決闘の終焉
勇士決闘の完結です。歯ごたえがある、重厚な本格ファンタジーを狙いました。
勇士決闘とは何だっかを書いています。
第六章
マドッグが懸案の復讐騎士どもを倒して帰ると、ソフィーはベッドの上に半身を起こしていた。
まだ顔は青白く、瞳の輝きも弱い。
「ソフィー……」マドッグは彼女を抱きしめる。
「どうしたのマドッグ?」
ソフィーは突然の抱擁に狼狽しながら、微かに笑った。
「いい知らせがある」
彼は大きく膨らんだ袋を見せる。
「お前に医療を施せるんだ。英雄的治療法の薬も手に入る」
ふっとソフィーの表情が暗くなる。
「……そのお金、どうしての? マドッグ……危険な事していない?」
「してないさ、これはちょっとした冒険の結果だよ」
マドッグは嘘をついた。心の中で、騎士達との戦いもちょっとした冒険だ、と言い訳しながら。
「そう」ソフィーは安堵したように俯いた。
「あした浴場主のムノンの所に行こうぜ、まず治療だ」
「うん……そしてらまた……」
ソフィーの言葉が詰まる。子供を失ってから日にちも経っていない。彼女はまだ傷ついている。
マドッグは再び彼女を抱きしめた。
「ああ、考えておいてくれ……俺達の子供の名前を」
「うん」ソフィーが輝くように笑った。
浴場……つまりは風呂屋は同時に医療機関でもあった。
だがどうしてから彼等の地位は低く、浴場主は賎民として、普通の市民から軽蔑され嫌われている。
ムノンはサイレスの街唯一の浴場主で、医療の腕前も有名だった。
マドッグは背の低い禿頭のムノンに、ソフィーを紹介する。
「これはこれはソフィー様、今回はお任せ下さい」
ムノンは丁寧に頭を下げ、媚びへつらう。
マドッグは金を余計に払いムノンを喜ばせ、医療にかからせた。
彼等が連れられたのは浴場の奥の小部屋だった。石の床には血の跡が残っており、気持ちの悪い蠅がそれらの上で蠢いている。
「大丈夫なのか?」
マドッグは不意に不安になり、眉を寄せる。
「大丈夫でございます、マドッグ様。私はこれでも医療に関しての腕は確かだと自負しております」
ムノンは胸を張ると、「エリナ」と娘の名前を呼んだ。
エリナは何やらで汚れた布と。動物の腸で出来た紐を持ってくる。
「ムノン」マドッグは父に似ず可愛らしい小さな娘を見つめる。
「この子を夕方から夜にかけて借りたいんだが」
ムノンは下卑た笑いを浮かべた。
「マドッグ様、こんな小娘でいいんですか? まあお代を払って頂ければ娘を貸しますが」
マドッグは怒りに近い感情を抱く。
「違う、この子に見届け人をして欲しいだけだ。手も触れずに帰す」
エリナは自分の話だというのに表情を全く変えず、ただ布を畳んでいる。
「そうですか……判りました……しかし」
「金は払う」
ムノンの顔がぱっと明るくなり、マドッグは内心唾棄した。
「……マドッグ」ソフィーが蚊の鳴くような声で呼ぶ。どうやら不安になったらしい。
「大丈夫だ。ムノンの腕は確かで有名だ」
ソフィーは部屋の真ん中にある椅子に座り、仕込まれているのだろうエリナが、素早く肘掛けの下に木の桶を置いた。
「では始めます」
ムノンはいつの間にか錆びたナイフを手にしていた。
瀉血。浴場で行われる医療だ。
ナイフで上腕の一部を切り、悪い血とやらを体外に出す。
当然、医術と呼ぶに当たらない無知で無駄な行為だ。だがこの世界の医療は一般的にこれであり、マドッグもムノンもソフィーも、むしろ体を弱める愚かな行為だとは知らない。
マドッグは祈る気持ちで桶に堪っていく血を見つめていた。
もしこれでソフィーがよくなるなら、無駄な決闘は避けられる。
本気でミュルダールと戦いたいわけがない。ブローデルとも、ビャクヤともだ。
マドッグはこれで彼女が快癒してくれることを、人類を唯一見捨てなかった地母神エルジェナに願った。
だが瀉血が終わると、ソフィーはぐったりと椅子に寄りかかって、動かなくなった。
「うーん、どうやら病は相当根深いようですな。指先が黒いのはまだ悪い血が溜まっているからです、またいらして下さいマドッグ様」
「わかった」とマドッグは失望を隠さず答え、ソフィーを抱きかかえる。
