第0章 1話『人と獣、交わる者』
赤錆びた兜で顔を覆うと、人間に近づいた気持ちとなる。
ずいぶん古い兜だから、頭の形に合っていなくて痛むし、錆の匂いが鼻をつく。
それでも、朝の日課である兜の装着が苦じゃないのは、大好きだった母さんのようになりたい想いがあるからかもしれない。
きっと心のどこかで、僕は今でもヒトに憧れているんだ。
「母さん。リンデ。いってきます」
誰もいない部屋に向けて言って、家の外に足を踏み出した。
この数年ですっかり見慣れた森を見渡して、澄んだ空気をゆっくりと吸い込む。
周囲の木々の隙間から射し込む朝日。そんな陽射しの中に混じる背の高い影。
堅牢な城壁で囲まれた王都『イーゼンブルク』の城が、日の光で黄金色に輝いている。
ああ。陽射しが気持ちいい。
きっと今日も、素敵な一日になる。
すっかり歩き慣れた獣道を、僕は奥へ奥へと進んだ。
兜の呼吸穴から白い息が漏れる。
昨夜は雨が降っていたからか、もう春だというのに、とても冷え込んでいる。
普段なら朝霞を舐めに顔を出す角兎たちも、今日は珍しく顔を出さない。
寝床で暖を取っているのかな。
あの子たちの好きな干し豆を持ってきたのだけど、また明日あげよう。
兜の前面を上に押し上げて、腰の小さな袋から豆を数粒つまみ、口の中へ放った。
噛むたびに素朴な味が口に広がる。
ヒトの顎の力では噛み砕くのが一苦労だそうで、叔父さまはあまり食べたがらないけど、僕はこの独特の食感が大好きだ。
「その顔で豆が好物とか似合わない」って、いつだかヌイに笑われたっけ。
「ん……? この匂い」
ツンとした匂いに鼻の奥が熱くなった。
匂いを追って茂みに踏み入り、木々の間を縫うように進む。
徐々に強まっていく、嗅ぎなれた匂い。
じんわりと浮かぶ冷や汗。高まる鼓動。
木陰を覗き込むと同時に、思わず息を呑んだ。
「やっぱり……血の匂いか」
匂いの元――血まみれのシカの遺体が横たわっていた。
強い力で腹部を殴られたのか、折れた肋骨が毛皮を突き破り、赤黒い血が溢れ出している。
でも、その遺体に食い荒らされた様子は見られない。
食べるために殺したワケではなさそうだ。
「守ってあげられなくて……ごめんね」
大きく見開かれたシカのまぶたを、手のひらでそっと閉じてあげた。
剥き出しの殺意。暴力。凶暴性。
こんな無慈悲な行動に出る生物を、僕は奴らしか知らない。
僕がこの森で最も見張るべき相手。
――魔獣だ。
「きゃああああああ!」
近くで悲鳴が聞こえた。
即座に、声の聞こえてきた方角に、全力で走り出す。
――間に合え。
祈りながら、邪魔な木々の枝を振り払い、走り抜けた。
視界の果てに見えてきたのは、巨木を背に震える、ローブ姿の少女。
そして少女へ今にも襲いかかりそうな、獣のような怪物。
深い体毛と、猿に近しい形相。老人のような細い体躯に、ヒトの何倍にも肥大化した両腕。その右手には、岩石を削ったと思しき棍棒が握られている。
劣等妖精『魔猿』。
最も危険度の低いU級とは言え、非常に獰猛で、毎年多くの死傷者を出す魔獣だ。
「ひ、火の、火の理よ! 我が、よ、呼びかけに応えよ!」
少女が木の枝に似た杖を持ち、ゴブリンに向けて呪文を唱えた。
杖の先から炎が噴き出し、異形の肌を燃やす。
しかし、ゴブリンには火傷すら与えられない。
U級とは言え魔獣だ。
当然、魔術耐性を備えている。
とてもじゃないけど、子どもの手に負える相手じゃない。
抵抗むなしく、鮮血の滴った棍棒が振り上げられるのを見て、僕はたまらず少女の前に飛び出した。
「伏せてください!」
少女を抱き寄せると同時に――頭部へ棍棒の直撃を受けた。
視界に火花が散る。頭が焼けつくように熱い。
衝撃でひしゃげた兜から、前面が剥がれ落ちて足元に転がる。
鋼の兜すら破壊する威力。普通なら即死だ。
「僕が……人間だったらだけど」
自嘲するように笑った。
息をゆっくり吐き出して、また、深く吸い込む。
乱れた呼吸を整え、ゴブリンと向き合った。
少しぼやけた視界の中で、前方の魔獣は再度、棍棒を振り上げようとする。
