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夜にほどける  作者: 月愛
1/7

夜にほどける1話

その夜、海は不思議なほど静かだった。

 風は凪いで、波もささやき声のように寄せては返すだけ。

 まるで、何かを待ちわびて息を潜めているかのように。


 青年はひとり、古い海辺の家の窓辺に立っていた。

 街灯も少ない港町。夜は濃く、海は暗く、空だけが広い。


 彼の腕の中には、一匹の白い猫。

 目の色は海と同じ深い青。

 猫はときどき青年の顔を見上げ、小さく喉を鳴らす。


「今日は星がよく見えるな、シロ」


 青年がそう呟いた瞬間。

 空の一点が、まばゆく弾けた。


 隕石だろうか。

 流れ星だろうか。


 違う。

 光は尾を引きながら、音もなく海へと落ちてくる。

 まるで誘われたように、月の光の帯を滑り降りる泡のように。


 青年は息を呑んだ。


「……なんだ?」


 光は海にぶつかる直前、ふわりと形を変えた。

 水面が音なく持ち上がり、そこに“ひとり”が現れる。


 少女。


 濡れていない。

 けれど、水の中から生まれたばかりのように、肌は白く滑らかに輝く。

 髪は淡い青と白が混ざり、風に揺れるたび、海の泡のようにきらめく。


 彼女は震える声で呟いた。


「ここは……海?」


 青年は返事を忘れたまま、ただ見つめていた。

 足が勝手に砂浜へと向かう。

 腕の中の猫が興奮したように鳴き、青年の胸元へ爪を立てた。


「痛っ……! いや、ごめん、シロ」


 少女はその声に気づき、顔を上げる。

 その瞳もまた、海の深さをそのまま宿したような青さだった。


「君は……星の子なのか?」


 青年の問いに、少女は小さく首を振る。

 肩が揺れるたび、透明な光が舞った。


「わからないの。

 気づいたら、私は空を漂っていて……気づいたら、落ちてきて」


 彼女は自分の手を見つめる。

 手のひらが少し透けて、星々の光が皮膚の下で瞬いている。


 触れれば消えてしまいそうだ。

 それでも、目を逸らすことはできなかった。


「寒くないか? よかったら、家に……」


 言い終える前に、少女が震える身体をぎゅっと抱いた。

 その仕草は、人間と何も変わらない。

 だが、青年の胸には小さな波がたった。


(守りたい。消させたくない)


 理由なんていらない。

 ただ、その想いが胸の奥で確かに泡立つ。


「君の名前は?」


 少女は困ったように眉を寄せた。


「……わからないの。思い出せない。

 でも、呼んでほしい」


「なら、名前が思いつくまで……」


 青年は少し考えて、優しく微笑んだ。


「泡のように現れた君だから……『アワ』はどうだ?」


 少女は目をぱちぱちさせたのち、小さな笑みを浮かべた。


「アワ……。気に入ったわ」


 その笑顔は、波間に浮かぶ月影のように儚く綺麗だった。


 白い猫が一歩、少女の足元へ近づいた。

 猫が許した相手を、青年は拒めない。


「アワ。うちに来るといい。少し寒いだろう」


 アワは小さく頷き、青年の差し出した手に触れようとする。

 だがその瞬間、手がかすかに光り、指先は空気をすり抜けた。


「え……?」


 目を見開く少女。

 青年も息を飲む。


 触れられない。

 存在はここにあるのに。


 それでも。

 青年はそっと手を再び差し出し、言った。


「大丈夫。消えないなら、それでいい」


 アワは驚いたように彼を見つめ、

 そして微笑んだ。


 まだ二人は知らない。


 この夜の出会いが、

 泡のような儚さと、海より深い運命を抱えていることを。


              つづく

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