無関心の代償 告発の前夜
本作は、現代社会を覆う「無関心」という見えない壁をテーマにしたフィクションです。
報道や政治といった題材を扱いますが、専門的な知識がなくても読み進められるよう、人物の会話や情景描写を通じて理解できる構成にしました。
物語は、一人のジャーナリストが「真実」と向き合い、告発に至るまでの道のりを描きます。
どうぞ最後まで見届けていただければ幸いです。
無関心の代償 告発の前夜
プロローグ 静寂の裂け目
暗い部屋の中、蛍光灯の白い光が机の上の古びたノートパソコンを照らしていた。壁には貼り付けたままの新聞の切り抜きやメモ用紙が重なり合い、どれも「危機」という言葉を無数に繰り返していた。
浅倉光司は静かにキーボードを叩き続ける。背後で回る換気扇の低い唸りが、彼の心臓の鼓動と奇妙に重なっていた。
彼はかつて大手新聞社に籍を置いていた。だが「権威に都合の悪い事実」を追いすぎ、ついには職を追われた。今はただ、ネットの片隅で動画を配信する独立ジャーナリストとして生きている。登録者数は決して多くない。むしろ彼のチャンネルは何度も削除され、復活してはまた潰されることの繰り返しだった。
それでも浅倉は諦めなかった。なぜなら、彼が伝えようとする声は、命に直結するものだからだ。
「無関心は命を奪う」
それが彼の口癖だった。
政府が「安全だ」と繰り返す裏で、消えていくデータがある。教授や専門家が「心配はいらない」と笑う背後で、静かに押し隠される真実がある。そして、人々は日々の生活に追われ、耳を塞ぎ、やがて犠牲者となる。浅倉は何度も目の前でそれを見てきた。
彼の机の上には一通のメールが表示されていた。差出人は匿名。件名にはただ一言、「エボラ」と書かれている。
本文は短かった。
――次は日本だ。備えろ。利用される前に。
浅倉は息を呑んだ。
ただのデマかもしれない。しかし、これまでも「荒唐無稽」と笑われた情報のいくつかが、時間を置いて現実となったことを、彼は忘れてはいなかった。
彼はノートパソコンのカメラに向き直り、深く息を吸った。
「……今夜も、伝えるべきことがある」
赤いランプが点灯し、配信が始まる。
浅倉光司の声が、世界に向けて放たれた。
その声は、まだ誰も気づかない「無関心の代償」の始まりを告げていた。
第一章 忍び寄る影
第一節
その夜の配信は、いつも以上に視聴者が少なかった。画面右下に表示される視聴者数は二桁にすら届かない。
浅倉光司は、それでも言葉を止めなかった。
「……次に来るのは、エボラだ」
その一言に、チャット欄がざわめいた。
〈またかよ〉
〈陰謀論乙〉
〈エボラなんてアフリカの話だろ〉
軽薄な言葉が飛び交う。だが彼は気にしなかった。むしろそれこそが、人々の「無関心」の証だと知っていたからだ。
浅倉の目の前には、世界中の協力者から寄せられた断片的な情報が広がっていた。アフリカの小さな村で確認された不審な死者、ある研究施設に搬入された冷却コンテナ、そして国際会議の裏で交わされる製薬企業の契約。
どれも単体では証拠に乏しい。しかし繋ぎ合わせれば、一本の線になる。
「病気そのものより怖いのは、病気を利用する人間だ」
浅倉は声を低め、カメラ越しに視聴者を見据えた。
彼の脳裏に浮かぶのは、かつて共に取材した同僚の姿だった。大手新聞社にいた頃、同僚は「スポンサーの顔色を見ろ」と囁いた。その結果、ある重大な記事が揉み消され、国民は危機に備える機会を失った。あの時から浅倉の胸には、消えない怒りが巣食っている。
配信が終わったのは深夜二時過ぎ。
机に積まれたレポートの束を整理していると、再びメール通知が鳴った。件名には「忍び寄る影」とある。差出人は不明。
本文はこうだった。
――東京。既に始まっている。
浅倉は背筋を凍らせた。
もし本当なら、これはただの未来予測ではない。今まさに、足元から広がっている現実なのだ。
第二節 閉ざされた耳
翌朝、浅倉光司は近所の喫茶店にいた。店内にはモーニングの匂いが漂い、新聞を広げるサラリーマンやスマホに視線を落とす若者たちで賑わっている。
浅倉はカウンター席でコーヒーをすすりながら、無意識に周囲の会話へ耳を傾けていた。
「昨日の野球、観た?」
「株、また下がったなあ」
「芸能人の離婚、マジびっくりだよ」
そのどれもが、平凡で日常的で、安心できる話題ばかりだった。
――だが、そこには「危機」への感度が欠けていた。
浅倉は鞄から折り畳んだ紙を取り出す。それは昨夜匿名の差出人から送られたメールを印刷したものだった。
「東京。既に始まっている」
その言葉が脳裏に焼き付いて離れない。
もし彼が声を大にして「今、エボラが仕掛けられている」と告げても、ここにいる誰も耳を貸さないだろう。むしろ白い目で見られ、「また陰謀論か」と笑われるに違いない。
実際、かつて新聞記者時代にそう言われ、孤立した経験が彼にはあった。
「真実を告げても、人は聞かない」
浅倉は低くつぶやいた。
カウンター越しに、顔なじみのマスターが声をかけてきた。
「光司さん、また徹夜かい? 体壊すなよ」
「……ああ、大丈夫だ」
そう返すと、マスターはそれ以上は踏み込まなかった。浅倉が何を追っているか、うっすら察してはいる。だが彼もまた、多くを聞こうとはしない。
