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☾ 32:イタズラ

「ただいまー」


 あれ……?


 お母さんの返事がない。耳を澄ますと、ドライヤーの音が聞こえてきた。どうやら、ドライヤーの音で私の帰りに気付いてないようだ。


 酔っていた私は、くだらないイタズラを思いついた。


 脱衣所の扉を開けると、いないはずの私が立っているというイタズラだ。思わず、フフフと声がこぼれそうになる。ダメだダメダメ、お母さんに聞こえないよう、気をつけなきゃ。


 ところが、ドライヤーの音が鳴り止んでも、お母さんは一向に出てこない。


 どうしたんだろう? そう思った時、お母さんのすすり泣く声が聞こえてきた。


「梨里杏……」


 閉じられた引き戸の向こうで、お母さんがその名前を口ずさむ。


 その梨里杏は私じゃない——


 一瞬で私の酔いは吹き飛んだ。



 思わず後ずさってしまった私の肘が、廊下の壁に触れる。その音に気づいたのか、勢いよく引き戸が開かれた。そこには、目を真っ赤にしたお母さんがいた。


「りっ、梨里杏……」


「ご、ごめん、お母さん……」


「どうして……? どうして、あなたが謝るの……?」


「だって……私が来なけりゃ、あの子はずっとここにいたから」


「だから、それはあなたのせいじゃないって、何度も——」


「私……あの子と見た目が同じだから、本当にお母さんは寂しくないのかもって、ちょっと勘違いしちゃってたかもしれない……」


「梨里杏……」


「ハハハ……そんなこと、あるわけないのにね。ずっとずっと、私を傷つけないようにって我慢してくれてたんだよね。そっ、それなのに私……」


 私は自分の部屋へ飛び込むと、明かりも灯けず、その場でうずくまってしまった。




「梨里杏……? 入っていい……? 開けるよ」


 お母さんが静かに扉を開けると、背中から廊下の明かりが差し込んできた。


「私ね……あなたの言う通り、我慢してた。誰ひとり知らない魔法の世界に飛ばされたあの子は、どれだけ寂しい思いをしてるんだろうって。それを思うとね、いつも涙が止まらなくなるの」


 ヒックヒックと泣く私の後ろで、お母さんが膝をつく。


「でもね、それはあなただって同じじゃない。誰も知らない世界に、一人きりでこっちに来て。だから、私だけでも絶対にあなたの支えにならなきゃって……ずっとずっと、思ってたのに……」


 そう言ってお母さんは、背中からギュッと私を抱きしめた。


「なのに、こんな姿見せちゃって……でもね、これだけは信じて。あの子もあなたも、私にとってかけがえのない子どもなの。どっちが上だとか、下なんてものもないの。それなのに、こんな思いをさせて、本当に……本当にごめんなさい……」


 お母さんは、震える腕で私を包みこんだ。そのお母さんの手を、私は握りしめる。


 暗い部屋の中で私たちは、ずっとずっと泣き続けた。



***



「おはよう、お母さん。——なっ、なんなの、その顔!」


 目がパンパンに腫れたお母さんを見て、私は笑い声を上げた。


「何いってんの梨里杏、あなたも同じ顔してるわよ。洗面台で見てきなさいよ」


 そう言って、お母さんも笑った。


 洗面台に私の顔を映すと、確かに私の目もパンパンに腫れている。


 こうやって見ると、私とお母さんってよく似てる……やっぱ、親子なんだ……




「昨日はどうだった? 焼肉は美味しかった?」


「うん! それがめちゃくちゃ美味しくって! 私、あんな美味しいお肉初めて食べたよ……だからさ、今度行かない? 萌と私たち3人で」


「フフッ、いいわね。私も萌ちゃんと一緒に、晩ごはんでもどうかなって思ってたところだったの。また聞いておいてよ、萌ちゃんにいつがいいかって」


 私たちはいつものように朝食を取る。昨夜のことは、あえて話題にはせず。


「にしても、今日が土曜日で良かったよ。私、こんな顔で仕事行けないもん。梨里杏は今日、何か用事あるの?」


「ううん、今日は何も」


「じゃ、私のお気に入りの映画一緒に観ない? 日本の若い女の子が、どんなこと考えて生きてるか分かるようなお話なの。——あ、でも安心して。全然、重苦しい映画じゃないから」


 笑顔でそう誘うお母さんに、私も「うん」と笑顔で頷いた。

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