【第1話】
逃げたってなんにもないのに。
未来のない子。
「──顕在的マントラは、海洋汚染の右阿修羅である。」
何物にもとらわれず優雅に空想の世界に浸れる水曜日午後の授業、いつもの如く現国教師が何を言っているのか理解できない。どうせ意味なんて無いのだろう。
だがそれでいい。
理解できない文字列が並べば並ぶほど思考は鈍角化し、内に秘めたるファンタジーが花開く。
今日も暖かい、今回の世界はのんびり牧場生活にしよう。
そう決めた後はスムーズに、少女は今日も空想の世界に浸る。
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『──また逃げるんだ。へぇ。』
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『
穏やかな風薫る見晴らしのいい草原で、私は家畜と共に居た。右手に馬、左手に牛、見上げた青の中に羊。そうだな、馬の名前はヴィンセント、牛の名前はイーライ、羊の名前はオニールとでもしようか。
今日は暖かい、その上心地の良い風が体を包み込んでくれる。そう、この世界はのんびり牧場生活。誰も邪魔をしない、自分だけのスローライフ。
私は草原に飛び込み、深く深呼吸をする。青々とした芝生特有の匂いが鼻孔をくすぐった。
ああ、このまま眠ってしまいそうだ。
空想の中にもかかわらず皮膚で感じる風と柔らかい芝生の感触に意識が途切れそうになる。
いっそここで眠ってしまうのはどうだろうか。
空想の中で眠ることほど心地いいものはない。ここは夢の中ではないのだから。
このまま眠ったとしても現実世界の私も同時に眠るだけだ、なんてことはない。
そう考えて意識を手放しかけた時、ぶぉんと家畜の鳴き声が響いた。
どうしたのかと目を開いた私が見たものは一面の黒羊。もうすぐ雨が降るのだろう。急いで帰らなくては。
瞬間。
』
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一瞬の眩い閃光。そしてどぉんと鋭く、しかし余韻の残る音が響いた。それと同時にガラス窓にはぽつりぽつりと水滴が下る。
雨か、畜生。いいところだったのに。
少女は突然の来訪者に静かな怒りを覚えながらも、まぁいいや、また潜ればいいし。とどこか冷静であった。
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『
再度潜った世界では、私は小さなログハウスに住んでいる。生活必需品はある程度揃った、無限に広がる草原の中、たった一人で暮らすには十分すぎるほどの家。私にとっては豪邸そのものだ。晴れてさえいれば外で小説片手に優雅な午後のティータイムと洒落込みたいところだが、外は生憎の雨。仕方ない、家の中で過去の空想家が書き連ねた歴史に思いを馳せるとしよう。
──おぉ、この小説は当たりだ。
ファンタジー世界と現実世界の境界線が曖昧になり、主人公の自我が崩壊していくストーリー。幻想的な世界の狂気と人間の儚さを感じられるなんとも良い作品だった。
特に惑星の点呼に故郷の家族が狂わされ、地上の生命体全てが上位存在の傀儡へと堕ちるシーン、なんとも言い難い興奮を覚える。
破滅願望を持つ私にぴったりの作品だ。
あぁ、いつの日か私にも終わりが来ますように。
この小説のような耽美で、退廃的で、しかしどこか繊細な物悲しさが残るような死を。しばらく使われていない部屋に舞う塵のような、夜の街に埋もれる声にならない声のような、そんな存在になれますように。
』
物事を悲観的に見ることしかできない、虚しい子。