喫茶店を出ると、街は快晴だった。人々はビジネスバッグを手に足早に歩き、子どもたちは学校へ向かう。
すべてが「通常通り」に見える。
――しかし、その足元に見えない亀裂が走っていることを、どれほどの人が知っているのか。
浅倉は心の奥で確信していた。
無関心の壁こそ、真実よりも恐ろしい敵だと。
第三節 消された声
夜更けのワンルームに、浅倉光司の指が再びキーボードを叩く音が響いた。机の上には散乱したレポートやUSBメモリ、そして紙の地図。蛍光灯の下、その表情は疲れを隠さない。だが目だけはぎらついていた。
彼は数時間前に受け取った情報を整理していた。港湾の倉庫に謎の冷却コンテナが複数搬入されたという報告。積荷の送り主は、表向きは食品会社。だが裏を調べれば、軍需企業と繋がる影が浮かぶ。
「……やはり来ている」
浅倉は確信を深め、記事原稿を書き始めた。
午前一時を回ったころ、彼はその内容を動画配信用にまとめ、公開ボタンを押した。
だが、数分後。
「規約違反のため、この動画は削除されました」
冷たい文字が画面に浮かんだ。
浅倉は苦笑した。慣れていた。これで何度目かも覚えていない。だが、今回は異様に早かった。
「まるで誰かが監視していたみたいだな……」
視聴者の一人からメッセージが届いた。
〈光司さん、またBANですか?〉
〈でも俺は保存してます。拡散します〉
その短い言葉に、浅倉はかすかな救いを感じた。まだ、わずかだが耳を傾ける者がいる。
だが同時に、別の通知が届いた。
〈アカウントが一時停止されました〉
〈再開には審査が必要です〉
浅倉は椅子にもたれ、天井を見上げた。
消されたのは単なる動画ではない。彼の「声」そのものだ。
情報は存在しても、人々に届かなければ無いも同然。無関心の壁に加えて、今度は見えない手が、その声を遮断してきた。
「敵は外だけじゃない。中にもいる」
彼はつぶやき、再び机に向かう。
窓の外、東京の街は眠っていた。
だがその静けさの下で、確かに何かが動き始めていた。
第二章 沈黙の連鎖
第一節 遮断された声
その週、テレビのワイドショーは連日、人気俳優のスキャンダルを大きく取り上げていた。感染症に関する報道は、数十秒のニュース枠で「海外での流行に注意」と淡々と伝えるだけ。街の人々は気にも留めず、通勤電車はいつも通りの混雑を見せていた。
浅倉光司は、その光景に言いようのない焦燥を覚えていた。
机の上には最新の報告が積まれている。郊外の病院で「原因不明の高熱患者」が相次ぎ、隔離されたまま報道はされない。医師や看護師から寄せられた匿名の証言には「既知のウイルスでは説明できない症状」と記されていた。
彼は記事にまとめ、SNSに投じた。だが返ってくるのは冷笑ばかりだった。
〈どうせ大げさに書いて再生数稼ぎたいだけだろ〉
〈また陰謀論。飽きた〉
〈エボラなんて映画の中の話じゃん〉
浅倉は拳を握りしめた。人々は「無関心」という壁の中に安住し、自ら情報を吟味しようとしない。その隙間に、静かに死が忍び寄っていることに気づきもしない。
数日後、彼の古い友人から電話があった。かつて新聞社で共に働いた後輩だ。声はかすかに震えていた。
「光司さん……信じられない。隣の病棟で、若い医師が突然倒れて……。ニュースには絶対出ないと思う。でも、あれは……」
言葉は途切れた。電話越しに聞こえたのは、誰かの咳き込みと、慌ただしい足音だけだった。
浅倉はゆっくりと受話器を置いた。胸の奥で冷たいものが広がる。
――もう始まっている。
だが街の人々は、今日もスマホの画面で笑い合い、芸能ニュースに夢中だった。
その笑顔の裏で、確かに「見えない崩壊」が進んでいた。
第二節 最初の犠牲者
深夜の病院。救急外来の前に、担ぎ込まれた青年が酸素マスクをつけられ、必死の蘇生処置が施されていた。彼の体温は急上昇し、皮膚には赤黒い発疹が広がっていた。だが、医師たちは原因を特定できない。
「出血傾向が強すぎる……こんなの見たことがない」
緊迫した声が飛び交う。
浅倉光司がその情報を知ったのは、翌朝だった。匿名の看護師から送られてきたメッセージには、写真のないカルテの一部と短い文が添えられていた。
――彼は昨夜、亡くなりました。感染源は不明。報道はされません。
光司はスマホを握りしめ、目を閉じた。脳裏に浮かんだのは、数日前のチャット欄に並んだ嘲笑のコメントだった。
〈エボラなんて来るわけない〉
〈デマ流して飯食うな〉
彼らの言葉が、今はむしろ鋭い棘のように突き刺さる。
昼下がり、街はいつも通りに動いていた。カフェには若者たちが笑い声を響かせ、電車の広告には新作映画の派手なポスターが並ぶ。誰も、昨夜ひとりの命が消えたことを知らない。
――知らないまま、次の犠牲者が出る。
夜、浅倉は動画を撮影した。
「聞いてくれ。最初の犠牲者が出た。まだ報道されていない。だが現実だ。これは始まりにすぎない」
声は震えていた。怒りでも恐怖でもなく、悔しさの震えだった。
だが配信を終えた直後、通知が鳴った。
〈この動画は不適切な情報を含む可能性があるため、再生できません〉
浅倉は深く息を吐き、暗い画面を見つめた。
