第十六話 ウィルの花
「見ろよ――ホラ!」
「わぁ……すごいすごい!」
誇らしげにその場所を『見せびらかした』リッドを、フィオナは手放しで賞賛した。
「特別な場所がある」と言うリッドに従い、家の裏手から少し歩いたところで、「目をつぶれ」と指示を出された。
足下の危うい森の中で目をつぶるのは、少し危なっかしいが、リッドに腕を掴まれ、そうっと歩き続けると、しばらくして、ようやく、目を開けていいと合図があった。
視界に広がったのは、一面の薄紅色。
春風が、花吹雪を舞い上がらせる。
一本の大きな樹が、縦横無尽に枝を広げ――その全てに、葉の代わりに美しい薄紅色の花を咲かせていた。
風に乗り、ひらひらと服に舞い降りた花びらをつまみ上げる。
近くから見るその花は、限りなく白に近く、ほのかに色づいていた。
想像したこともないような、幻想的な光景が、そこにはあった。
新芽がのぞく早春の森で、たった一本だけ、白い花を全身に咲かせる不思議な樹。
「すごい、すごいリッド! これはなんていう名前の樹なの?」
「名前?……名前は……忘れた!」
まあいいじゃん、と軽く言って、樹に駆け寄るリッド。
絶え間なく花びらを散らす木の下に立つと、まるで花で出来た部屋にいるみたいだった。
「よく、こんな場所見つけたわね」
「まー、本当のこと言っちまうと、ユーリが教えてくれたんだ」
「ユーリが?」
「ユーリの国にもあるらしいけど、ここは『ちょっと咲くのが早い』って言ってた。だいたい、ユーリの国では聖日祭の次の満月の日に満開になるらしいけど、聖日祭はまだだもんな」
目の前の樹は、もう満開だ。枝の先まで蕾が開いて、隙間なんてないように見える。
「ここを知ってるのってオレとユーリだけだから、あいつに声かけようかと思ってたけど……よく考えたら、別に、誰にも教えちゃいけないって決めてるわけじゃねーもんな」
家の中で、ユーリがいなくて不満そうだったのはそのせいだったらしい。
だが、そのおかげでフィオナは、こんな素敵な場所を知ることが出来たのだ。
「教えてくれてありがとう!」
心から感謝すると、リッドは照れたように視線を逸らし、そのまま地面に横になってしまう。
地面には、雪のように花びらが降り積もっていた。
フィオナは、リッドの隣に寝転がった。
「なんか、あったかいね……」
「ん……」
ふわふわの花びらの寝台は、春の日差しを吸い込み、心地よい温もりを与えてくれる。
二人で花天井を見上げ、ひらり、ひらり、落ちてくる花びらを掴もうとした。
が、不規則に揺れる花弁は、するりと指の間をすり抜ける。
「……この樹さ、ウィルっぽくね?」
ぼんやりと花びらが落ちてくる様子を眺めていると、リッドがそんなことを言った。
「……うん、ウィルっぽい」
美しく、儚げで、掴み所のない姿。
それでいて大きく手を広げ、包み込んでくれる。
「じゃあこれは、ウィルの樹ね」
「そうだな。ウィルの樹、ウィルの花。それが名前ってことで」
ユーリに教えてもらったはずの正式な名を忘れたリッドが、そういって笑う。
「リッドって、ウィルのこと好きよね?」
身を起こして聞くと、寝転がったリッドが驚いたように目を見開き、フィオナを見上げた。
3人部屋が嫌だからと、いつもことあるごとにウィルと同室がいいと駄々をこねている気がする。
「まー、そりゃあ……一番やさしいし」
視線を宙にさまよわせながら、頭の後ろで腕を組み、リッドは寝転んだまま言葉を選んだ。
「……王族とか貴族ってさ、みんな嫌なヤツばっかだと思ってたんだよ。普通に生きてるヤツのこと馬鹿して、下に見てるっていうか」
そういうリッドの言葉に、少し違和感を感じた。彼自身も、一国の王子であるはずだ。
「でも、ウィルは違う。オレが知ってて、ウィルが知らないこととか教えたら、すげーって褒めてくれるし。それに……逃げてもいいんだって、言ってくれるから」
でも、今それを彼に聞いてはいけない気がして、フィオナは幹に背を預けて座り込み、黙ってリッドの言葉に耳を傾けた。
