第5話
夜の厳島の宮尾城は緊迫した空気が漂っていた。
陶晴賢の軍は十日ほど前から宮尾城の東側、塔の岡に陣を張り、小競り合いはあるもののまだ本格的に攻めてこない。
ただし陶軍は宮尾城の水源を絶つという兵糧攻めで、籠城兵たちが降伏するのを待っている。
鎧直垂姿の白髪の老人――井上元兼は板張りの天守閣に一人籠り、陶軍の陣のある方角を睨みつける。
だが真夜中なので漆黒の闇が広がるばかりだ。ところどころ光るかがり火以外、視界にはなにも入らない。
思えば自分は毛利家当主四代に仕えてきた。
元兼は昔をしみじみ回想する。
今の元就公は赤子のときから知っている。
自分が元服を済ませて間もなくお生まれになったのを覚えている。
その元就公も今では年長者。年上の侍は自分以外に毛利軍にいないか、いても数人くらいだろう。
だから齢七十に届くか届かむかという老いぼれの自分には、籠城の役はきつ過ぎる。
すると甲冑を着た一人の侍が天守閣に現れ、ひざまずく。
瞬間、元兼は敵軍の兵かと思い、抜刀する。
「井上殿、刀をお収めくだされ。某はお味方、小早川隆景公の家臣、乃美宗勝でござる」
元兼は刀を収め、床に座る。
乃美宗勝と名乗る侍、齢は三十くらいか。元兼は改めて目の前の男を見定める。
「まずはこれを」
宗勝は竹水筒を手渡す。
元兼は躊躇した後、竹水筒の水を飲み干す。
敵兵が味方と偽り、水に毒を盛っているかも知れぬ。そうした考えがよぎったが、体が自然に動いて水を口にしていた。
しばらく水を飲んでなかったのに気づく。生きた心地がしなかったのはこのためか。
体の調子が少しずつ戻ってくる。
陶軍が水源を絶ってから、海水を蒸留して飲むしかなく、その水もまずいので、しばらく水を飲むのを控えていた。
「先ほど、水軍で島の海岸に到着しました。小早川公は海岸近くの平地に陣を組んでいるところでござる」
「それは大義であった」
元兼はつぶやくように言う。
「合戦のときは近づいておりまする。夜明け前か、早朝にも毛利軍が合戦開始の合図を出す手はずになっているかと。井上殿もそろそろ甲冑をご準備されたし」
「心得た」
東の空が仄明るい。日が昇ってから間もないのだろう。
博奕尾と呼ばれる峠に本陣を構え、元就は眼下の陶軍本陣を虎視眈々と見据えていた。
時刻は卯の刻(6時)少し前くらいだろうか。
今しかない。獣の直感が知将を決意させる。
突然、元就は床几から立ち上がり、軍配で螺役の足軽に合図する。
螺役が法螺貝を吹く。出陣の合図だ。
ほぼ同時に狼煙が上がり、陣太鼓が鳴り響くが、「ウォー」という武者たちの鬨の声がそれを打ち消さんばかりの勢いだ。
まず騎馬隊が山道を駆け下り、槍を持った足軽たちがそれに続く。
厳島の山頂から狼煙が上がる。
いよいよか。
安宅船の甲板に佇む武吉は、おもむろに法螺貝を吹く。
その音は海賊たちにとり、厳粛にして神聖な旋律だった。
海上にひしめく村上水軍の軍船がにわかに動き始める。
「始まったかえ」
振り向くとオツルノオバだった。
「ああ、始まっちまったぜ」
武吉が答える。
同じ頃、海岸近くの平地に陣を組んだ小早川隆景も狼煙を確認した。
「出陣だ。行くぞ」
隆景の号令で、足軽が銅鑼を叩く。
先発隊が一列に並んで陶軍の軍勢に向けて火縄銃を討つ。
次に第二隊が弓を射つ。
陶軍も応戦し、矢が飛んでくるが、矢の勢いが弱まる頃合いを見計らい、隆景が法螺貝を吹く。
第二隊が退き、騎馬隊が陶軍に突進する。
「殿、申し上げます」
斥候が走って来て陶晴賢の前でひざまずく。
「毛利本軍が峠の博奕尾あたりからこちらに突進しております。われらを側面から攻撃する模様です」
「なにっ」
晴賢は床几から立ち上がる。
「元就は宮尾城に来るのではないのか。
かくなる上は宮尾城の先発隊の半分を本陣に戻らせ、毛利本軍と戦わせよ」
「御意」
斥候が走り去る。
元就め。なにか企んでいると思ったが、山から奇襲をかけるとは想像だにできなかった。
一筋縄ではいかない男だ。元就というやつは。
晴賢は腕を組み、吐息を漏らす。
(つづく)




