後編
沿線沿いを歩いていく。人間の電車にハルトとユウキは乗れないと駅で言われてしまったので、歩いていくことにしたのである。
事前の申請が必要、とのことだった。
「ハルト、ママのことあまり覚えてない?」
「全然覚えてないよ。俺が八ヶ月の頃に離婚したんでしょ?」
「そうだよ。俺は二歳になったばかりだった」
「ユウキはママのこと覚えてる?」
「覚えてる。変な人だった。ママって、なんていうのかなあ、『あなたは何もしなくていいのよ』とか『あなたは責任を感じる必要はないのよ』とか『あなたという存在はいるだけで素晴らしい』とかたくさん言ってくれるんだけど……、近くにいる人がママのことを好きになり過ぎちゃうんだって」
「どう言う意味?」
「わかんない」
ユウキは首をゆっくりと左右に振った。
「でも立派な群れのリーダーなんだと思う。前に仲間を紹介してもらった」
「俺、それ知らない。いつ?」
「ハルトが学校に行ってる時だよ」
ふうん、とハルトは頷いた。
もうすぐママの家だ。
電車が通り過ぎた。風が吹いて体毛が乱れる。
ユウキが頭を振って、それからハルトを見上げた。
「なに?」
尋ねるとユウキは「ううん、なんでもない」と返事した。
白いマンションが見えた。
小さな公園を横切ると、公園にはたくさんの犬がいた。時々猫もいる。
みんな自由に歩いていた。あの中でハルトも遊びたいが、今はそんなことを言っている場合ではない。
公園の脇を抜け、それから木々のアーチを抜けると、十階建てのマンションが現れる。
数えるほどしか訪れたことこないマンションに、少しだけ気後れしてしまう。
ハルトは「何階だったっけ?」とユウキに尋ねると、「五階。504号室」と返事が返ってきた。
憂鬱な気持ち半分、緊張半分でインターホンを押すと、静かな声で『はい』と聞こえてくる。
「あの……、俺だけど。ハルト」
『え? ハルト? どうしたの? 待っててね、ロック外すから』
やはり突然訪ねたのはよくなったかな、と思ったのは一瞬のことで、ママが少しばかり弾んだ声で『上がってらっしゃい』と言った。歓迎されている。なんとなく確信めいたものがあった。
ハルトはママに促され、言われた通りに五階を目指す。ユウキと共に乗り込んだエレベーターのランプが、ゆっくりと数字を増やしていった。
エレベーターを降りるとドアがいくつも並んでいる。ママの部屋は504号室は一番奥の部屋の手前だった。
再びインターホンを鳴らすと、ママが笑顔で出迎えてくれた。
「いらっしゃい! よく来たわね! あ、ユウキも一緒なのね。まあいいわ、とにかく上がってちょうだい」
ママはきちんと化粧をしていた。細くて少し背が高いと思っていたが、久しぶりにあったママは背が小さくなっていた。どうやらハルトは背が伸びたようだ。
出された飲みものを啜るが、本題はといえば、ハルトはなかなか切り出せずにいた。こんな時に限ってユウキもだんまりで、沈黙がひどくつらい。
トン、とドアの向こうで音がした。
びくりとハルトは身をすくめるが、ママは意に介した様子はない。
それから暫く時間が経った。
ポーン、と小さな音が鳴って、十八時になったことを時計が告げる。
ええいままよ、とハルトは口を開く。
「……えっと……、パパなんだけど」
「うん。喧嘩でもした?」
「違くて……、問題はパパじゃない……、うんと、パパなんだけど……」
「うん」
ママの瞳が優しげに弧を描いている。
居心地の悪さ。それを感じてしどろもどろとなるハルトの足に、ユウキの前足が触れた。
「……ハルト、今十四歳よね?」
唐突に言われて、ハルトは頷いた。
「ケーキあるのよ。食べる?」
「ケーキ? ううん、要らない」
「そ?」
ハルトは「あれ、何のために俺、ママに会いに来たんだっけ?」と考えていた。
ハルトはパパに確かに叩かれたが、それは躾の範囲のことで、ちょっとコツンとされた程度のものだ。正直なところ、裁判所の犬たちがそう慌てて対応しなければならない事案のようには思えなかったのだ。