無関心と統制。その二重の壁に阻まれながら、最初の犠牲者は静かに葬られようとしていた。
第三節 広がる沈黙
数日後、浅倉光司のもとに再び匿名のメッセージが届いた。
――都内の病院で二例目。詳細は伏せられています。職員に口止め命令。
短い文面だったが、十分に重みを持っていた。すでに「最初の犠牲者」だけではない。感染は確実に広がっている。だが、テレビや新聞は一切触れない。朝の情報番組では、相変わらず芸能ニュースとグルメ特集が画面を埋めていた。
「沈黙している……いや、沈黙させられている」
浅倉は低くつぶやいた。
電話をかけた古い知人の記者も、言葉を濁した。
「光司、お前の言いたいことは分かる。だが俺たちには紙面のルールがある。裏が取れない以上、書けないんだ」
「裏を取ろうともしないからだろ」
声を荒げたが、返事はなかった。通話は一方的に切れた。
夜、浅倉は街を歩いた。繁華街は明るく、人々は笑い、酒を飲み、無防備に肩を寄せ合っていた。だが、彼の視線は群衆の中の咳き込みや、青白い顔にばかり向かう。
「広がっている……確実に」
しかし誰もが気づかないふりをする。医師も、官僚も、記者も、そして一般の市民も。
沈黙は恐怖よりも強い力を持って社会を覆い、事実そのものを闇に沈めていった。
帰宅した浅倉はノートパソコンを開き、震える指で新しい原稿を書き始めた。
タイトルは――「広がる沈黙」。
書き進めながら、彼は自分の声が消される未来を直感していた。
だが、それでも書かずにはいられなかった。
誰か一人でも、この声を拾ってくれることを信じて。
第三章 真実を追う者たち
第一節 小さな共鳴
削除と停止を繰り返す浅倉光司のチャンネルに、ひとつのコメントが残っていた。
〈あなたの言葉は届いています。信じています〉
短い一文に、彼は思わず手を止めた。
画面の向こうで何万人が嘲笑し、何百人が無視したとしても、この一人の声が、浅倉の胸に深く響いた。
翌日、見知らぬ若者から直接のメールが届いた。
「はじめまして。大学で情報工学を学んでいます。配信が消されても、データを保存して再発信できます。僕に手伝わせてください」
送り主は村瀬拓也という二十代の学生だった。
さらに数日後、別のメールが舞い込んだ。
「夫を原因不明の熱で亡くしました。ニュースは一切触れません。あなたの言うことが真実なら……私にできることを教えてください」
差出人は一般市民、幼い子を抱える母親だった。
孤立していたと思っていた声が、少しずつ浅倉に集まり始めていた。
確かに数は少ない。だが、彼にとっては救いだった。
夜、浅倉は小さなビデオ会議を開いた。
画面には拓也、そして匿名で参加する数名の顔が映る。皆、職業も年齢も異なっていたが、共通していたのは「沈黙に疑問を抱いた者たち」であることだった。
「私たちは少数かもしれない。でも、無関心に抗うためには声を上げ続けなければならない」
浅倉の言葉に、画面越しの人々は静かにうなずいた。
その瞬間、彼はようやく理解した。
真実を追うのは、決して自分ひとりではない。
小さな共鳴が、確かなうねりに変わろうとしていた。
第二節 分断の罠
オンライン会議を重ねるたび、浅倉光司の周りには少しずつ協力者が増えていった。学生の村瀬拓也は動画のバックアップと拡散を担い、看護師の女性は医療現場の証言を匿名で伝え、市民たちもそれぞれの経験を持ち寄った。
彼らは小さな灯火のように、互いの存在で暗闇を照らし合っていた。
だが、光が灯れば影もまた濃くなる。
ある日、拓也が慌てた様子で浅倉に連絡してきた。
「光司さん、SNSに偽アカウントが大量に出ています! 浅倉は金を受け取ってデマを流しているって……」
拡散されていたのは、浅倉の顔写真と歪められた音声を編集した偽動画だった。内容は幼稚で粗雑だが、見た人の多くは真偽を確かめようともしない。
コメント欄には〈金のための嘘つき〉〈人を煽って楽しんでいる〉といった罵声が並んだ。
さらに、仲間の中にも疑念が芽生え始める。
「どうして拓也君にばかり任せるの? 本当に信用できるの?」
「看護師さんの証言も、確認できないなら信じられない」
会議の空気がぎくしゃくと濁っていった。
浅倉は深く息を吐いた。
「これは偶然じゃない。俺たちを分断するために、誰かが仕掛けている」
彼の脳裏には過去の記憶が蘇っていた。新聞社にいた頃、ある記事を潰すために「記者同士を対立させる」策略が仕組まれたことがある。あの時と同じ臭いがする。
「信じるかどうかは、自分の目で確かめてくれ。それでもついて来られないなら、無理に残る必要はない」
浅倉の声は静かだったが、揺るぎなかった。
画面の向こうでしばし沈黙が続いた。やがて拓也が口を開いた。
「僕は残ります。先生の声が、最初に僕を動かしたんですから」
その言葉に、他の数名もうなずいた。
分断の罠は確かに存在する。だが、それを越えて繋がる者もまたいる。
浅倉は、闇の中に残るその小さな希望を手放すまいと決意した。
第三節 見えない敵
深夜、浅倉光司のアパートの前に黒い車が一台、無言で停まっていた。エンジンはかけられたまま、運転席の男は一度も降りようとしない。