気のせいか、より軽くなったようだ。
マドッグは浴場を後にした。あまり劇的な変化はなかったようだが、彼の手の中にはまだ薬があるのだ。
『英雄的治療』と賢者達が褒めそやす、病気の治療に使う丸薬で、成分は水銀だ。
水銀が体にいい。これもこの世界の常識だ。何せ水銀とは水になった銀であり、錬金術師に言わせれば、賢者の石で水になった黄金に近い、効能を持つ万能薬らしい。
「ほら、これを飲め」
マドッグはソフィーに水銀が練り込まれた丸薬を渡した。
疑いなくソフィーは水と一緒に飲む。
「はあ」と彼女は喘いだ。
「ありがとうマドッグ、こんなに贅沢な薬も飲ませてくれて、私きっと治るね」
ソフィーはそう言い残すと、眠ってしまった。
──どうやらまだ瀉血と薬が必要なようだな。
彼の目元に憂いが浮かぶ。
もしかしてソフィーを治せるのは、大司教ドミニクスの奇跡だけかも知れない。
ドミニクスは地母神エルジェナの聖職者として徳を積み、今ではどんな病も一瞬で癒せる奇跡を授かっているらしい。
ただし、それを受けるには大金貨三万枚の喜捨が必要だ。
──やはり、勇士決闘か。
マドッグはミュルダールとの戦いを決意した。
ちなみにソフィーの病気は、悪いライ麦パンを食べ続けた事による麦角中毒であり、マドッグはただ、食べ物を改善すればよかっただけである。
皆部白矢は閉じられた扉の前で立ちつくしていた。
入るどころかノックも出来ない。
何だかんだで今までミュルダールと一緒にいたからだ。
──織恵、怒っているだろうな。
だが彼女には伝えなければならない。探索の情報がもたらされた事、それを得るためにブローデルと決闘しなければならない事。
──何て言われるんだろう……
白矢は怖くて固まるだけだった。
一度天を仰いで鼓動を整える。どうしても彼女と話さなければならない。
白矢は全身の勇気を振り絞り、扉を開けた。
「あ……」
細木織恵はいた。おまるの中の汚物を、窓から川に投げ込もうとしている所だった。
「ちょっ……」見る見る彼女の顔が赤くなっていく。
「どうしてよりにもよってこんな場面で開けるの!」
白矢が一言もないまま、織恵の怒声だけが響いた。
──無理もないなあ。
と、白矢は大反省する。
それでなくとも彼女らはこの世界の衛生問題、特にトイレ問題で苦労している。
なのに、その後かたづけをしている場面に出くわすなんて最悪だ。
「出てって!」織恵は奥歯をきりりと鳴らす。
「早く! いて欲しくないの! この無神経!」
彼女は有無を言わさず彼を追放したいらしい。
「待って、待ってくれ織恵……情報があるんだ」
白矢は必死に訴え、織恵の罵詈雑言を止めた。
「情報?」織恵はまだ怒りに満ちた表情ながら聞く気になったらしく、黙する。
「ああ、死を超越した者を知っている奴がいたんだ」
「本当?」
「ああ……ただ」
織恵の眉が跳ね上がる。
「ただ、何? また何かあるの? 隠さないで言いなさいっ」
「ああ。その情報を得るために、ある人物と決闘して勝たないといけない」
「え!」織恵の顔色が変わる。今までの怒りのそれから、不安そうな表情になる。
「決闘? 何それ……皆部君……白矢は大丈夫なの」
「判らない」白矢は正直に答えた。ブローデルの強さは昨日の騎士戦で目にしていた。
簡単には勝てないだろう。
「負けたら……どうなるの?」
当然の質問だ。白矢はしばらく黙った。
「もし俺が負けたら……君はみんなの元に帰ってくれ、大変だろうけど」
「それって」織恵の目が大きくなり、次には見る見る濡れだした。
「何それ、命がけって事じゃない! そんなのダメ、嫌よ!」
今まで距離を取っていた織恵が、勢いよく白矢に飛びついた。
「ダメ! やめようよ、ね?」
「……でも、加藤君と岡部君が……」
「どうでもいいわ!」織恵の絶叫に白矢は驚いた。
彼が知っている細木織恵は、常に誰かの心配をしているような優しい娘で、友人の命をどうでもいいと突き放す少女では、なかった。
「どうしたんだよ? 織恵」
「もういい、もういいじゃない……ねえ、逃げようよ。私この世界で暮らしてもいい、白矢がいるなら我慢する」