「頑張らなくていい、焦らなくていいって言ってくれるんだ。だからオレ、ここにいられる……今はまだ」
焦らなくっていい――
『ゆっくりと、一歩ずつ、出来ることから始めればいい』
そう言われて救われたのは、フィオナだけではなかったのだ。
「うん、やっぱそうだな」
「リッド?」
何かを思い立ったように、リッドは腹筋で上体を起こした。
「オレ、ウィルのこと好きだ」
「私も、好き」
金色の瞳が、意を決したようにそう告白して、フィオナは考えるよりも先にそう答えていた。
お互い、顔を見合わせて笑う。
「今度、ウィルもここに連れてこよーぜ。ユーリに、この花いつまで咲いてるか聞いてみるよ」
「みんなには、見せてあげないの?」
「うーん、そうだな……とりあえず、ヴァンは一番最後だな」
「いじわるね」
それでも、『見せない』とは言わないのが微笑ましい。
きっと、リッドにとってウィルは『大好き』な母のような存在で、他のみんなも、大切な家族なのだ。
(私も、『家族』になれてるかな……)
出会った当初のリッドは、いつも視線を逸らして、怒ったように話されることが多かったのだが、最近はそんなことも少なくなった。
確認する術はないけれど、少しずつでも、彼らの日常の一部になれていたらいいと、フィオナは思った。
――その時、繁みが揺れる音が聞こえた。
「……何だ?」
リッドが表情を一変させ、素早く音のした方に目を向けた。つられ、フィオナも息を潜める。
耳を澄ますと断続的に聞こえる音は、少しずつ遠ざかっていくようだった。
「獣……かしら?」
「かもな……ちょっと、見てくる。オマエはここにいろよ。絶対に動くなよ!」
「うん。気を付けてね」
猫のようなすばしっこさで、物音のする方へと消えていくリッドを見送り、フィオナは『ウィルの樹』の下で小さくなった。
「リッド、大丈夫かな……」
「だいじょうぶだよ」
「……!?」
返ってくるはずのない答えに、凍りつく。
「な、な、なにっ? あなた、誰っ?」
一体いつの間にいたのか、すぐ傍らに座り込んでいた少年に、フィオナは転がるように距離を取った。
「ひどいなぁ、そんなに驚かなくてもいいじゃない」
「お、おどろくに決まってるでしょう!」
コロコロと鈴が鳴るような声で笑うのは、ほんの小さな子どもだった。
5、6歳くらいだろうか。
綿菓子のようなふわふわの金色の髪に、紅く色づく頬。大きな瞳は、森の湖を映したような、深く穏やかな碧だ。
鮮やかな翠色のケープを羽織った少年は、天使のように愛らしい姿をしていた。
「ちょっと風にイタズラしてもらっただけだから、何もいないよ。リッドも、そのうちあきらめて戻ってくるんじゃないかなー」
「い、いたずら? あなた、何者なの? リッドのこと、知ってるの?」
「知ってるよ。あいつ目ざといんだから。なんでか見つかっちゃうんだよねー」
少年は最後の質問にだけ答えて、コロコロと笑った。
「君の名前をおしえてよ。ぼくはね……うん、みんなルイロットって呼んでるよ」
「……フィオナ、よ。ねぇルイロット、あなたはどこから来たの? こんな森の中で、あなたみたいな小さい子が一人なんて、危ないじゃない」
「フィオナっておもしいこというなー」
「???」
コロコロと笑う。何が面白いのか、まるで分からない。
「ねぇ、フィオナ。今、楽しい?」
「え?」
突然の質問に戸惑う。覗き込んでくる大きな瞳は、今日の青空を映し込んだ様な、柔らかな碧だ。
(あれ……? さっき、私……)
先ほど、彼の瞳を見て、なんと感じただろうか。
「ね、楽しい? 楽しくない?」
違和感の正体に気付く前に、重ねて問われる。フィオナは答えた。
「楽しい、わ。すごく楽しい」
「本当に? なんで?」
「……家族が出来たの」
「家族?」
「ううん、まだ家族じゃないかもしれない。でも、そんな風に思えるような、大切な場所。私、兄弟がいなくて……母も、私が7つの時に亡くなって……その後のお義母様も、私のことを嫌ってて……家族ってどういうものか、よく分からなくなっていたから」
「お父さんは?」
「お父様……は……」