カーテンの隙間からそれを見た浅倉は、背筋を冷たい汗が伝うのを感じた。偶然とは思えなかった。
その日、拓也から送られてきたデータには、ある奇妙な記録が含まれていた。政府の公開サーバーに一瞬だけアップロードされた文書。すぐに削除されたが、拓也がキャッシュを掴んでいた。
文書には「特殊感染症対応演習計画」とあり、日付は数日前。しかも記されていた想定ウイルスは「エボラ株変異体」だった。
「偶然の一致にしてはできすぎている……」
浅倉は低く呟いた。
会議を開いた仲間たちは一様に青ざめた。
「これ……もし本物なら、政府も最初から知っていたってことですか?」
「いや、それ以上だ。利用しようとしているのかもしれない」
画面越しに交わされる声に、重苦しい沈黙が混じる。
誰もが感じていた。
――これは単なる病気との戦いではない。
その夜、浅倉のスマホに非通知の電話が入った。受話器を取ると、機械を通したような歪んだ声が響いた。
「やめろ。お前の声は届かない」
返事をする前に、通話は切れた。
浅倉は受話器を握りしめたまま、長く息を吐いた。
見えない敵が、確かにこちらを見ている――。
だが、その敵の正体はまだ掴めない。
権力か、企業か、あるいは国家か。
分かっているのはただひとつ。
この闘いは、情報を巡る「目に見えない戦争」へと突入したということだった。
第四章 覚醒の果てに
第一節 後悔の声
最初の犠牲者から数週間。死者は増え続けていた。だが公式発表は「原因不明の発熱」とだけ繰り返され、報道は依然として沈黙を保っていた。
そんな中、浅倉光司のもとに一本のメールが届いた。送り主は、かつて彼を陰謀論者と罵った旧友だった。
――光司、君の言葉を笑ったことを悔いている。妻が倒れた。医師は口を閉ざすばかりだ。あの時、君の警告を真剣に受け止めていれば……。
浅倉は画面を見つめ、静かに目を閉じた。
彼にとってこれは勝利ではなかった。むしろ胸を締め付ける痛みだった。真実を伝えても、人々は耳を閉ざし、代償を払った後でようやく振り返る――その繰り返しを、彼は幾度となく見てきたのだ。
翌日、街頭では異変が表面化していた。マスクをした人々が急増し、薬局では消毒液が品切れとなり、スーパーでは水や保存食を買い占める列ができていた。
だが、その混乱の中で聞こえてきたのは、後悔の声だった。
「ニュースなんか信じなきゃよかった」
「最初に動いていれば……」
「誰も教えてくれなかった」
浅倉はその声を聞きながら、胸の奥で確信していた。
――人々はようやく目を覚まし始めた。
だが同時に彼は知っていた。
これは覚醒ではあるが、犠牲の上に立つ覚醒にすぎない。
そして、その先にはさらなる「見えない敵」との対峙が待っていることを。
第二節 広がる覚醒
街の空気は確実に変わりつつあった。
数週間前まで芸能スキャンダルに熱狂していた人々が、今は声をひそめ、ネットで「本当の情報」を探し回っている。薬局に並ぶ人々の手には、浅倉の過去の動画を切り抜いた紙が握られていた。
「これ、見ました? この人、ずっと前から警告してたらしいですよ」
「公式は何も言わないけど、ここに書いてある症状……うちの家族と同じだ」
浅倉光司の名は、再びネットの片隅から浮かび上がっていた。BANされ削除されたはずの動画は、村瀬拓也らの手で密かに複製され、SNSやメッセンジャーを通じて拡散されていた。
やがて、小さな集会が開かれた。会場は古びた公民館の一室。そこに集まったのは十数人の市民だった。顔を見合わせるたびに、不安と希望が交錯していた。
「私は夫を失った。病院はただの熱だとしか言わなかった。でも、あの時浅倉さんの動画を信じていれば……」
「会社では口に出せない。でも、仲間内で共有してます」
浅倉は前に立ち、短く言った。
「俺の声が正しかったかどうかよりも、大事なのは自分で考えることだ。無関心は、もう代償を払ったはずだ」
その言葉に、集まった人々は深くうなずいた。
小さな火種は、着実に広がりつつあった。
それはまだ社会全体を覆すほどの炎ではない。だが、沈黙の闇を裂くには十分な輝きだった。
外に出ると、夜空には雲の切れ間から星が瞬いていた。
浅倉はその光を見上げ、心の中で静かに誓った。
――この覚醒を、一過性で終わらせはしない。
第三節 新たな連帯
その動きは静かに、だが確実に広がっていった。
最初は十数人規模だった公民館の集会が、次には百人を超える規模となった。そこには看護師、教師、学生、主婦、さらには退職した元公務員までが顔をそろえていた。立場も年齢も異なる人々が、ひとつの思いで集まっていた。
「無関心の代償を、もう二度と繰り返したくない」
会場の片隅では、村瀬拓也がノートパソコンを操作し、会の様子を匿名配信していた。削除を逃れるために暗号化されたサーバーを使い、限られたネットワークにだけ公開する。視聴者数は一晩で数千人に達し、コメント欄には切実な声が溢れていた。
〈父を失った。もっと早く知りたかった〉
〈この国は何を隠しているのか〉
〈一人では怖い。でも、仲間がいるなら声を上げたい〉
浅倉光司は壇上から群衆を見渡し、深く息を吸った。
「俺ひとりの声は、簡単に消せる。だが、ここにいる全員の声を同時に消すことはできない。だからこそ、つながるんだ」