「え」白矢は首を傾げる。何を言われたか判らなかった。
「好きよ! あなたが好きなのよ! だからあの人のことが許せなかった! 違う女と触れ合うなんて許せない……ね? 私と一緒にこの世界で静かに暮らそうよ。元の世界に戻らなくてもいいから」
白矢は腕の中のいる織恵に何を言えばいいか判らない。ただ、その言葉は彼の目を覚まさせた。
──そうだ! 俺だってずっと前から織恵が好きだった。だけど相手にされていないと思ってた……けど、けど……
白矢は不意に、織恵に激しく狂おしいような愛おしさを感じ、そのままベッドに倒した。
「え!」と彼女は少し驚いたようだが、静かに目をつぶる。
「……私、最初は白矢だと決めてた……でも、こんな状態は嫌だったな。せめてお風呂行けばよかった……私汚いし臭いし……本当はちゃんと髪を洗って、シャワーで体も綺麗にして、念入りに歯磨きもしたかった……むだ毛だってこの世界に来てからどうしようも出来なかったし、女の子らしく処理したい」織恵は悔しそうにむせび泣く。
「そんな事ないよ」白矢は優しく慰め、彼女の服を脱がしていく。
「これはきっと人間の臭いなんだ。人の生の臭い。自然なんだよ、だから俺は気にしないし君の何もかも愛おしい」
皆部白矢と細木織恵はこうして結ばれた。ミュルダールに鍛えられた白矢はともかく、初めての織恵は戸惑うばかりだったが、若さが二人を楽しませた。
彼等の噴き出した欲望と愛は止まらず、そのまま決闘の期日まで三日間ベッドで貪り合った。
月が目玉のようにミュルダールを見つめていた。
彼女は苛々と足踏みをして、相手を待っている。
「何がー、夕方だよー」
ミュルダールは何度目になるか辺りを見回す。まだ薄いが夜のとばりが、すっかり被さってた。
「女を待たすー、男はー最低なんだよー」
ぶつぶつとミュルダールは愚痴った。
と、ようやく待ちこがれたていた人影が街道に現れる。マドッグらしい長身と、何かちっこいのだ。
「遅いー! 遅れて焦らす作戦ー? 私にはー無意味ー」
マドッグに噛みつきながら、ミュルダールは苛立ちに震える精神を一瞬で沈めた。
「おやー」と彼女はマドッグ連れてきた小さな影に、目を向ける。
まだ十歳くらいの女の子だった。
「なになにー? 可愛いねー」
ミュルダールがしゃがんで頭を撫でようとすると、女の子はマドッグの背後に隠れる。
「そいつが今日の見届け人だ……名前はエリナ……浴場主の娘だ」
マドッグの説明に、ミュルダールは少し寂しそうな表情になる。
「そうー」彼女も知っている、浴場主は賎職だ。この娘もずっと馬鹿にされて行くのだろう。
「あのねー」とミュルダールはしゃがんだままで、エリナに語りかける。
「生まれなんてー関係ないんだよー。だからーあなたも私みたいにー頑張ってー、みんなをー見返しちゃいなさいー」
エリナはマドッグの陰からきょときょとと、彼女を見上げた。
「うふふー」
「さて、もういいだろう」
マドッグが短く宣言する。
「そうねー」とミュルダールも二百年使い込んだ木の杖を構えた。
「決闘なんてーヤだなー」
「仕方ねえ」
「恨まないでねー」
ミュルダールは自分の魔法の強さを知っている。正直ローグでしかないマドッグに勝てる目があると、彼女には思っていない。
だがふと、彼女はマドッグとの会話で散漫になっていた精神が鳴らす危険信号を聞いた。
「あ! ちょっとまったー。何かー変だよー」
「問答無用だ!」マドッグがロングソードを抜いて、エリナが街道の横の芝に走って行く。
ローグ・マドッグVSハーフエルフのソーサラー・ミュルダール。
「ちょっとー、聞いてよー。この気配はーヤバいんだよー」
ミュルダールが魔力の目で周囲を観察すると、明らかにこちらに敵対している霊が、集まって来ていた。
無念のまま無惨に殺されるとアンデッドになり、生きている者を激しく憎み、見境無く襲い始める。
「マドッグー、決闘どころじゃー、きゃっ」
ミュルダールはマドッグの剣を横っ飛びでかわした。
「人の話をー、聞けー」
「言葉はいらない、言ったろ?」
「でもー」
