第1章 13話『男性サキュバスが支配する国④』
ティプ・ケルが翼を羽ばたかせて宙に飛び上がり、僕らを指差して叫ぶ。
「奴隷たち! 全員で勇者ハジュンを殺しなさい!」
ティプ・ケルの命令に従い、屋根を埋め尽くす男たちが、猛然と僕らに向かってきた。
まるで戦場で突撃する歩兵部隊のようだ。
「ギア、15秒、時間を稼いでくれ」
「任せてください、ハジュン様」
ハジュン様が僕と繋いでいない方の手を、天に掲げる。
「千を斬りては無情に至り……」
聖剣を呼び出す詠唱の開始。
当然、男たちもその詠唱を止めようと突っ込んできた。
「魔力強化――瞬!」
ハジュン様から手を離して、近づいてくる男たちを片っ端から盾で弾き飛ばしていく。
僕が跳ね飛ばした人に巻き込まれて、人間の雪崩が起きたように崩壊していく隊列。
この狭い足場では人数の多さは大した不利にならない。
魔蝕が無尽蔵に使えるようになった今、形勢は完全に逆転した。
「万を斬り捨て未だに無常……」
「奴隷たち! 近づかなくてもいい! 魔術で攻撃しなさい!!」
四方八方から向けられる、数え切れないほどの杖の先端。
そして火、水、風、土を織り交ぜた極彩色の巨大な波が、僕らへと襲いかかる。
先ほど僕一人に向けられた時とは規模が段違いだ。
僕では到底、跳ね返せない。
だけど何も問題は無い。
「水の理――鉄壁!」
地面に大きく術式を描いて、両手を地面に叩きつけた。
魔術により、僕とハジュン様を覆い隠すようにして、分厚い水の壁がせり上がる。
極彩色の波が壁にぶつかり、激しく飛び散る水飛沫。
一瞬で壁が崩壊しそうになるものの、ありったけの魔力を込めて、壊れたそばから修復し、ギリギリで耐え続ける。
極彩色の波の威力が落ちる気配はまるで無い。
時間稼ぎで精いっぱいだ。
でも、それで十分。
自分で状況を打開する必要など無い。
僕は、勇者ハジュン様の盾なのだから。
「我は大樹に代わりて――世界を否定する!」
ハジュン様の手に群青色の光が集まり、聖剣『グラムス=レイブ』が顕現した。
「ありがとう。愛してるぞ、相棒」
ハジュン様がそう耳元で囁き、聖剣を振りかぶる。
聖剣が振り抜かれると同時に水の壁を解除。
群青色の斬撃によって、周囲を包む極彩色の波が、まるでバターみたいに両断されていった。
「くっ……! 奴隷たち! 全員突撃です!」
空中のティプ・ケルが苛立った様子で吠えるように命じた。
虚ろな目をした男たちがまたもや突進してくる。
自我が無い以上、彼らの攻撃は全てハジュン様の自動否定を突破するから厄介だ。
「勇者ハジュン、聖剣を事前に顕現させなかったのは何故です? 魔力の消耗が激しいからじゃないですか? この数を相手取れば、すぐに魔力が枯渇してしまうでしょう?」
苛立ちながらも冷静なティプ・ケルの分析。
魔力云々は不正解だけれど、聖剣の顕現を長時間保てないのは事実だ。
聖剣を顕現させた以上、すぐに決着をつけなければならない。
「操られた男たちは気絶させない限り、立ち向かってきます……どう意識を断ちましょうか」
「否――意識を断つ必要は無い」
ハジュン様が微笑して、聖剣を天に掲げた。
その刀身が群青色に輝き、周囲の空気を振動させていく。
何かを否定する気だ。
でも、この状況で何を否定するのだろう。
「否定すべきは――操り人形たちに絡みつく糸だ!」
そんな僕の疑問に答えるようにハジュン様が叫びつつ、聖剣を屋根に突き立てた。
同時に、周囲に群青色の光が波紋状に広がっていく。
あまりの眩さでつぶってしまった目を開いた時には、世界が一変していた。
先ほどまで男たちで満ちていた周囲一帯が、女性だらけの空間になっていたんだ。
「え……? 俺、なんで屋根の上に……というか! 胸がついてる!」
「なななな無いよ!? 僕の大切なアレが失くなってる!?」
「これが、女性の身体……神秘だ……」
女性たちの様々な反応から、ハジュン様が否定したものを察する。
「ハジュン様、まさか『性別』を否定したんですか……?」
そう発した自分の声が普段より高く可憐で驚いた。
見れば、普段は肥満体型の僕までスラリとした体型となって、骨ばった輪郭が滑らかとなっている。
まさか、僕まで女性に……!?