その言葉に拍手が広がった。涙ぐむ者もいた。
集会のあと、人々は小さなグループに分かれて情報を交換した。互いの連絡先を交換し、できることを話し合う。
「私は看護師だから、現場の声を記録します」
「俺は退職したが、旧知の議員にまだパイプがある。動かしてみる」
「私は子育て中だから大きなことはできない。でも近所に伝えることならできる」
浅倉はその光景を見つめ、胸の奥で熱いものが込み上げてきた。
無関心に覆われていた社会に、ようやく連帯という光が差し込み始めたのだ。
だが同時に彼は理解していた。
これほどの動きになれば、見えない敵が黙っているはずはない。
次に来るのは、より大きな圧力、より巧妙な罠。
それでも浅倉は心の中で呟いた。
――俺たちは、もう一人じゃない。
第五章 見えない設計者
第一節 黒い設計図
村瀬拓也が持ち込んだ一枚のPDFは、浅倉光司の胸を冷たく締めつけた。
それは流出したとされる内部資料で、表紙には「感染症管理統合プラン」とだけ書かれていた。だが、その内容は「管理」ではなく「活用」に近いものだった。
ページをめくると、そこには冷徹な言葉が並んでいた。
――想定感染症:変異型エボラ株
――社会的効果:恐怖による行動制御、購買行動の集中
――経済的波及:製薬・物流・通信分野の収益増大
――政治的活用:非常事態宣言による統治権強化
浅倉は紙面を握る手に力を込めた。
「これは……ただの感染症対策じゃない。まるで設計図だ」
会議の画面越しに、仲間たちの表情が凍りついた。
「じゃあ、本当に誰かが意図して……?」
「偶然の流行じゃなく、計画されていた?」
拓也は震える声で続けた。
「ファイルの作成者は隠されてました。でも、データの痕跡をたどると……ある大手広告代理店と、防衛関連企業のサーバーを経由しているんです」
浅倉の脳裏に、かつて新聞社時代に見た光景が蘇る。スポンサーの意向で記事が消されたあの日。背後で糸を引いていたのは、いつも巨大な広告と政治を握る存在だった。
「――やはり設計者はいる」
その瞬間、浅倉のスマホが震えた。差出人不明のメッセージ。
〈見つけたな。だが、お前たちには止められない〉
短い言葉が、かえって重くのしかかった。
見えない設計者は、すでに彼らの動きを把握している。
浅倉は唇を噛み、画面越しの仲間に告げた。
「ここからが本当の戦いだ。俺たちは設計図を暴き、奴らの正体を突き止める」
第二節 仕組まれた恐怖
浅倉光司は、朝のニュース番組を前に言葉を失っていた。
画面には「新型感染症への不安から生活必需品の買い占めが拡大」とテロップが流れ、スーパーに押し寄せる人々の姿が繰り返し映し出されていた。棚から消えた米や水、消毒液。マイクを向けられた市民は怯えた顔でこう答えていた。
「政府が安全と言っているけど、やっぱり怖い。だから買えるうちに買っておかないと」
光司は拳を握りしめた。
「恐怖そのものが、設計されている……」
広告代理店の手が入ったとされる内部資料を思い出す。恐怖を煽れば購買行動は集中し、特定の企業が莫大な利益を得る。さらに人々の行動が一定方向に揃えば、社会は統治しやすくなる。
現実は、設計図通りに動いていた。
その日の午後、村瀬拓也が新しい情報を持ち込んだ。
「SNSのトレンド、全部同じ方向に操作されています。感染症は怖い備蓄を急げ政府の指示に従えって。投稿元を追ったら、海外の広告ボットと繋がってました」
光司は深く息を吐いた。
「恐怖をばらまく仕組みが、最初から用意されていたんだな」
集会に集まった市民たちも、同じ違和感を語り始めていた。
「ニュースもネットも同じことしか言わない。誰もなぜを問わない」
「隣の人まで敵に見えてしまう。これも仕組まれたことなんですか?」
光司は彼らに静かに答えた。
「恐怖は人を孤立させる。だが俺たちは繋がっている。設計者の思惑に抗うには、その事実を忘れないことだ」
外の世界では、マスク姿の人々がすれ違いざまに互いを避け、視線を合わせることすら恐れていた。
――恐怖という名のウイルスは、すでに社会を蝕み始めていた。
第三節 暴かれる断片
深夜のオンライン会議。画面には浅倉光司、村瀬拓也、そして数名の協力者たちの顔が映っていた。
拓也は興奮を抑えきれない様子でファイルを開いた。
「解析できました。例の感染症管理統合プランのメタデータ……そこに残っていた開発者タグは削除されていなかったんです」
画面に浮かび上がったのは、見慣れない英数字の羅列。だがその末尾にある一つの文字列に、光司の目が釘付けになった。
PRX-DENTSU
「……やはり広告代理店か」
呟いた瞬間、会議室に沈黙が落ちた。
さらに拓也は続けた。
「しかも、このファイルが最初に保存されたIPアドレスを追ったら、防衛省の関連施設に行き当たったんです。つまり――」
「国家と企業、両方が絡んでいる」
光司が言葉を引き取った。
他の参加者は動揺を隠せなかった。
「じゃあ、あの恐怖を煽るキャンペーンは……全部、裏で繋がっていたってこと?」
「そうだ。恐怖は商品にされ、権力の道具になった」
その時、光司のスマホが震えた。匿名の差出人からのメール。
