プロローグ
――むかしむかしあるところに、世にも美しいお后さまがいらっしゃいました。
「鏡の精、ヴァリウス。出てきなさい」
お后の日課――それは、私室でひとり、彼女が実家から持ち出した魔法の鏡に話しかけること。
「ご用ですか? エクレーネ様」
「聞こえなくってよ、ヴァリウス」
「……ご用でございますか? 麗しのエクレーネ様」
「まあいいわ」
いささか不満そうに承諾したエクレーネの前に姿を現したのは、闇色の衣装を纏った若い男だ。血の気のない白い面に、爛々と輝く漆黒の瞳。人にはない尖った耳と牙は、鏡の精というよりも吸血鬼を彷彿とさせる。――だが、美しい。
エクレーネは美しい男が好きだった。そして、美しい男が跪き、誰よりも美しいと己を褒め称える時間が、何よりも好ましかった。
爪の先まで磨き抜かれた繊手で、不思議な文様の刻まれた男の左頬を撫でながら、エクレーネはこの世の誰よりも艶めいた笑みを閃かせた。
「真実を映す鏡の精、ヴァリウス――さぁ、世界で最も美しい女性はだぁれ?」
それは彼女にとっての至福の時間だ。
正直な鏡の精は、『それは、私の目の前にいるエルドラド王国ただ一人の妃、我が主エクレーネ様です』と言う。
まるで決まり事のように。
否、決まっているのだ。
それは永劫に移ろうことのないもの、つまり、真理である。
……はずだった。
「それは、今宵15歳のお誕生日を迎えられた――エルドラド王国ただ一人の姫君、フィオナ様です」
世界が凍り付いた。
エクレーネの腰を抱き寄せるヴァリウスは、睦言のように――それこそ、いつもとなんら変わらぬ甘い声で囁いた。
「なん……ですって……?」
「それは、今宵15歳のお誕生日を迎えられ、大人の女性へと成長された――エルドラド王国ただ一人の姫君、フィオナ様です」
問い返すエクレーネに、真実を映す鏡は、青年の姿で答えた。変わらぬ答を。
「聞こえないわ! ヴァリウス!!」
「それは、今宵15歳のお誕生日を迎えられ、大人の女性へと成長された――今まさに、月のない空を眺め、叶わぬ夢に思いを馳せていらっしゃる――」
「っ……もういいわ!」
ヒステリックに叫んだエクレーネの手がヴァリウスの頬を打つ。長い爪に割かれた左頬から滲む血を、男は静かに拭った。
その目には動揺も怒りもなく、ただ無機質に――鏡のように、目の前の女性の激昂を映している。
「フィオナ――白雪姫……」
憎々しげに、その名を呼ぶ。
『白雪姫』は、エルドラド王国の姫――現国王の前妻の生んだ、一人娘につけられたあだ名だ。
白雪のように美しい姫君。幼い頃からのその美しさは際立っており、国境を越えて評判を呼んだ。
白雪姫をぜひ妃に、と懇願する王子は数知れぬ。だが、彼女の父王は、その全ての回答を保留し、価値の吊り上げを図った。
エルドラド王国はさして大きくもなく、資源も豊かではない国であるが故、白雪姫の存在は貴重な『商品』だった。
最も利益となる国へ嫁がせる。そのために、何かと理由をつけ、彼女が女性として成人する15歳まで待った。
明日にでも、彼女を手にする男が決まるはずだ。
「認めない……認めないわ。あの娘が、私より美しい……? あの娘が……!」
手元にあったキャンドルスタンドを掴み、振り向きざまに投げつける。それは、部屋の中央に鎮座した大きな鏡に命中した。
指紋一つなかった鏡面が大きくひび割れる。いつの間にか、ヴァリウスの姿は消えていた。
キャンドルの火が、絨毯に零れ引火する。
「ロバート! ロバート!!」
ベルを振り鳴らし、エクレーネは扉の向こうで待機していた従者を呼んだ。
何事かと飛び込んできた男はまだ年若く、見目麗しい。20歳にも足らぬ青年は、元は猟師の息子であり、父親の代理で王の鹿狩りに同行した際、戯れについてきていたエクレーネに見初められ、傍仕えに引き立てられた。
「何事ですか、エクレーネ様!! ――っ、火が!?」
「ロバート、すぐに白雪姫を殺し、その髪と心臓を私の前に差し出すのです」
「一体、何をおっしゃっているのです……それよりも、早くお逃げになってください!」
「お黙りなさい!」
ぼぅっ! と、絨毯に広がっていた火が一斉に燃え上がった。まるで妃の怒りに呼応したかのようなタイミングに、ロバートが息をのむ。
「お前なら鹿を撃つよりも簡単なはず。名手である父親の名に傷をつけたくなければ、この私の命令を完遂なさい」
飴色の艶めかしい髪が、炎に煽られ赤々と染まる。まるで命ある蛇のようにうねる髪が、炎の熱さに悶え苦しんでいるようにすら見えた。
「で、ですが、エクレーネ様……フィオナ様の命を奪うなど、そのようなことは……!」
「私の命令が聞けないというの?!」
バシンッ! と、空気同士が叩き合うような衝撃音と同時に、炎は異常なほどの業火となって部屋を覆った。
その怪奇現象に、ロバートは初めてある噂に思い当たった。
若く美しい後妻、エクレーネ妃は、本当は数百年を生きた魔女の一族であるという――そんな眉唾物の噂に。
「お、仰せの……ままに……」
地獄のごとき業火の中心に佇む主の命に、ロバートは本能的な恐怖に促され、頷いた。