ミュルダールが焦るのは自身の事ではない。彼女の手にかかればアンデッドなんて何とでもなる。しかし……。
彼女は芝でしゃがむエリナが気になった。案の定見えていないようだが、白い霊体に捕まっている。
「危ないっ!」
ミュルダールはマドッグと、自分のアホ設定を忘れた。
彼女はきょとんとしているエリナに走り寄ると、彼女の体を抱く。
「いい、そこで静かにしていなさい!」
「え?」ようやく表情を動かすエリナの前で、霊体は姿を成していった。
くるくると空を燃えながら飛ぶファイヤースカル。白い霧が集まったような人間の何倍もあるアンデッド、スペクター。
それらが何体も実体化し、街道を浮遊していた。
「ひっ」ミュルダールの胸のエリナの体が硬直し、ミュルダールの腕が生暖かくなる。
少女が漏らしたようだ。
「ごめんなさいつ! ごめんなさいっ! ごめんなさいっ! もうしませんっ!」
こんな時なのに、エリナは激しく涙を溜めて謝る。
ミュルダールは悟った。この子はこうして少しの粗相でも酷い目に遭わされて、育ったのだと。
「大丈夫よ」ミュルダールは出来るだけ優しく微笑んだ。
「私も怖くて漏らしそうだもん」
彼女は腕の中の少女に愛おしさを感じ、反対に彼女を怯えさせたアンデッドどもに、怒った。
「まさか、このミュルダールの前に現れて、安穏と墓に戻れるとは思ってはいないだろうな?」
マドッグはいつの間にか消えているが、今の彼女にはどうでもいい。
とにかくエリナを守る。
アンデッドどもが襲いかかった。ファイヤースカルが一直線に突っ込んでくる。
「ふん」とミュルダールは意にも帰さない。
「ウィッチ・アロー!」
ミュルダールの杖から青い光が迸り、空を飛ぶ髑髏が粉砕される。
「ほら」と一転優しく、エリナに囁く。
「あんな奴らにあなたを傷つけさせない、大丈夫よ」
怯えていたエリナが、ぎゅっとミュルダールに抱きついた。
力が沸く、子供の温もりが彼女を奮い立たせた。
「ウィッチ・アロー」彼女は何度もそれを唱え、ファイヤースカルを一掃した。
「さて」雑魚を蹴散らした彼女の前にいるのは、スペクターだ。
自分が死んだことが許せず、怒りに燃える亡霊。
「もう仕方ないでしょ! 黙って死んでろ!」
ミュルダールは一言叫ぶと、真剣な表情で呪文を唱える。もうぼーとしている彼女はどこにもいない。
「ライトニング・ボルト!」
雷の魔法を放ち、次には跳ぶ。スペクターの反撃を避けたのだ。
「グウォォォォ」
ライトニング・ボルトに打たれた亡霊は苦しんだようだが、まだ形を失っていない。さらにそんな奴がまだ数体残っている。
「ふふ」ミュルダールは挑戦的に笑う。
「よろしい、どちらが上かはっきりさせましょう。真の魔道を見せようぞっ!」
「ファイアー・ボール」ミュルダールが唱え、スペクター達は炎に包まれる。
「グオゥゥ」苦悶の呻きが上がり、スペクターは微かに薄らむ。
が、慌ててミュルダールは防御の魔法を使った。
「ソーサラー・アーマー」エリナにだ。
怒ったスペクターが反撃の一撃を向けた。
間一髪、エリナは魔法の防具により守られた。だがミュルダールのローブの胸部はざっくりと裂かれる。
「お姉ちゃん!」エリナ悲痛に叫ぶ。
「大丈夫大丈夫」とミュルダールはむしろ笑って、彼女の頭を撫でた。
「私これでも強いから、平気だよ」
ミュルダールは傷ついた胸を張り、次の魔法に移った。
スペクターどもが消えるにはその後、しばらく必要だった。だが老練のソーサラーミュルダールはエリナと言う弱点を抱えながらも、ついに敵を滅ぼした。
「はあはあ、ふう、ふう」と彼女はエリナを降ろして、杖に寄りかかる。
「大丈夫だった? 怖かった?」
エリナを心配すると、少女は豊かになった表情に、輝くような笑顔を浮かべる。
「うん! ちょっと怖かったけど、お姉ちゃんが強いから大丈夫!」
「そう」ミュルダールもつられて笑みを浮かべる。
その時、
「ご苦労さん、だいぶ疲れたようだな」
どこかに消えていたマドッグが姿を現した。ロングソードを手にしたまま。
「……ふう」その様子をしげしげと見つめ、ミュルダール納得した。
「そう……これは作戦ね? 私を疲れさせる」