――設計者は一人ではない。組織だ。追うなら覚悟を持て。
光司は画面を見つめ、仲間に言った。
「断片が揃い始めた。だが、まだ全体像は見えない。次は、この設計図を実行している現場を突き止める必要がある」
彼の声に、全員が静かにうなずいた。
真実はまだ霧の中にある。だが、その霧を切り裂くための刃は、確かに彼らの手に握られ始めていた。
第六章 記録の証言
第一節 ログの中の影
村瀬拓也の指先が、ノートパソコンのキーボードを激しく叩いていた。狭い部屋の中、ファンの音が高鳴り、ディスプレイには黒いコマンド画面が次々と文字列を吐き出していく。
「……あった。防衛省のサーバーに残っていたアクセスログだ」
浅倉光司は椅子から身を乗り出した。
「消されたはずじゃないのか?」
「完全には消し切れてませんでした。痕跡が残ってるんです。しかも、このログには外部からの不自然なアクセスが記録されている」
拓也は一つの行を指さした。そこには見慣れないIPアドレスと共に、奇妙なタグが残されていた。
Omega-Project
「……オメガ計画?」
参加者の一人がつぶやく。
光司の胸に冷たいものが走った。
「設計図だけじゃない。実行段階の計画が存在するということだ」
さらにログを追うと、そのアクセス元は国外の複数サーバーを経由し、最後には国内の広告代理店の専用回線に辿り着いていた。
国家と企業。さらに国際的な影。
すべてが一本の線で結ばれ始めていた。
だが同時に、そのログには別の痕跡も刻まれていた。
アクセスした端末の一つが、記録を残すまいとした形跡――だが、その消し忘れのせいで、利用者の名前の一部が断片的に表示されていた。
KU…GA
拓也が顔を上げた。
「日本人の名前、ですよね……?」
光司は無意識に息を止めた。
久我――かつて新聞社時代に耳にした名前が、頭の奥に蘇る。
広告業界と政財界を股にかけ、裏で暗躍していると噂された男。その名が、ここに刻まれている。
「……やはり、設計者は実在する」
光司は呟いた。
記録は沈黙せず、真実を語っていた。
第二節 告発の準備
浅倉光司のアパートの机の上には、コピーされたログの紙束が積み上げられていた。そこにはOmega-Projectの文字と、消し忘れた痕跡――「KU…GA」という名が、確かに刻まれていた。
「これが……証言だ」
光司は呟き、束を両手で押さえ込むようにして見下ろした。
その夜、仲間たちとの会議は緊迫していた。
「このまま公開すれば、確実に消されます。アカウントも、僕ら自身も」
村瀬拓也の声は震えていた。だが瞳には決意も宿っていた。
「だからこそ、拡散ルートを分散させる必要があります。複数の匿名サーバーに同時アップロードして、海外メディアにも流す」
別の参加者が不安げに口を開いた。
「でも……名前まで出したら、報復されるんじゃ……」
「もう報復は始まってる」
光司は低く答えた。窓の外に停まる見慣れない車、監視されるような視線。すべてがその証拠だった。
彼は机に置かれた古い録音機を取り上げた。
「これは新聞社を辞める前から使っていたものだ。誰に圧力をかけられたか、どう記事が潰されたか……全部、ここに残してある」
光司の声には、これまでの孤独な闘いの重みが滲んでいた。
拓也は頷き、慎重に言った。
「じゃあ、ログと一緒に過去の記録も出しましょう。あなた一人の告発じゃない。時代をまたいだ証言だと示せば、無視できない」
会議の終盤、光司は全員に視線を走らせた。
「危険はある。それでも、まだやるか?」
短い沈黙の後、画面の向こうで次々に頷く顔が映った。
「よし……告発を始めよう」
光司は深く息を吸い込んだ。
この瞬間から彼らは、ただの観察者でも警告者でもなく、告発者へと変わった。
第三節 封じられた真実
告発の日。
村瀬拓也の手が震えるのを、浅倉光司は横でじっと見ていた。ノートパソコンの画面には「アップロード進行中」のバーが伸びていく。匿名サーバーを経由し、複数の海外メディアへ同時送信する手はずだった。
だが、残り10%に達した瞬間――画面が真っ黒になった。
「……え?」
拓也が顔を上げた。次の瞬間、画面いっぱいに赤い文字が浮かんだ。
〈Unauthorized Access Detected〉
〈Process Terminated〉
「回線が……遮断された!?」
拓也は必死にキーを叩いたが、全ての接続は強制的に閉じられていた。まるで事前に準備されていたかのように。
同じ頃、光司のスマホに一通のメールが届いた。
――お前たちの声は届かない。忘れろ
会議に参加していた仲間たちの顔にも動揺が走った。ある者は「やはり無理だ」と頭を抱え、ある者は「証拠を持って逃げよう」と言った。だが光司は違った。
「封じられた……ということは、奴らにとって本物だったという証拠だ」
その声は静かで、しかし力強かった。
だが事態はさらに悪化した。
その日の夜、テレビのニュース番組で「偽情報を拡散する危険人物リスト」が発表された。そこには浅倉光司の名前がはっきりと載っていた。
根拠のない不安を煽り、社会を混乱させる人物
司会者は冷笑を浮かべながらそう読み上げた。
