☾ 39:サンドバッグ
「梨里杏は右利きだったな?」
「は、はい、そうです」
グローブをはめた私は、四方会長の正面に立っている。その四方の隣では、凛太郎と姫香が興味津々に私を見ていた。
「じゃ左に90度回って。そうそう。で、右ストレート」
私は言われた通り、右のパンチを繰り出す。それが3度ほど続いただろうか。もう少しスタンスを広げてと言われ、また3度。
その都度、四方は「うん」「ほう」などと、声を漏らした。
「じゃ、次はこっちだ」
四方はサンドバッグの元へと私を連れてきた。凛太郎と姫香も距離を取りながら、あとをついてくる。
「打ってみろ」
「お……思いっきりですか?」
四方は無言で頷いた。
う……嬉しい……! ボクシングの動画を見ていて、一番やりたかったことだ。やっと、やっとコイツを叩ける……!
左手で間合いを取ると、力任せに右パンチを叩き込んだ。
バァンッ!! ガシャンガシャン……
な、なんか思ってたのと違う……
てっきり、サンドバッグは勢いよく向こう側まで吹っ飛んでいくもんだと思ってたのに……
私が打ち込んだサンドバッグはその場で揺れると、吊るしているチェーンが、ガシャンガシャンとやかましく音を立てた。
「もう一回!!」「はいっ!!」
バァンッ!!! ガシャンガシャン……
「もう一回!!!!」「はいっ!!!!」
バァンッ!!!! ガシャンガシャン、ガシャン……
周りを見回すと、皆が私を見ている。中には、パンチをくり出したまま止まっている人もいた。
「コーチ! 平野コーチ! ちょっと来てくれ!」
四方は私になんのコメントもせず、平野という男性のコーチを呼び寄せた。私はお邪魔かもと、凛太郎たちの元へと移動する。
「梨里杏さん……なんですか、あのパンチ……?」
「あ……やっぱり、良くなかった?」
「違います、逆ですよ! あんな強烈なパンチ、見たこと無いです」
「確かにな……今のフォームであれだからな」
あ。やっぱり、フォームはまだまだなんだ。
「ところで、会長たちは、何の話をしてるのかな……」
ジムの中は思ったよりも騒がしく、二人の会話が聞き取れない。
「会長、山寺さんとやらせようと考えてるんじゃないでしょうか」
「俺も同感だ。——ほら、彼女がそうだ」
四方とコーチに呼ばれたのか、山寺という体格の良い女性ボクサーもその輪に加わった。
「山寺さん、この間プロテスト受かったばかりで、次が初めてのプロ戦なんです。多分だけど、会長は梨里杏さんとやらせたいけど、平野コーチはやらせたくないんじゃないかって思います」
「流石よく見てるな、姫香。俺もそう思う。——あ、梨里杏、会長が呼んでるぞ」
会長はやらせたいけど、コーチはやらせたくない……? 一体、どういうこと……?
「梨里杏、彼女と試合したいか?」
「だっ、だから会長、俺は反対ですって!」
「大丈夫です、平野コーチ。やりますよ、私。確かにパンチにキレはあるみたいだけど、素人も素人なんでしょ……!? 正直私、舐められてるみたいでキレそうなんですけど」
「おい、山寺! この話を出したのは会長だぞ!」
「構わん構わん。——で、どうだ梨里杏?」
「私はやります。そのために、ここに来たんですから」
そう答えると、四方は大きな手の平で、私の背中をパンと叩いた。
「じゃ、その前に。まだ誓約書を書かせてないなら、お願いしますね。私、何かあっても責任取れませんから」
山寺は険しい表情でそう言った。
***
私は誓約書にサインをしたあと、リングに上がった。私のもとには四方、山寺には平野コーチがついている。
「梨里杏、体重はごじゅう……55キロってところか?」
「は、はい、ピッタリです……」
「山寺は減量前だから、軽く見ても3階級は離れてる。普通はなかなかやらせんけどな。まともに食らうと重いぞ。気を抜くなよ」
「は、はい!」
四方はこれと言ったアドバイスもくれないまま、試合開始のブザーが鳴った。