「まあな。昨日騎士と戦った時にあんたの弱点を二つ見つけた……一つはあんたは優しい。あのどうしようもない騎士どもを殺すのも躊躇っていた。小さな女の子を見捨てる訳がない。そして魔法を使った後、あんたは疲れていた。どうやら魔法は疲れる物らしい」
その通りだ。魔法はいちいち全身全霊を込めて精神集中をしなければならず、しかもそれは徐々に出来なくなっていく。つまり回数がある。
マドッグはそれを突いたのだ。
「さあ、決闘だ」
何でもないかのようにマドッグが宣言する。
「ダメ!」気配にエリナはミュルダールの前で、両手を広げる。
「お姉ちゃんを傷つけないで!」
ミュルダールは少女の背に、頬が緩んだ。
──まあいいか、私にしてはいい死に方だ。少なくてもこの子を守れた。
「エリナちゃん、危ないから下がってて」
「お姉ちゃん!」
ミュルダールはエリナの丸い目に自らの微笑みを見た。
「大丈夫、お姉ちゃん強いから……見たでしょ? あんな奴がーんよ」
エリナは迷っていたようだが、渋々繁みに戻る。
勿論、ミュルダールは判っていた。
疲労で杖が重く、もう魔法も殆ど使えない……この状態でマドッグに勝てるわけがない。
マドッグのロングソードは時を置かず、あっさりミュルダールを肩から斜めに切り裂いた。
彼女は音もなく背後に倒れる。
「あああ」エリナが愕然とする声が響いた。
マドッグは立ちつくすエリナを視界に入れず、血の中に倒れるミュルダールに近づいた。
「すまねえな。あんたは強い、こんな戦いしか思いつかなかった」
「しかたないなー、ひどいよー」ミュルダールはまたアホの仮面を被り直していた。
「正々堂々だよー、男ならー。ずーる、ずーる」
唇を尖らす彼女に、マドッグは尋ねる。
「聞きたいことがある……あんたここから逃げられたんじゃないか? エリナを抱いたままで……それから俺達の決闘なんかにつき合わず、何故逃げなかったんだ?」
それはマドッグがずっと抱いていた疑問だ。
ミュルダールは一人でさっさと国から出ればよかった。いちいち他の決闘者と話し合う必要などなかった。
どうしてか彼女は無意味な節を堅持した。
ミュルダールはこほこほと咳をすると、しばし夜空を見上げていた。
「……どうしてかなー。どうでもーよかったんだよー、きっとー」
「うん?」マドッグの眉が上がった。
「私はー百年前にー愛する夫をー亡くしたのー。あれからーこの世界にー興味がー持てなかったー。エルフの血が入っているーてだけでー化け物ー扱いだしねー。もういいかなーて、きっとーそれだけー」
「そうか」
「ねえーマドッグー。一つ頼みがーあるんだけどー」
「何だ」
ミュルダールは目をつぶる。
「異世界人のー女の子ー、オリエちゃんにー謝っておいてー。私馬鹿な事しちゃったー、彼女のー大事なビャクヤくんをー誘っちゃったー。あの子私の夫に似てたからーつい。きっとオリエちゃんー傷ついたはずー。だってオリエちゃんがービャクヤ君を好きなのはー一目瞭然だったもーん……馬鹿だねー。アホの極みだねー。後悔後悔だねー」
「ああ」どうしてかマドッグの心がずきりと痛んだ。ミュルダールを殺したくなかった。
今更だが。
「あ! そうだ、ね、これ見てー、マドッグー、これー」
ミュルダールが不意に掌を上に向ける。
「あ?」マドッグは簡単にそれに顔を近づけた。
「あしっど・しゃわー!」
ミュルダールの酸の魔法がマドッグの左顔面に炸裂する。
「ぐわあああ」マドッグは左目を押さえて地面を転がり回る。
「せめてものふくしゅー♪」
マドッグが焼けた顔の左半分を押さえ身を起こすと、もうミュルダールは息をしていなかった。まるで慈母のような柔らかな死に顔だった。
彼女の傍らにエリナがしゃがんでいて、目をこすっている。
「……決闘の結果をギルドに報告してくれ、エリナ」
少女は怒りに満ちた目でマドッグを射る。
「ああ、判っているさ」マドッグは失明した左目に手をやりながら、彼女に頷いた。
「俺は最低だ」
ローグ・マドッグVSハーフエルフのソーサラー・ミュルダール。マドッグの勝利(魔法切れ)