父の顔を思い出す。父王は、とてもフィオナを大切にした。だがそれは、エルドラドの王としての、エルドラドの未来を決める王女『フィオナ』に対するものだった。
「お父様にとって……私は、大切な人形……だったんだと思う」
鳥籠に閉じ込めて、傷つかないように、美しく育てた。
「今の家ではね、夕食はみんなでテーブルを囲んで、笑って食べるの。たまに、しゃべるのに夢中になりすぎて、怒られたりして……家のことはみんなで分担して、助け合ってやっていくの。私は何をやらせても下手だけど、前よりは出来ることが増えたと思う。ありがとう、って言われるとすごく嬉しい。……まだ、私が言うことのほうが多いけど……」
話し出すと言葉が溢れ出して、なぜ突然現れた小さな子に、話してしまうのか不思議だった。
(きっと誰かに、聞いて欲しかったのね)
彼らに話すのは少し気恥ずかしいから、知らない誰かに聞いて欲しかったのだ。
「じゃあ、幸せ、なんだ?」
「しあわせ……?」
「違うの?」
(幸せ……)
『平凡で、幸せな毎日』
今のこの生活は、そう呼べるのだろうか。
幸せな日々というのは、ずっと続いていくものだ。例え続かなくっても、『きっと続いていく』と信じられる、穏やかな日々。
市場で見た果物屋の夫婦のように。手を繋いで歩く4人家族のように。
(今のこの生活は、ずっと続くの……?)
そんなことは、考えたこともなかった。否、考えようとしていなかった。
考えたくなかった。
『続くわけがない』と、どこかで思っていたから。
『いつか』が来るまで、ここにいられる。そんな止まり木のような日々だったから。
考えた瞬間、今の『楽しい』が壊れてしまう。
それは、『幸せ』というには、あまりにも不安定なものな気がした。
答えられないフィオナに、ルイロットの瞳が興味深そうに瞬いた。
「……って、おもしろいなぁ」
「……え?」
思考の迷路に迷い込んでいたフィオナは、ルイロットの呟きを聞き取ることが出来なかった。
「やっぱり、レインに相談してみよっと」
うんうん、と頷いて自分で納得して、ルイロットはまたコロリと話題を変えた。
「ね、じゃあさ。リッドはどう? 君から見て、彼は楽しくやってる?」
「リッドは、楽しそう……だと思うわ。よくからかわれたり、怒られたりしてるけど、みんなに、弟みたいに思われてる」
「ふーん、じゃあ、うまくやってるんだ。ならいいんだけど。気になってたんだよね。あの子は、ちょっと特殊だから」
「特殊? それって、どういう……」
「まーたオマエか、ルイロット」
ガサッ、と繁みをかき分け、リッドが戻ってきた。
「やぁ、リッド! おひさしぶり! 元気だった?」
「オマエ、またこんなとこ、ひとりでうろついてんのか。とっとと帰れ」
「えー、ひどいよ。ぼくにも新しいともだち、紹介してくれてもいいじゃない」
「紹介する前に仲良くなってんじゃねーか。なぁフィオナ」
「え? そ、そうね。色々お話しできて、面白かったわ」
彼と話している時間は、楽しいというよりも、何か不思議な感じがした。
以前にも感じたことのある、ふわふわとした感覚。
「って、もう日ぃ傾きかけてんじゃねーか! うっそだろ? そんなに時間経ってねーよな?!」
空を見上げ、リッドが声を上げた。
まさか、とフィオナも西の空に目を映すと、日の入りを前に、空が独特のグラデーションを描き出しているところだった。
「オレ、どんだけ歩き回ってたんだ……?」
リッドが青ざめる。二人がこの場所に来たのは、朝――どれだけ遅く見積もっても、昼前、だったはずだ。
時間の感覚がおかしい。こんなことは、前にもあった気がする。
「ここ、いいよね。ぼくも好きだな」
思い当たる前に、やはりルイロットの声に、違和感はかき消された。
ウィルの樹の周りを、緑色のケープをひらめかせて、くるりと一周する。その羽が生えたかのような身軽さに、目を奪われた。
白い花びらが舞い散る中を飛び回るルイロットは、さながら祝福の天使だ。
「この子ね、とっても綺麗でしょう? でも、ほんのちょっとしか咲かないんだ」
