、檻の中でじっとしている。


「わ」


 音に気を取られた精霊は、不注意で軽く鳥籠にぶつかった。

 ちょうど頭の位置に籠がぶら下がっているため、額を打ちつけ撫でさする。


 一本の止まり木が差し渡されたシンプルな鳥籠は、さび付いた戸口が開きっぱなしになっていた。

 檻の中の止まり木で、羽を休めるものはいない。苦情を申し立てるようにギシギシと音を立てながら揺れる檻は、もうずいぶんと長い間、空のままだ。


 この家の中のものは、そんな風に、もうずいぶんと長い間、そのままにされたものが多い。

 まるで、この家自体の時が止まっているかのように、もうずいぶんと長い間、そのままにされている。


「ただいまー」

「おかえりなさい、ルイロット」


 奥のテーブルに座る人物に声をかけると、いつも通りの声が返ってくる。


 別にここはルイロットの家というわけではない。

 彼はこの森の精なのだから、どこにいようと家の中をうろついているようなものだ。

 ただ、この空間に「ただいま」というのは、癖のようなものだった。


「のどが渇いちゃった」


 茶を要求され、この家の主が席を立つ。


 彼が座っていた席の後方――この家で唯一、頻繁に使われている棚には、四人分のティーセットが置かれている。

 洒落たティーテーブルを囲む椅子は三つしかなく、棚の片隅で伏せられた残り一人分のカップが使われたことは、ついぞない。


「はい、どうぞ」


 精霊が手前の椅子に座って待っていると、慣れた手つきで入れられた紅茶が前に差し出された。


 香り立つ紅茶の湯気を顔にかけながら、精霊が熱そうにふぅふぅと息を吹いた。一口のみ、やはり熱かったのか顔をしかめて舌先を出す。


「ねぇレイン、前もちょっと思ったんだけど、やっぱり、あの子ローズに似てるよ」

「そうですか?」

「あ、でもローズは泣き虫だったからなぁ。気まぐれだったし。そのへんは、あの子のほうが大人だよね」

「実年齢で言えば、あの人の方がよっぽど大人なはずですけどねぇ」

「アハハハハッたしかに」


 コロコロと笑う。


「それに、ローズはすぐなんにでも首を突っ込んだよね。あの家だってさ……ハハッ」


 てのひらを温めるように、もしくはカップを冷ますように両手で包み込んだまま、ルイロットが言葉を続ける。


「ま、ぼくはローズのそういうところ、好きだったけどね」

「私はお節介だと思いますよ。人には、それぞれに定められた運命っていうのがあるんですよ」


 対するレインは、優雅に片手でカップを持ち上げながら、唇をつけた。


「大抵の人間は、生まれながらにそれを背負って、死んでいく。それにわざわざ干渉するっていうのは……まあ、どうでもいいですけど」


 どうでもいい。彼は大抵、その言葉ですべてを片付ける。


「おかげでぼくは、退屈しないで済んでるけどね」

「それは好いことです。あなたが退屈すると、ロクなことにならない」

「へへへっ」


 誤魔化すように笑って、気になることをほじくり返すように、ルイロットは身を乗り出した。


「ねぇレイン」

「なんですか?」

「生まれて、背負って、死んでいくのだけが人間、ってこと?」

「簡単にいえば、そうですね」

「じゃあ、レインも?」

「ええ……もちろん、そうですよ」

「ふーん?」


 しげしげとレインの顔を凝視する精霊は、探っているというよりは、砂に埋もれている綺麗な石を探し出そうとしているようだ。

 きっと彼には、レインが何を背負っているか、分からないのだろう。


 精霊には分からない。

 精霊は、生まれながらに属性が決まっている。背負うもの、生きる意味など考える必要もないくらい、その存在価値――役割がはっきりしている。


 この世で、人間ほどその役割が不明瞭な生き物は、他にいないだろう。

 だから皆、生きながらに己の存在価値を探し、さまよい歩くのだ。


「ああ、あなたが言っていた意味、なんとなく分かりましたよ」

「ほんと?」

「彼女はなかなか賢い女性です」


 おそらくそれは、彼が『ただの人間』に与える中では、最上級に分類される賛辞だ。


「少なくとも、あの女よりは賢い。それだけで、私にはとっても好印象です。まあ、それゆえに――気付いているんでしょう。今の自分のいる場所が、本来の居場所ではないことに」


 いつまでも続く音楽に、レインは席を立ちオルゴールに近づいた。


 大きく口を開けた蓋の裏に、長方形に切り取られた鏡がついていたので、かがんで覗き込む。

 翠と紅のオッドアイが映り込むが、レインはニコリともせず鏡から視線をずらし、その下についた小さなネームプレートを読んだ。


 タイトルは、『箱庭の夢』


「……分かってるんじゃないですか」


 パタン、と蓋を閉じる。


 カラカラカラカラ……


 曲が止み、静かな空間が舞い戻ったのはわずかな時間だけで、思い出したように、滑車の音が復活する。



 その小さな家では、今日も仄かな紅茶の薫りが漂っていた。

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