……ちなみに後年になるが、ミュルダールに助けられたエリナは、浴場を継がず旅に出て、苦労してソーサラーとなり、誰もが知る優しく強い存在となる。
地母神の聖職者ブローデルVS異世界人戦士・皆部白矢。
「では、始めっ!」
ブローデルが連れてきた狡猾な顔の見届け人が、戦いの開始を宣言する。場所は雑木林の中であり、人気は決闘者と見届け人だけだ。
白矢は手にした魔法のバスタードソードを慎重に構えた。
敵は棘の突いた鉄の球・モーニング・スターを手にしている。
「行かないで! 白矢!」数時間前、三日も飲まず食わずで情事に没頭していた彼が流石に疲れて宿から買った肉にかぶりついていたら、裸の織恵が背中を抱きしめて来た。先刻まで彼の手のままに形を変えた双丘の感触が彼に再び熱い欲望を思い出させる。
「一緒に逃げよう!」
それは魅力的な提案だった。この国の馬鹿げた決闘に背を向ける。正しい選択だ。
だが出来なかった。彼は皆に約束したのだ。『死を超越した者』に会い、失われた仲間を蘇らせる。その情報を持つブローデルからは逃げられない。
「でも!」説明された織恵がまだ否定の言葉を投げようとする。
白矢は唇を重ねて黙らせた。
「織恵、俺は絶対に勝つ、勝って加藤君達を助ける……そしてみんなで元の世界に帰ろう」
「でも!」まだ彼女は納得していない。銀河のように煌めく大きな瞳から涙が流れる。
二人はまた口づけをした。長く淫靡な。
唾液の糸を引きながら離れた白矢は、織恵を抱き締める。
「織恵、俺を信じてくれ、必ず勝つ。愛する君のために」
「……うん」頬を赤くした織恵の返事は小さかった。
だから白矢はもう躊躇していない。ブローデルがその気ならば、彼を殺すのだ。
白矢は織恵を愛している。
今ならはっきりと断言できる。
彼女とこの世界で暮らすのもいいが、1980年代の日本で生活していた織恵を含む女子生徒達は、まだアースノアとの折り合いを着けていない。
この世界の普通の女性は気にしないようだが、彼女たちはムダ毛処理も男子に隠れて行っており、時折腕や臑、脇を傷だらけにしている。
白矢は彼女らに無理をさせたくなかった。馴染みと清潔で便利な世界に戻りたかった。そこでお互い体を石鹸の、息を歯磨き粉の匂いにして、また抱き合いたかった。
ブローデルには負けない。
白矢はラメラーアーマーと鎖帷子の敵の出方を慎重に窺った。自身の鎧は鎖帷子と上半身だけ板金鎧だ。敵の武器は思い棘付鉄球……鎧はあまり頼りになりそうにない。
白矢が有利な所があるとすれば、魔法のバスタードソードだけだ。
「では、参りますぞ」ブローデルは一度目をつぶり、それを大きく開いた。
モーニング・スターを振り上げて白矢に向かって来る。
受けるわけにはいかない白矢は、それを剣でいなした。
火花が散り、重いモーニング・スターが地面を抉る。
ブローデルはだが立派な体躯に相応しく力持ちで、素早く構え直しモーニング・スターの連続攻撃を繰り出す。
白矢は剣を使いながら、何とか耐える。
「ほう、やりますな」ブローデルは感嘆の声を上げ、ちらりと見届け人に視線を投げている。
「では今度のはどうですかな?」
ブローデルは上段にモーニング・スターを構えた。白矢は反射的に剣を横にする。
痛みが走ったのはその時だ。
「え?」と視線を下げると脇腹にクロスボウのボルトが刺さっている。
一瞬の困惑。それが命取りだった。
ブローデルのモーニング・スターは雷のように落ち、白矢の肩を板金鎧ごとぐちゃぐちゃにした。
皆部白矢は前のめりに倒れた。
「ありがとうございます、地母神様」
倒れたビャクヤの前でブローデルは地母神エルジェナに感謝の祈りを捧げた。
「ひ、卑怯者っ!」
荒い息を吐きながらビャクヤが罵る。
「卑怯?」ブローデルは首を傾げた。
確かに本来ならば手出ししてはならない見届け人がクロスボウを撃ったが、前日にそれについて地母神にお伺いを立てていた。
結果、許可されていた。卑怯なわけがない。
「貴殿は何か勘違いをされておる」
きょとんと言う風に、ブローデルは答えた。
「見届け人に加勢させるなんて……」ビャクヤは血で赤く染まる歯を食いしばる。
ゆっくりと彼は立ち上がった。
