2話 夜に溶ける手
少女が来てから
青年の部屋には、静かな変化が生まれた。
食卓に椅子がひとつ増えた。
彼は紅茶を淹れると、もう一杯分を用意するようになった。
白猫は少女の足に体を擦りつけるけれど
彼女の足はふわりと透き通って
猫の毛は触れているのかいないのか、わからない。
「私、ちゃんとここにいるよね?」
少女が笑いながら言ったその声は
少しだけ曇って聞こえた。
青年は答えようとして
喉の奥で言葉がほどけた。
確かに見えて
確かに声も届く。
けれど
触れようと手を伸ばすと
少女の肩は水面みたいに、淡く揺れた。
「……ごめん。驚いただけだよ」
青年は笑った。
触れられなかった不安を隠すように。
少女は窓辺に歩み寄り
夜空をじっと見つめる。
「星が、私を呼んでるみたい」
「呼ばれてるって、どんな感じ?」
青年は隣に立ち、質問で不安を散らそうとした。
少女は少し考えてから、答える。
「帰っておいで…って。
でも、どこへ帰ればいいのか
思い出せないの」
夜風が髪を揺らすたび
小さな光が、髪の先からこぼれた。
まるで彼女の一部が
夜に溶けていくみたいに。
「ここにいればいい」
青年は気づけばそう言っていた。
少女は驚いたように瞬きをして
ほんの少し、照れた表情をした。
「…ありがとう」
その声は優しいのに
どこか遠い。
時計の針がひとつ音を立てる。
その小さな音が
なぜか青年の胸を締めつけた。
どうしてだろう。
嬉しいはずなのに
寂しさがついてくる。
少女という存在が
まるで夢のように儚いと
心が勝手に理解してしまうから。
少女は海を見たまま呟く。
「朝が来ませんように」
青年はその言葉を
ただ黙って受け止めた。
夜は
ふたりを包むように深くなる。
その深さが
幸せの証なのか
別れの前触れなのか
どちらかは
まだ誰にも分からない。