パパがちゃんとしろ、今のままでは立派な大人になれないと言ったことは至極当然のことのようにも感じられた。
きっかけはなんだったか。そうだ、やると決めたことをちゃんとやらなかったからだ。パパにねだって始めたサッカー。だけどハルトは練習の厳しさについていけず、辞めたいと言ったのだ。次は水泳。最近はダンスだ。
自分でやりたいと言って始めさせてもらったことでさえやり通せない——、確かにそれではちゃんとした、立派な成犬になれないような気がした。
パパはダンスをたった三ヶ月で辞めたがったハルトを、あの日はひどく叱責したのだった。
「ハルトはさぁ、進路決めたの?」
ママが唐突に言った。
「塾とかは? 通ってる?」
「通ってる……、結構大変。進路は、取り敢えず少しだけレベルが上の学校を目指すつもり」
「そっか。何になりたいの?」
「何に?」
何とは、なんだろう。
「パパみたいに、公務員を目指す? それとも他に何か夢とかある? 昔は絵を描くのも好きって言ってたよね? 今も絵は描いているの?」
「……描いていない。夢……」
夢とは何だろう。
漠然とプードルになるものだと思っていたわけだが、どうやらハルトはプードルにはなれないようなのだ。
とは言え、プードルになれたとしても、その先も生きていかなくてはならないわけで、となるとパパやママのようになんらかの仕事に就く必要があるわけだ。
何になりたいの?
そう問われてもこれと言ってなりたいものも夢もない自分に気づく。また、こんな風に生きていきたい、というプランもまた、特にはないのであった。
同級生はそういった道筋をすでに決めているのだろうか。
不意に、今まで感じたことのない不安がふわりと浮かび上がる。
「ハルト?」
ママに呼ばれてはたとそちらをみる。
「……プードル」
口が勝手にそう言っていた。
「プードル?」
「プードルになりたかった」
「……あら……、そう」
ママは眉を顰めてそう返事した。
プードルになったら? プードルになれたら、なんだと言うのだろう。
「そう。プードルね……そう……」
ママは困惑するでもなく、そう言って、それから自分もコーヒーを飲んだ。
「ハルトはプードルになったら、何をしたいの?」
「……わからない」
「なぜプードルになりたいの?」
なぜと言われても、それが当然だと思っていたのだ。
自分もそのうちユウキと同じような、真っ黒なスタンダードプードルになって、一緒にドッグランを走るのだろう、と。
「ハルト、犬っていうのはね、割と自由だけど大変なのよ。ずっと犬としての役割を果たさなくてはいけないの」
「ママ?」
「そうね、あなたにも紹介しようかしら。ちょっと待ってね」
ママがカップを置いて、立ち上がる。
それから、先ほど何やら音が鳴った扉をママが開けた。
犬。
ハルトはそう思った。
そこには——、大きな大きな、グレートデーンがいたのである。
ハルトは言葉を失い固まった。
グレートデーン。そう思ったが、それは——、人間であった。
四足歩行をする人間。
ハルトの体の動きは完全に停止していた。
グレートデーンはママの足元におとなしく収まった。
「あと一頭いるのだけど、今はそうね……、あら、寝ているみたい。この子は最近犬になったのよ」
気がつくと、ハルトはコップをテーブルの上へと落下させた。その派手な音でハッとする。
ママはのんびりと「あらあら」といい、溢れたお茶を布巾で拭いていた。
「……、ママ……」
「なあに?」
喉が乾涸びて、声が上手に出せない。
ママは先ほどと変わらず微笑んでいる。
人間が、ママの足元で犬のフリをしている。
理解の及ばない風景だ。
「おかしいわよね、私には人から責任を取り上げる性質があるみたいなのよね……」
ママは別に困った顔をするでもなく、グレートデーン、いや、大男の体毛——、髪を撫でている。
ハルトは椅子から立ち上がった。
自分は何を見ている? 何が起きている?
