3話 夜告鳥の囁き
少女は、少しだけ人間の暮らしを知った。
青年が淹れる紅茶の匂い。
白猫が眠る体温。
壁にかかった時計の音。
そのすべてが、胸の奥で優しく鳴る。
「ここで生きていた気がするの。ずっと前から」
少女が言うと
青年は微笑むふりをして、目を伏せた。
「生きていたんだよ」
そう言いそうになって
喉の奥で飲み込む。
少女にとって
それは叶わない願いかもしれないから。
夜。
いつものように海を見ていた少女は
ふいに立ち止まった。
星の光が、彼女の身体を透かしていく。
向こう側に夜の波が揺れていた。
「ねえ…私、薄くなってる?」
冗談めかした声なのに
瞳は震えていた。
青年は近づいて
彼女の肩にそっと手を伸ばす。
触れられる距離なのに
触れられない現実が
胸を裂くように痛い。
「…怖いよね」
少女は頷いた。
涙も流せないほど怯えた顔で。
「私、朝になると消える…そんな気がするの。
理由は分からないけど、潮が引くみたいに
私という形が溶けていく」
青年は言葉を失った。
彼女の不安を否定できる材料が
どこにもない。
風が
少女の髪を揺らす。
光が髪に紛れて散っていく。
「ねえ」
星明りの中で、少女が囁いた。
「もし私が全部消えてしまったら…
あなたは、忘れてくれる?」
青年は、迷わず首を振った。
苦しいほど強く。
「忘れられない」
「君に、いてほしい」
少女は泣きたそうに笑った。
その笑顔は
夜告鳥が歌う前の静けさみたいに切ない。
「ありがとう」
ただそれだけ。
光の粒がひとつ
少女の足元から舞い上がった。
それは星へ帰る合図みたいに
寂しく揺れた。
夜の海は黙って
ふたりを見守っている。
消えてしまう恋を
そっと、寄せては返して。
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