「ふふっ、よく似合ってるぞ、ギア。その姿もキミもなかなか素敵だな」
「あああ、ありえないッ!!」
悲鳴に近いティプ・ケルの叫び声が響いた。
ティプ・ケルが青ざめた顔で、周囲を困惑した顔で見渡していく。
「男性にしか効かない僕の能力に対抗するために、これだけの数の男性の性別を否定したのか……!?
そんなこと、不可能だ! めちゃくちゃ過ぎる! できるはずが無い!」
「否――めちゃくちゃができてこその私だ」
語りつつ、優雅さすら感じる所作で聖剣を再び振りかぶるハジュン様。
その群青色の瞳には一切の迷いも躊躇いも無い。
そして瞳と同じ群青色の光が、聖剣へと集まっていく。
「ティプ・ケル、世界に絶望して支配に走ったお前に教えてやる。
世界を変えるのに必要な力は、まず何よりも、自分自身の想いを否定しないこと……不可能など無いと、自分を信じることが大切なんだ」
「うるさい! 世界中の人々から敬愛される勇者に! 僕たち魔獣の何が分かるッ!!」
ティプ・ケルが両方の掌を前に突き出し、魔力を球状に集め始めた。
紫陽花色に輝く魔力の弾は、弾丸サイズから砲弾サイズに、更には成人男性の体躯すらもゆうに超え、周囲一帯に巨大な影を落とすほどの大きさにまで膨れ上がる。
今までの魔弾も魔砲も、本気じゃなかったんだ。
ティプ・ケルの最大の武器は、一つの街の男性を全員支配できるほどの、膨大な魔力総量。
男性を操る必要がなくなった今、これまで支配のために回していた魔力を、全て攻撃に回せるようになったということか。
「勇者ハジュン! キミの大技が周囲にまで影響を及ぼすのは知ってますよ!
これだけ多くの人間が埋め尽くす中で使えますか!? 無理ですよねぇ!」
ティプ・ケルがケラケラと笑いながら、まるで小型の太陽のごとき巨大さとなった魔力の塊を、僕らに向かって押し込んだ。
「成すがままに!!」
空から落ちてくる、視界を覆い尽くすほど巨大な紫陽花色の魔力の塊。
その異様な光景に周囲の女性たちが悲鳴をあげ、ある者は屋根から転げ落ち、ある者は屋根の上に崩れ落ち、ある者は呆然と立ち尽くしてしまう。
完全にパニック状態で、話を聞ける状況じゃない。
ハジュン様の技に巻き込まれないよう離れろだなんて言っても、聞く耳を持たないだろう。
その上、空が魔力で埋め尽くされている以上、テル・ケルの時のように高く跳躍して被害を回避することも不可能だ。
「ギア――頼むぞ」
ハジュン様は剣を構えたまま目をつぶり、一言そう告げた。
その一言だけで僕には十分。
自分のやるべきことが、ハッキリとわかった。
「……そうだ。あの魔術を使えば、きっと――」
僕が動き出すと同時に、ハジュン様の振りかぶった聖剣が、一層群青色に輝いていく――
「まさか……!」
ティプ・ケルが明らかに動揺する。
それも当然だ。
まさか勇者が、周囲の被害を顧みずに大技を放つとは思わない。
テル・ケルとの戦いでは避けていたのだから、尚更のことだろう。
そんなティプ・ケルの動揺を嘲笑うかのように、ハジュン様がニヤリと笑って、大空に向かって一気に斬撃を放った。
「否我を照らす光!」
巨大な群青色の斬撃が空を一気に裂いていく。
紫陽花色の魔力にぶつかっても斬撃の勢いは落ちず、触れたそばから魔力が跡形もなく消滅。
周囲に落ちていた巨大な影が消え去り、陽の光が街に差し込んだ。
そして斬撃はそのまま、空中を漂うティプ・ケルへと向かって一直線に翔ぶ。
「ははっ……格が、違いすぎたね……」
全てを諦めたように、両手をだらんと下げて、呆然とするティプ・ケル。
もはや抵抗の意志が一切感じられない。
「テル、バカなお兄ちゃんでごめん……キミだけでも、幸せになるんだよ」
そんな悲しげな言葉ごと、斬撃が全てを呑み込んでいく――