「ハルト、覚えておいてね」
「……、なに、を……?」
「犬になりたいなんていう人はね、ただ責任を持ちたくないだけなのよ。逃げなの。でも私はそれを悪いことだと思わないのよ。可哀想とは思うけどね」
——あなたはどうなりたいの?
ママがなんでもないことのように尋ねた。
当たり前のことのように、平然と尋ねたのである。
ハルトはついに悲鳴を上げた。
ユウキはキョトンとした顔をしてハルトを見ていた。
あらあら。またもやママは言う。ママののんびりとした声が鼓膜を掠める。
ハルトはユウキをグイグイと引っ張り、転がるようにして玄関へ向かって走りだした。
靴が上手く履けない。
「また遊びにいらっしゃい」
ママがそう言ったが、ハルトはもう振り返ることができなかった。
やっとのことで靴を履くと、ハルトは階段を使って一階を目指す。住民と思しき人間とすれ違うが、不審者を見る眼差しを投げかけつつ「君、このマンションではペットにリードをつける決まりだよ!」という。
リード?
誰に?
なぜ?
「ハルト」
誰かがハルトを呼んだ。ユウキだ。
だがそれに応えている余裕はない。文字通り、転がるようにして走っていく。
あれはなんだ?
あの奇妙な光景が何度も脳裏を過ぎる。
あれは、あれは、あれはなに?
「ハルト」
ユウキに再び呼ばれてようやく足を止める。
ここがどこかは判然としなかったが、駅の近くであろうということはわかった。
十九時を告げる鐘がなった。
呼吸が荒い。それでも、脈打つ心臓が少しずつ落ち着いていく。
そのままユウキとともに見慣れない街を歩いていくと、心がまたザワザワとした。ユウキがハルトを見ていた。
明るい店の看板、信号機、それに車のクラクションの音。
ゆっくりと歩いていく。
いろんな人が行き交うが、だれもハルトとユウキを気にした様子はない。
と、突然に子供の泣き声が聞こえた。
振り返ると、二歳ほどの幼児がいた。どうやら、転んでしまったようだ。父親があやしている。
「申し訳ありません」
すれ違った男の声がそう言った。スマホで通話しながら頭を何度も下げている。
「いやいや、部長のお力無くしてはなし得ないことでしたよ」
「本当ですって」
サラリーマンが一人の男を間に挟んでおべっかでまみれた会話を繰り返していた。
そこから逃げ出したくなり、ハルトはユウキと共に走った。
息が切れる。街が飛んでいく。電車がゴウゴウと音を立てて走る。車がクラクションを鳴らして他の車を威嚇している。大人の男たちの怒鳴り声がした。
逃げなくては。
ハルトは走る。とにかくアスファルトを蹴って走り続けたのだ。
そして気づけば、見知らぬ公園へと辿り着いていた。
ユウキはハルトを見上げていた。
それから、いつもの調子で「ハルト」と呼んだ。
「……ハルト」
「うん」
「ハルト。さよなら」
突然、ユウキが別れの言葉を紡いだ。
「ユウキ?」
ハルトは混乱したまま、しゃがみ込んでユウキの目を見る。
ツヤツヤの綺麗な瞳。湿ったお鼻がハルトの頬に押し付けられ、そして舌がべろんと頬を舐めた。
「さよなら、ハルト。子犬の時間はもう終わったよ」
木々のさざめきが聞こえた。
「……なに、どういう意味?」
「わかっているはずだよ。さよなら、チワワの弟」
そう言った後、ユウキは何事もなかったかのようにあくびをした。
「ユウキ……?」
風が吹いた。ユウキは何も答えない。
「帰ろう」
どちらがそれを言ったかはわからないが、それが合図だった。
それきりユウキは黙りこくった。二人で沿線沿いを歩いていく。