その隙だらけの腹を、思い切り蹴り込んでやった。
「3333l<!」
響くゴブリンの悲鳴。
声を遮るように、今度は相手の顔面に拳を振り抜いた。
ゴブリンの小柄な身体が吹き飛び、近くの木に背中から激突。
呻き声をあげつつ、ゴブリンは怯えるような眼を僕に向けた。
「l=……l=μ[l<……^/[]7#μ^^4^/……?》
魔獣の言語で何かを尋ねられたらしい。
いくら魔獣の血をひいていても、僕にその言葉の意味はわからない。
僕にできるのは、相手の言葉を無視して、追撃の意思を見せることだけだ。
「まだ戦うなら、もう容赦しませんよ」
僕の殺気を感じ取ってか、ゴブリンは慌てて森の奥へと逃げ出した。
経験上、あれだけ脅せば、しばらくは人里に近づかないはずだ。
内心、胸を撫で下ろす。
いくら魔獣相手でも、殺しはもう勘弁だ。
過去の自分を思い出して、心底嫌になってしまう。
せめて心だけでも、僕は母さんのように美しくありたい。
「ひっ……」
後ろから少女の声が聞こえた。
そうだ。
あの子から事情を聞いて、森の外まで案内してあげないと。
振り返ると、少女は未だに木へ背中を預けたまま動かない。
僕は敵意がないことを示すために、両の手を開いて、軽く上に挙げた。
「もう大丈夫ですよ。僕が街まで案内しますから、事情を聞かせてもらえますか?」
ローブのフードに包まれた、少女の赤毛と、幼い容貌。
その青い瞳に、恐怖の色が滲む。
「ち、近寄らないで、バケモノ!」
少女が僕を拒絶するように逃げ出した。
つま先に触れる、地面に転がった兜の前面。
ようやく、兜の破損で素顔が剥き出しな事実に思い至った。
――しまった。顔を、見られてしまったのか。
「待って! 一人じゃ危険です!」
少女を追いかけて森の中を走る。
しばらくすると林を抜け、川辺へたどり着いた。
例の少女は脇目も振らず、川に沿って走り続けている。
その様子に安堵した。
この森は迷いやすいから心配だったけど、大丈夫そうだ。
川沿いを進めば、きっと街までたどりつける。
もうゴブリンも追い払ったし、危険も少ないだろう。
「街まで川沿いを真っすぐです! この季節の森は危ないから気をつけてくださいね!」
離れていく少女の背中に、できる限り大声で言葉をかけた。
無事に街まで戻れるか心配だけど、これ以上追いかけて、街に近づくことはできない。
街と城に近づく不審な存在を追い払うこと。
そして僕自身は決して近づかないこと。
この二つこそが、僕みたいな怪物が生きることを許される条件なのだから。
「怖がって当然だよね」
川の穏やかな水面を覗き込むと、そこには兜をかぶった自分の顔が映っている。
前面が壊れて露わとなった、土色の肌と黒く濁った双眸、口元から突き出る二本の牙。
一目でわかるほど、僕の顔は非人間的な要素で溢れている。
この顔を見るたびに痛感してしまう。
自分の身体に最も人間に毛嫌いされる魔獣――『オーク』の血が流れていることを。
「……今日の分の食材を集めなくちゃ」
自分に言い聞かせるように言って、こうべを上げた。
一日分の食材を集めながら森の中を見回りすることが、僕の朝の日課だ。
魔獣や悪人の気配がないか森を歩いて回ったり、病気の植物や動物を世話したりするだけで、大体一日が終わる。
森に近づく人は滅多にいないし、先ほどのような魔獣との遭遇なんてもっと珍しい。いくら鈍感な僕でも、今の仕事が僕という望まれない存在への当てつけであることは、流石に察せられた。
仮にこのまま僕が飢え死にしても、街にも城にもこの森にも、きっと何の影響もない。
その昔、王様が僕にかけてくれた最初で最後の言葉。
「何の意味もなく生き、そして死んでくれ」
あの一言が僕の送るべき生涯を物語っているんだろう。
ただ、それでも僕にとって今の仕事は、自分に与えられた大切な生きる意味だ。
笑顔で、楽しんで、思い切り打ち込んでいきたい。
たとえオークでも、笑って生きて良いのだ、と。
たとえ世界中の全てから嫌われたからって、自分を否定する必要はないのだと。
あの日、母さんが教えてくれたから――。