「水の理――水鞭!」
――寸前で、鞭状に伸ばした水の魔術でティプ・ケルの足を掴んだ。
全力で地上に引っ張り込み、間一髪、紙一重で無理やり斬撃から引き離す。
空から勢い良く落ちてきたティプ・ケルを両手で受け止めたものの、今は女性の身体だったため踏ん張りが効かず、二人で一緒に屋根から転がり落ちてしまう。
そのまま店々が立ち並ぶ大通りの真ん中に、僕とティプ・ケルは二人並んで仰向けに転がった。
「ハァ――ハァ――助けられてよかったぁ……ギリギリになってごめんね。
否我を照らす光でキミの魔術耐性が無効化されたあとじゃないと、僕の魔術はティプ・ケルに届かないからさ」
「……あの水の魔術で周囲の人間たちを絡め取って、ハジュンの技に巻き込まれないよう逃したんですか?」
「流石、察しがいいね。その通りだよ」
ハジュン様が否我を照らす光を放つ前に、僕は素早く魔術で周囲の人たちを絡め取って、全員この大通りへと逃した。
僕が人々を逃がすとわかっていたからこそ、ハジュン様は心置きなく技を放つことができたんだ。
「ハジュンは何も言ってなかったじゃないですか……どうして咄嗟に、そんな高度な連携が上手く行ったんです?」
「僕なら全てわかってくれると、信じてくれていたんだよ」
僕は起き上がって、仰向けのティプ・ケルに手を差し出し、その紫陽花色の目を見つめる。
「それに、僕がティプ・ケルを救い出すことも……ね。
キミたち兄妹に何があったのか、僕らに話してくれないかな?」
「……ギアさん、性別が元に戻りかけていますよ」
言われてみて、腹が元の肥満体型に戻り、顔が骨張り始めていることに気付いた。
いくら『否我掌握の理』でも、性別を完全には否定できない。
世界が元の状態に戻ろうとする修正作用によって、時間が経てば元に戻ってしまうんだ。
「ハジュン様は、僅かな時間で元に戻る程度に威力を抑えることで、あの人数の性別を否定してみせたんだろうね」
「なるほど、納得です……でも、男の状態で僕と目を合わせたら、僕の逆転勝ちでしたよ? まぁ今さら、どうでもいいことですけどね……」
「どうでもいいなんて、言っちゃダメだ」
うつむいたティプ・ケルの手を取って、もう一度、目を合わせた。
「ギ、ギアさん……? もう男に戻るのに、目を合わせるなんて――」
「キミとなら分かり合えるって……僕は信じる。
だから、キミも僕とハジュン様のことを信じてくれないかな?」
目を背けようとするティプ・ケルの頬に手を添えて、言葉を続ける。
戦いの途中でティプ・ケルが口にした言葉からも、生い立ちがかなり悲劇的なことは明らかだ。
僕だってハジュン様と出会えなければ、いずれティプ・ケルと同じ選択をしていたかもしれない。
魔獣の血が流れる仲間として、放っておけるはずが無い。
「キミたち兄妹に何があったのか、僕には分からない……だけど間違いなく、妹への愛を口にした時のキミの瞳は、美しかったよ。誰がキミを傷つけようとも、キミ自身が自分を否定しようとも、僕がキミを――全力で肯定する」
「ふふっ……バカじゃないですか?
そこまで奴隷になりたいなら、お望み通り、この目で魅了してあげましょう」
微笑して僕を見つめ返すティプ・ケル。
ところが、その紫陽花色の瞳は魔力を帯びず、代わりに涙があふれだす。
「……ズルいですよ。
サキュバスの僕を、逆に魅了してしまうなんて」
そう言って、ティプ・ケルが僕の肩に抱きつくようにして立ち上がり、パチンと指を鳴らした。
これまでで最も軽快なその音は、まるで何かを知らせるように、街中に響き渡っていく。
「能力を解除して、この街を解放しました……僕の負けです」
こうして、サキュバスに支配された街での戦いは、僕らの勝利で終わるのだった。