一駅、二駅、三駅。
ようやく見慣れた街が見えてきた。
風が冷たい。
ユウキは晴翔をじっと見ていた。
「おおい!」
どこからともなく投げかけられた声に、ユウキが「ワン」と返事した。リードの先に力が入り、ユウキがそちらに向かって走っていく。後を追う形で、晴翔も走った。
パパだ。
仕事帰りのパパがバタバタと駆けてくる。
ズレた眼鏡を押し上げながら年甲斐もなく全力疾走である。
お互いがお互いに辿り着いたところで、それぞれの歩行が止まる。しかしユウキは例外で、パパに会えた喜びを全身で表すかのように跳ねて、足元にまとわりつき、くるくると回っていた。
ユウキをひとしきり撫でた後のパパは立ち上がり、それから晴翔をみた。
「聞いたよ、ママのところに行ったんだって?」
「……うん」
そうか、とパパは複雑な顔をした。
「大丈夫だったか? その、ママは別の人と暮らしているだろ?」
「うん」
「……そうだ、進路で悩んでいるんじゃないかとママが言っていたんだが、大丈夫か? 家でも話そう」
「うん」
「……これからは、パパもちゃんと晴翔と話し合えるようにするよ」
「うん」
「その、……この前は、そんなんじゃ立派な大人になれないなんて言って悪かった」
大人。
涙が出た。ユウキがそれに気づくといち早くハルトに飛びついた。それから、どうしたのかと顔を覗き込む。
澄んだ瞳に自分の顔が映った。そこに映るのはハルトで、それは間違えようがなく人間の子供の顔だった。
「おいおい、どうしたんだ、晴翔。何を泣いてるんだ? どうしたどうした」
パパが焦った顔をしている。それから落ちつかせるように、晴翔の肩を叩いた。
涙で滲んだ視界で街を見る。
晴翔は大声で泣いた。わあわあと泣いた。行き交う人がチラチラと晴翔を見て、或いは気付かぬふりで通り過ぎる。
晴翔はどちらの大人になるのだろう。
ああ、自分もこの世界に組み込まれる日が来たのだと察すると、自然と涙が引っ込んで、そしてお腹の中で何かが消えてなくなる感覚があった。
「……落ち着いたか? 大丈夫か?」
返事ができないまま、晴翔は頷いた。
「そうか……? じゃあ帰ろう」
パパに促されて歩き出す。
晴翔はリードに繋がれたユウキを見た。
ユウキは何も言わずに歩き出す。時折り、晴翔を見守るように振り返りながら。
「バイバイ、ユウキ」
「何か言ったか?」
パパの言葉に晴翔は首を振った。
さよなら、さよなら、さよなら、さよなら。
雑踏が、濁った空気が、嘘に塗れたお世辞が晴翔を掠めていく。
さよなら、さよなら。
交差点で、二頭のボーダーコリーを連れた男が晴翔の横を通り過ぎた。赤いリボンと青いリボン。二頭の犬はちらりと晴翔を見て、それから何事もなかったように歩いて行った。
さよなら。晴翔は彼らの背中に向かって言った。
さよなら、さよなら。ただ暖かっただけの穏やかなあの日常。
さよなら。
晴翔は自分の中の何かを切り離して、そこに置いた。誰かに呼ばれた気がしたが、晴翔はそれに気付かぬふりで歩いていく。
さよなら、チワワの晴翔。
「晴翔、何か買って帰ろう」
本当はそのままうちに帰りたかったが、晴翔は素直に頷き、それからパパの言葉に「いいね」と返事をした。
ユウキが歩いている。賢くて優しいスタンダードプードルのユウキ。
「ユウキ」
呼ぶと、彼はきちんと振り返ってくれた。
可愛い二つの瞳が晴翔を見た。
ユウキの頭を撫でると、それに応えるように目が細められた。
ユウキはもう何も話さなかった。