光司の胸は焼けるように痛んだ。だが同時に、心の奥で冷たい決意が芽生えていた。
「消されたのは真実じゃない。奴らの恐怖だ」
外の街では、人々がテレビを見て「また陰謀論か」と笑っていた。
だがその裏で、確かに封じられた真実が存在していた。
第四節 仲間への弾圧
その週、最初に異変が起きたのは村瀬拓也だった。
大学に通う彼の研究室に突然、学内調査委員会が入り、「不正アクセスの疑い」として調査を開始した。根拠は曖昧なままだが、彼のアカウントは即時停止され、研究室からの立ち入りを禁止された。
「僕は何も悪いことをしていない!」
拓也が電話口で叫ぶ声に、浅倉光司は言葉を失った。
明らかに告発を妨害するための口実だった。
次に標的となったのは、医療現場から証言を寄せていた看護師の女性だった。病院から「守秘義務違反」の処分を受け、退職を迫られたという。彼女の証言は匿名のはずだった。だが、どこかで情報が漏れている。
「誰かが、私たちを監視している……」
彼女の震える声がオンライン会議に響いた。
さらに、地方で小さな集会を開いていた市民グループにも圧力がかかった。会場の使用許可は突然取り消され、主催者は「虚偽情報の拡散」を理由に警察から呼び出しを受けた。
仲間のひとりが沈痛な声でつぶやいた。
「これじゃあ……俺たち全員が社会から消される」
浅倉は画面越しに、仲間の顔を一人ひとり見つめた。そこにあるのは恐怖と疲弊、そしてわずかな希望だった。
「奴らは俺たちを分断しようとしている。拓也を、看護師を、市民を……一人ずつ潰していくつもりだ」
光司の声は低く、しかし揺るぎなかった。
「だからこそ、俺たちは離れるんじゃない。ここで踏みとどまるんだ」
その言葉に、しばし沈黙が続いた。だが次の瞬間、拓也のかすれた声が返ってきた。
「僕は……まだやれます。たとえ大学を追われても」
看護師も、小さく頷いた。
「私も。誰かが声を上げなければ、患者は守れない」
仲間たちは再び目を合わせた。
圧力は確実に強まっている。だが同時に、それは「彼らの告発が的を射ている証拠」でもあった。
――弾圧の闇の中で、連帯の灯火はなお消えなかった。
第五節 内部告発者
ある晩、浅倉光司のもとに一通の暗号化メールが届いた。差出人は不明。件名はただ「真実」。
本文には一行だけが記されていた。
――これ以上は黙っていられない。会いたい。
添付された地図データには、都内の古い喫茶店の座標が示されていた。
翌日、光司は変装し、指定された喫茶店へと足を運んだ。店内は古びた木の匂いが漂い、昼下がりの光がカーテン越しに差し込んでいた。隅の席に、一人の男が待っていた。スーツ姿だが、どこか落ち着かない表情をしている。
「……あなたが浅倉さんですね」
声は低く震えていた。
名を名乗ったその人物は、広告代理店に勤める社員だった。彼は机の下から小型のUSBを差し出した。
「これが設計図の続きです。私の上司たちは、感染症を利用した社会操作を事業と呼んでいます。恐怖を煽り、消費を操り、統治を容易にする……。防衛関連の企業とも連携して」
光司はUSBを握りしめ、男の目を見た。
「なぜ、あなたが?」
男は苦笑した。
「弟が……最初の犠牲者だったんです。ニュースには出ませんでしたが。あの日から、これは正義じゃないと分かった。私が沈黙していれば、また誰かの弟や妹が死ぬ」
彼の声には、怒りとも悔恨ともつかない感情が滲んでいた。
店を出る前、男は最後に言った。
「私は長くは持たないかもしれません。でも、この記録だけは世に出してください」
光司は深くうなずいた。
――ついに、敵の内部から声が上がったのだ。
その夜、仲間たちとUSBの中身を確認すると、そこには詳細な会議議事録が保存されていた。
日付、出席者、決定事項。
そこには確かに、設計者たちの名前が並んでいた。
第六節 暴露の決断
ノートパソコンの画面に並ぶファイル名は、どれも背筋を凍らせるものだった。
「感染症活用戦略 議事録」
「緊急対応シナリオ エボラ株」
「社会制御プラン 改訂版」
浅倉光司と仲間たちは、息を潜めて中身を読み込んでいった。そこには日付と出席者のリスト、会議での発言記録まで残されていた。広告代理店、防衛関連企業、そして政府高官の名前が、冷徹に並んでいた。
「……これが設計者の証拠だ」
浅倉の声は震えていたが、眼差しは鋭かった。
だがすぐに議論は紛糾した。
「これを公開したら、私たちは終わりだ。社会的にも、命だって……」
「でも、ここで出さなきゃ何のために闘ってきたんだ」
「一斉公開すれば拡散は止められない。だが、告発者の身が危ない」
沈黙が流れる。誰もが内部告発者の顔を思い浮かべていた。彼はすでに覚悟を決めて証拠を託した。だが、それを公にすれば確実に彼が追い詰められる。
村瀬拓也がゆっくりと口を開いた。
「……なら、名前を伏せましょう。出所は一切明かさない。証拠の重さで勝負するんです」
光司は目を閉じ、深く息を吐いた。
「たとえ俺たちが消されても、この証拠が残れば意味がある」
仲間たちは視線を交わし、ひとりずつ頷いていった。恐怖も不安も消えはしない。だが、それ以上に「沈黙を破るべき時」が来たことを、誰もが理解していた。
