第一話 ある日森の中
(どうして、こんなことに……)
足の痛みに堪え、闇雲に森の中を駆け抜けながら、フィオナは、そればかりを考えていた。
15歳の誕生日の夜。フィオナの継母――エクレーネの従者が、突然私室に訪れた。
城に仕える者たち一同から、ささやかな祝いを用意していると告げられ、疑う余地もなく城外へと連れ出された。
今宵は月のない夜――新月だ。星明かりだけが頼りの暗い庭で、突然口を塞がれ、荷物のように馬車に運び込まれた。
一体どれくらい時間が経ったのか……馬車が急停車し、降ろされたそこは、360度の闇。外灯一つ見えない、鬱蒼とした森だった。
そして、誰もいない森の中で、彼はこう言ったのだ。
『お逃げ下さい、フィオナ様』
まだ年若い従者――ロバートの説明は、理解に苦しむものだったが、義理の母であるエクレーネが、フィオナを亡き者にしようと企んでいることは確からしい。
残酷な命令を受けたが、どうしても実行することは出来ない、と顔を歪めたロバートは、震える手でフィオナの髪を掴んだ。黒炭のように艶やかな、漆黒の髪。
この髪と、猪の心臓を持ち帰り、白雪姫を確かに殺したと、エクレーネに伝えるのだとロバートは言った。
『そんなことをすれば、あなたの命が……!』
『すぐには分かりません。私はエクレーネ様の鏡の処分も任されています。これを秘密裏に売り払い、その金を持って暇をいただき、父と二人で別の国に移ります。ご心配なさらないでください』
『本当に、大丈夫なのですか?』
『……あなたは、あなたの命のことだけをお考え下さい。王城で生まれ育った姫君を、このような場所に捨て置く私をお許し下さい。……どうか、この先あなたが、平凡でも幸せな日々を送れますように――』
もう、『お姫様』には戻れない。
祈るように囁かれた言葉が耳にこだまする。平凡で幸せな日々。決して叶うことがないと思っていたその夢を、こんな形で切望することになるとは、思いもよらなかった。
「でも、一体、どこに……向かえば……」
とうとう足が動かなくなり、息も切れ切れに、木にもたれかかる。
逃げながら、途中何度も転んだので、服も手足もボロボロだ。
行く当てもない。ここがどこかも分からない。
そう途方に暮れそうになった時――ふわり、と視界がかすみがかった。
「霧……?」
一瞬、自分の目がおかしくなったのかと思った。だが、頬に触れる白い靄はひんやりと湿っていた。
「……?」
人影が、見えた気がした。
小さな影だ。子どもくらいの。
「誰かいるの?」
確かにいる。
笑い声が聞こえた気がした。
影は、人とは思えない素早さで靄の中を飛び回り、白雪姫を混乱させた。
夢かもしれない。そう思った。
だが、影はまるで白雪姫を誘うように、奥へ奥へと進んでいく。
つられるように足を踏み出す。疲労はあったが、先ほどより体力が回復した気がした。
進むべき道が見つかったからかもしれない。
その正体がなんであれ。
「……家……!?」
霧が晴れだした頃、赤い屋根が視界に飛び込んできた。
二階建ての、おもちゃのように可愛らしい家だ。
森の中だというのにちゃんと門構えがあり、その内側には、人の手で丹念に育てられたのであろう花々が、美しく花壇に咲き誇っている。
人がいないとは思えなかった。緊張と期待を胸に、家の門をくぐる。
この時にはすでに、不思議な影の存在は消えていたが、フィオナもまた、新たに出現した不思議な家に、意識を奪われていた。
「すみません」
ドアの前で声をかけるが、返事がない。
もう一度声をかけ、ノックをする。試しにドアノブに手をかけると、鍵がかかっていなかった。
「どなたかいらっしゃらないんですか……?」
断りもなく家に侵入するのははばかられたので、ドアをあけた隙間から首を突っ込み、中の様子を窺う。その時――
「すみませ……」
がぃん。
ごぅん。だったか、ごぇん。だったかもしれない。
ともあれ、衝撃と共にそんな音が鈍く脳天に響き、白雪姫は意識を失った。