ルイロットがてのひらを上向けてかざすと、あんなに指の間をすり抜けて捕まらなかった花びらたちが、吸い込まれるように彼の小さな手に落ち着いた。
それを、ふぅ……と息で吹き飛ばす。
天使が吹く、春の息吹だ。
「もってあと3日、かな。全部散っちゃう」
「え……」
「とっても儚い花なんだよ、だから綺麗なんだね」
散り続ける花天井を見上げ、ルイロットが愛おしそうに笑う。
その表情は不相応に大人びていて、親が子を慈しむかのように穏やかだった。
(ウィルの樹――優麗で、儚くて……)
すぐに散る、と聞いて、フィオナとリッドの顔が曇った。二人同時に、ウィルの名前をつけたことを、少し後悔したのだ。
その表情を見て、ルイロットが首を傾げる。
「あれ、どうしたの? この花がすぐに散っちゃうから? でも、命なんて全部散るものだよ?」
半分ほどの年の子に、もっともらしいことを言われた。
「――ああ。でも、また来年咲くんだよ。同じ時期に、同じように、同じだけ」
思い出したように、ルイロットが付け加える。
「ずっと続いていくんだよ。そう思うと、儚いんだか、強いんだかよくわかんないよね」
その言葉に、ぱっと、リッドの表情が明るくなった。多分、自分も同じような顔をしているのだろう。
そんな二人の変化を見て、ルイロットはやっぱり、今度は逆向きに首を傾げた。
「ほんと、よくわかんないなぁ……人間って、なんでそんなことで、一喜一憂できるんだろう?」
最後の方はほとんど独り言のようなもので、フィオナたちには聞こえなかった。
「んじゃね!」
と、軽い言葉を残して、ルイロットは去っていった。
風のような身軽さで、もうどこへ行ったか分からない。
「大丈夫かな。ちゃんと帰れたかしら……」
「大丈夫だろ、あいつもこの森の子どもだし」
「リッドは、ルイロットがどこに住んでるか知ってるの?」
「知らねーけど、よくこの辺で見かけるから、このあたりに住んでるんだろ。これだけ広い森だから、オレたち以外に誰か住んでても不思議じゃねーし」
「それはそうね……」
「たまに遊んでやってんだよ。なんっかあいつ、年の割に大人びてて、言うこと生意気だよな。ナマイキ!」
声を殺して笑うリッドは、嬉しそうだ。
最年少の彼にとって、ルイロットは弟のような、唯一、大人ぶることの出来る存在なのだろう。
「この森、悪魔が住んでるなんて言われてるけど、全然だよな。あんなガキんちょもウロウロしてるし。こんなキレーな場所もあってさ」
「悪魔?」
「知らねーの? オレの地元ではみんな言ってたぜ。迷いの森には悪魔が住んでて、森に迷い込んだ人間は食われちまうんだ~って。今思えば、あれって大人の脅しだったんだな。悪魔どころか、住んでたのは変なヤローばっかだし、ビビって損したぜ」
確かに、一人で森をさまよっていた時は、真っ暗でおどろおどろしくて、今にも背後から黒い魔物の手が伸びてきそうな恐怖があった。
だが、今こうやってリッドと見る景色は、まるで楽園だ。
この森に住んでいるのは、悪魔じゃなくて、きっと守り神だ。
だとしたら、今日一日がまた、こんなにも穏やかに過ぎたことを、神さまに感謝しなければいけないだろう。
そんな風に思いながら空を見上げると、先ほどよりも朱色が濃くなっていた。
「……とりあえず、帰るか」
「そうね」
「うわー、やべーな。ヴァンのやつ、まだ帰ってきてねーだろうな」
そうこうしているうちにも、西の空はどんどん茜色の陣地に染まっていく。
――――
「……?」
今、誰かの視線を感じた気がして、フィオナは振り返った。
少し視野を広く持って、繁みを観察するが、特に何か変わった様子はない。
(気のせい……かな)
小さな子どもが、隣に座っていることにも気付かなかったような、鈍感な人間の勘など、当てにならないだろう。
「よしっ、フィオナ、走るぞ!」
「きゃっ?」
手を掴まれ、ぐんっと引っ張られる。
「足下気を付けろよ?」
「う、うん!」
足の速いリッドに引っ張られるようにして、フィオナは森を駆けた。