脇腹にクロスボウを受け、肩を潰されながら、彼は戦いをやめようとしていない。
「何と見事な!」ブローデルは感激した。感激して涙を拭った。
「判りました。この決闘を続けましょう、いざ正々堂々ですぞ」
見届け人が二発目のボルトを装填している。
ブローデルは最早戦闘不能に近いビャクヤに、モーニング・スターを払った。
簡単に吹っ飛んだ。今度は胸部の金属を歪ませて。
二発目のクロスボウが肩に当たり、反応できなかったのだろう。
ビャクヤは太い木にぶつかり、落ち、動かなくなった。
「終わりですかな?」ブローデルが目配せすると、彼の弟子たる見届け人のリュイが今一度クロスボウを装填する。
「これでよいのです」ブローデルはモーニング・スターを下げて、天に祈る。
「おお! 大いなる地母神エルジェナ、私はこの試練に勝ちましたぞ」
ブローデルは微塵も己の卑劣を自覚していない。
彼は元々裕福な貴族の四男だった。生まれの不運だ。
貴族は長男なら莫大な財産にありつけるが、その下は先細りしていく。四男などそこらの商人の方が沢山の財産を残せるくらいだ。
だがブローデルは腐らなかった。彼はその時もう教会へ通い、古代魔法帝国崩壊の後も人間を見捨てなかった唯一の神・地母神エルジャナの使徒となる決心を固めていた。
彼はすぐに教会に入ると、厳しい修行に耐えた。
だが教会で日々を過ごす内に、知ってしまった。
司祭達の腐敗に。
十分の一税と呼ばれる、王侯を含めた到る者達から得る税金で、司祭達は贅沢三昧だった。
禁止されているはずの妻を娶るどころか、中には愛人を数人囲う司祭さえいた。
教会のために使うはずの税は彼等の懐に入り、貧しい者達が必死で収めた血の色をした金を、極上の肉や酒や享楽に使う。
ブローデルは怒り狂った。怒り狂って腐敗した教会を何とかしようと行動した。
無駄だった。
所詮貴族の四男の一司祭では、教会の欲望を正すことも、告発する事も出来なかった。
ブローデルは絶望し、嘆いた。
だが、女神エルジェナは彼を見捨てていなかった。
機は突然訪れた。
勇士決闘だ。それで勝てばブローデルは多額の金と領地を得ることが出来る。つまり発言力も上がる。
教会の腐敗も正せて、庶民の税も無駄にならない。
そう、だから……
「私だけは卑怯でも許されるのだ!」ブローデルは宣言した。
「何せ私は、正しいことをしようとしているのである! 腐敗した教会を立て直す!」
彼は目をつぶり、今一度地母神エルジャナに問う。
──私はこのような戦いをしてよろしいでしょうか?
答えはすぐに返ってくる。
『OK! やっちまえ!』
いつもそうだった。彼が悩んでエルジャナにお伺いを立てると、その言葉が頭をよぎる。
自分自身の意見だとは露とも考えなかった。
これは地母神の意思なのだ。だから常に正しい。
ブローデルは胸を張る。
「ううう……」ビャクヤが呻いていた。
どうやらまだ息があるらしい。
「哀れな」ブローデルは止めを刺すために歩み寄る。彼の忠実な弟子であるリュイが再びクロスボウを持ち上げるが、首を振った。
そもそも勇士決闘は飛び道具が禁止だ。万が一、ビャクヤの致命傷でそれがばれたら、地母神様も言い訳できない。
ブローデルは一歩一歩ビャクヤに近づいた。モーニング・スターで頭を潰すために。
彼は絶好の位置へとたどり着いた。
「今楽にしてしんぜよう」ブローデルは重いモーニング・スターを振り上げた。
次の瞬間、彼の腹を剣が貫いた。
ビャクヤのバスタードソードだ。
「だろうと思ったよ」ビャクヤは未だ輝く目で、ブローデルを睨んでいた。
「この決闘は飛び道具は禁止だ。最後には自分で止めを刺しに来る、その時がチャンスだった」
ブローデルは唖然とビャクヤの台詞を聞き、自分の腹を確認した。
たっぷりと出ていた腹部に剣が深々と埋め込まれている。燃えるような痛みが湧き出て、赤い血が噴き出した。
「馬鹿な! エルジャナよ……何故なのだ」
「貴様!」見届け人のリュイがクロスボウを上げ、ビャクヤの顔は歪む。だが発射はされなかった。
ブローデルが首を捻るとリュイの肩を、誰かが掴んでいる。
