4話 消える前のキス
夜が満ちていた。
月光が静かに海を照らし
波はまるで息を潜めるように
砂に触れては引いていく。
少女の身体は
もうほとんど透明だった。
肩も、髪先も、足元も
星明りと混ざってしまいそうだ。
「もうすぐ朝だね」
少女は海を見ている。
青年は少女を見ている。
どちらの視線も
離れたら崩れ落ちてしまいそうだった。
「怖くないの?」
青年の声は、震えていた。
少女は少し笑って
胸に手を当てた。
「…怖いよ。でもね、もっと怖いのは」
言葉がひとつ
潮風に乗って揺れる。
「あなたを好きになってしまったこと」
青年の心臓が痛む。
どうして恋は
こんなにも時間に追われるのだろう。
「好きになった瞬間から
私、溶け始めた気がするの。
恋を知った泡は
朝になれば消える運命だから」
海が小さく唸る。
月が光を強くする。
青年は少女の前に立ち
両手で彼女を包むように
触れられないまま
精一杯の抱擁をした。
「なら、朝なんて来なければいい」
「来るよ」
少女は優しく首を振る。
「時間は、誰の願いも待ってくれないの」
光が少女の膝から上へ
溶けるみたいに昇っていく。
急がないと
声まで消えてしまう。
「ねえ」
少女が顔を上げた。
涙の代わりに
星が揺れていた。
「最後に一度だけ
触れたかったな」
青年は
ためらわなかった。
触れられないと分かっていても
それでもいい。
この感情を
言葉以外で証明したい。
「触れるよ」
彼は少女に顔を寄せた。
星の光が
ふたりの間を震わせる。
一瞬
時間が止まったようだった。
唇が触れた。
触れられないはずの唇が
確かに触れた。
その瞬間
少女の身体は花火のように眩しく光り
きらきらと泡が空へ昇っていく。
「ありがとう」
声が淡くほどけた。
「好きだった」
音になった最後の想いが
青年の胸へ落ちる。
腕の中から
重さが消える。
光の粒がひとつ
青年の髪に落ちて
すぐに消えた。
夜明け前
世界は薄紫に染まり始める。
青年は海に向かって
静かに目を閉じた。
「さよなら」
「…さよならなんて言わないで」
潮風が
少女の声だけを連れて
青年の頬を撫でた。
涙は落ちない。
代わりに
胸の奥が崩れていく。
空には
新しい光がひとつ。
泡ではない
消えない星として
少女はそこにいた。
青年は手を伸ばす。
届かなくても
もう、忘れない。
夜の海は
その恋を抱き締めるように
静かに寄せては返していた。




