第1話
光の粒が海面をはねる。
南風が運ぶ潮の臭いが体中に浸透してくる。
春の瀬戸内海はどこか母胎回帰を思わせる名状しがたい郷愁がある。
筋骨隆々とした大柄の若者が一人曳舟に乗り、どこへ行くとでもなく沖へ沖へひたすら櫓を漕いでいた。
ふんどし一枚の裸に朱色の陣羽織を羽織り、巨大な帆立の前立てがついた赤い兜をかぶっている。
陣羽織の背には丸に「上」の金文字がはためく。
髪も髭も胸毛も伸び放題。きつい体臭を漂わせ、毛深い全身は遠目には熊に間違われた。
男の名は村上武吉。
村上水軍の頭だった。
村上水軍は世間から海賊と蔑まれ、恐れられもしたが、武吉は自分たちを海の侍と心得ていた。
海の侍は陸の侍とは違う。
陸の侍たちは姑息な策謀をめぐらした者が権力を略奪する。
だが海の侍たちは一番腕っぷしの強い男、一番骨のある男を自分たちの頭に選ぶ。
それは猿の集団で一番けんかが強い猿がボス猿になるのに似ている。
だから自分が海の侍たちの頭になった。武吉はそう思う。
弱肉強食という獣にも人間にも通用する太古からの掟。これが海の侍たちにも息づいている。
武吉はふと尿意をもよおし、ふんどしを脱ぐと、海に向かって放尿する。
放尿している間、武吉は幼少時代を思い出す。
タカ爺も曳舟で自分を連れて沖に出かけては、よくこんなふうに海で用を足していた。
「武吉、海の水がどうしてしょっぱいか知ってるか。
それはなあ、じいちゃんが毎日、海で小便してるからじゃ。
じいちゃんが子供のころは、海の水は今みたいにしょっぱくなかったぞ。甘かったぞ」
幼少の武吉は「嘘だあい」とタカ爺に答えたものだが、その一方で、タカ爺ならやりかねないとも子供心に思えたものだった。
タカ爺なら世界中に海水を全部しょっぱくしてしまうような、常人には考えもつかないとんでもないことをやってのけるのではないか。
それほどまでに、タカ爺は破天荒で底知れぬ豪傑だった。
そのタカ爺が亡くなると武吉は肥後国の菊池家に出され、半ば養子のように育てられた。元服も菊池家で済ませた。
陸の侍、つまり本物の武士の家で教育を受けたため、読み書きを覚え、連歌をたしなむようになった。
武吉が菊池家に出されたのは後に家人から聞くところによると家督争いに巻き込まれぬためとのこと。
長じて瀬戸内海の能島に戻り、しばらくすると武吉は村上三島の頭領になっていた。
村上家は武吉が住む能島の他、来島、因島に分家があり、ときには争うことがあった。
ところが来島の村上通康が、娘を武吉に輿入れすることを条件に能島村上と和議を結んだ。
武吉が村上三島全体の頭になれたのはこの和議のためだと陰口を叩く者がいた。
それでも武吉は来島村上との婚姻関係だけでは、むくつけき海賊衆を束ねることはできないと信じていた。
気骨があり、男気がある者でなくては村上水軍は動かせない。
「あらあら、りっぱな逸物じゃのう」
武吉が声をした方を振り向くと白髪の老婆――オツルノオバが曳舟を一人で漕いでそばに来ていた。
武吉は小便は済ませたがまだふんどしは脱いだままなのに気づき、慌ててふんどしを穿く。
「武吉も大きくなったのう。女のワシが見てもほれぼれする。
じゃが若いときのタカ爺の方がもっと大きかった」
「オバ、覗き見すんな」
武吉が言う。
「覗き見なもんか。
タカ爺が亡くなってから、毎日この時間はここへ来てワカメを採るのがワシの日課じゃ」
オツルノオバはタカ爺――能島村上の元当主、村上隆勝の妻だった。
(つづく)