「よし……暴露する」
光司ははっきりと宣言した。
その瞬間、部屋の空気は張り詰めた。
全員が知っていた。これが最後の境界線だということを。
第七節 暴露の夜
その夜、浅倉光司の部屋には緊張が張りつめていた。机の上には、内部告発者から託されたUSBと、拓也が構築した複数の匿名サーバーへの接続画面。すべての準備は整っていた。
「送信開始……」
拓也がキーを叩くと、無数のデータが一斉に流れ出した。議事録、計画書、参加者リスト。圧縮ファイルとなった真実が、国内外の複数メディア、ジャーナリスト、そして匿名共有サイトへと拡散していく。
浅倉は静かに息を吸った。
「これで……もう止められない」
数分後、最初の反応が画面に現れた。
海外の独立系ニュースサイトが速報として取り上げ、SNS上でリンクが拡散され始めたのだ。
〈エボラ株を利用した社会制御計画か?〉
〈政府・企業の会議記録流出〉
〈設計者は実在した〉
だが同時に、激しい反撃も始まった。大手メディアは一斉に「真偽不明のデマ」「国家転覆を狙う虚報」と報じ、ネットには「浅倉光司=危険人物」のラベルが再び踊った。
外の街では、スマホの画面に釘付けになった人々がざわめいていた。
「これ、本物なのか?」
「いや、ただのフェイクだろう」
「でも、名前が……リストにあるの、うちの地元の議員じゃないか?」
確信と疑念が入り混じり、社会全体が揺らぎ始めていた。
その瞬間、光司のスマホが震えた。非通知からのメッセージ。
――お前は線を越えた。次はない。
光司は画面を見つめ、冷たい笑みを浮かべた。
「もう越えてしまったんだ。後戻りはしない」
窓の外では、東京の夜景がいつもよりもざわめいて見えた。
暴露の夜が、社会を動かす引き金となったのだ。
第八節 揺れる世論
翌朝、ニュースサイトとSNSは嵐のように荒れていた。
〈流出したファイルは本物か?〉
〈国家と企業が感染症を利用? 陰謀論にすぎない〉
〈議員や企業幹部の名前が実際に一致している〉
人々の声は二つに割れた。
一方では「ついに真実が明らかになった」と告発を支持する声が広がり、もう一方では「社会を混乱させる嘘だ」と非難が巻き起こった。
街頭でも議論は飛び交った。
「デマだよ、あんなの。政府がそんなことするわけないだろ」
「でも、あの議事録に書かれてたの、俺の会社の取引先の名前だったぞ……」
「真実かどうかは別にしても、今までの不可解な出来事と繋がる気がする」
スーパーのレジに並ぶ人々も、通勤電車の中の会社員も、誰もが設計者の存在について口を開いていた。
無関心に沈黙していた社会が、ついに声を上げ始めたのだ。
一方、大手テレビ局は連日「偽情報の危険性」を強調し、浅倉光司の過去の失職やBANの履歴を取り上げて「信用に足る人物ではない」と印象操作を繰り返した。だが、その報道の仕方こそが逆に視聴者の疑念を煽っていた。
村瀬拓也はSNSの分析画面を示しながら言った。
「肯定と否定、ちょうど半々です。分断されています。でも、少なくとも無関心ではなくなった」
浅倉は深く頷いた。
「それでいい。世論が揺れている今こそ、次の一手を打つんだ」
窓の外、通りを行き交う人々の表情には、不安と混乱、そしてかすかな決意が混じっていた。
――真実はまだ霧の中にある。だが、その霧を切り裂こうとする声が確かに芽生えていた。
エピローグ 告発の夜明け
街のざわめきは、まだ平穏を装っていた。
人々は画面に視線を落とし、無数のニュースと広告に紛れ込んで日常を繰り返す。だが、その裏側でひとつの「記録」が密かに形を整え、確かな重みを持って社会へと放たれようとしていた。
浅倉光司は、暗い部屋の机に置かれたファイルを静かに閉じた。孤独な道のりの果てに手にした証拠は、仲間とともに積み重ねてきた軌跡そのものだった。
しかし胸の奥に広がるのは達成感ではなく、不安の影だった。真実を暴くことは、必ずしも人々を目覚めさせるとは限らない。耳を塞ぎ、目を逸らす者が大多数なら、声はまた闇に呑み込まれる。
それでも彼は思う。――誰かが一歩を踏み出さなければ、何も変わらない。
震える指でキーボードを叩きながら、光司は自らの決意を確かめるように深く息を吐いた。
窓の外、東の空がわずかに白み始めていた。夜明けの光は、まだ弱々しいながらも、確かに暗闇を押し返しつつある。
告発は避けられない。ここから先は、もはや後戻りできないのだ。
だが、その光の届かぬ場所で、すでに「設計者たち」の影が動き出していた。
彼らは沈黙を武器にし、真実の声をねじ伏せる術を持つ。光司が手にした証拠は、彼らにとってもはや無視できない火種だった。
――次に問われるのは社会そのもの。
沈黙を選ぶのか、それとも真実に向き合うのか。
やがて始まる嵐を前に、夜明けの光はただ静かに揺れていた。
お読みいただき、ありがとうございます。
「無関心の代償 告発の前夜」は、一人の記者と仲間たちが真実に近づき、社会へ問いを突きつけるまでの過程を描いた物語です。
描きたかったのは、巨大な権力や陰謀そのものではなく、「人々の沈黙」と「一歩を踏み出す勇気」の対比でした。
もし少しでも心に残るものがあれば、それが作者にとっての何よりの報いです。