顔半分が赤く爛れている……マドッグだ。
「こんなこったろうと思ったぜ。前に決闘しかけた時に、あんたの陰険な目が気になってな」
「何をする!」だがリュイの叫びはそこまでだ。マドッグに顔面を強か殴られ、白い歯が宙を舞う。
「この勝負、異世界人ビャクヤの勝ちだ。異論があるならあんたらがやった反則を広めるまで、そうなれば教会も……アンタの身もヤバイだろ?」
血まみれのリュイに怯えた表情が、浮かぶ。
「ブローデルには妻のことで借りがある。もしお前が大人しくブローデル敗北をギルドに伝えれば、この汚い手は忘れてやる」
是非もない。リュイはその場にクロスボウを落とす。
「行け! 行って結果を伝えろ!」
マドッグはもう一度彼の横面を殴り、反則を犯した見届け人はふらふらと木の向こうに消えていった。
ブローデルはその場に片膝を落とす。
「……どうして、地母神の神託が……私は神託の通りに……」
「それは本当に地母神の言葉だったのか?」
見届け人を追い払ったマドッグが、ブローデルに答える。
「あんたの都合のいい考えだっただけじゃないか?」
「そんなはずはない!」
マドッグは肩をすくめる。
「ずっと見ていたが、あんたは教会の腐敗がどうとか言ってたが、多分あんたが腐敗していると思った連中も、あんたと同じだと思うぜ」
「同じ?」ブローデルはマドッグの言葉を反芻した。彼は左目を失明しているようだ。
「自分だけ卑怯が許される……神がそう言ったから? きっと他の連中もそうだろうさ」
ブローデルははっとした。羞恥に顔を紅潮させていく。
「何て事だ! 私は自分の弱さから出る言葉を神の神託と勘違いをして、こんな卑劣な事をしてしまったのか」
がくり、とブローデルの頭が落ちた。
「愚かな……あまりにも愚かすぎる」
彼はついと顔を上げると、もう身動きできないビャクヤへと必死に近づいた。彼の肩やらに手を伸ばす。
「これは?」ビャクヤは目を丸くした。傷が治っていくから驚いているのだろう。
「本当は俺の目と肩をやって欲しかったんだけどな」ふん、とマドッグが笑う。
「ビャクヤ殿」彼の傷を癒やした後、ブローデルは頭を下げた。
「私の未熟のせいで、決闘を台無しにして申し訳なかった」
「それよりあなたの傷は?」ビャクヤは起死回生の一撃、バスタードソードでの傷についてブローデルに訊ねている。
彼の腹部からは止めどなく血が流れ出ているからだ。
「ふふふ」とブローデルは頬を緩めた。
「私の奇跡も精神集中が必要です……最早今日は使えませぬ」
「そんな」
「よいのです、ビャクヤ殿。私は卑怯なことをしてその上敗れた。今更生きようとは思いませぬ」ブローデルの体が傾ぎ、横に倒れる。
「ビャクヤ殿……『死を超越した者』はネラクスの墓地に居を構えているそうです……ですが気をつけなさい。教会はその者を討伐対象にしています」
「ありがとうございます」ビャクヤは礼儀正しく礼を言うが、もうブローデルは目を閉じた。荒い息だけが辺りに響く。
「いくぞ」あまりにも冷徹にマドッグが促した。
地母神の聖職者ブローデルVS異世界人戦士・皆部白矢。白矢の勝ち(ブローデルの反則)
「いくぞ」白矢はマドッグのその冷たさに、反感を覚えた。
敵とは言え、もう少し労ってもいいはずだ。
「違うな」マドッグは白矢の心理を読んでいた。
「こいつは自分の死に様を他人に見せたくないはずだ……特にあんな手を使っちまったんだから」
「どうして助けてくれんですか?」白矢は訊ねた。考えてみたら彼を助ける必要はなかったはずだ。共倒れならマドッグの一人勝ちだ。
マドッグはしばし黙した。
「俺も全てを賭けたからな」彼はふわっと笑う。
「何をもかも捨てて、仲間に軽蔑されて……でもこの決闘はやらなくちゃならない……だったらよう、せめててめえの節だけは曲げない。ルールには従う、それだけさ」
マドッグは残った目で白矢を見下ろす。
「で、最後の決闘はどうする?」
そうなのだ。もう選ばれた勇士で残っているのはマドッグと白矢だけだ。
「お願いがあります」白矢はマドッグに頭を下げる。
「『死を超越した者』と会わせて下さい。その後なら、決闘は受けます」
「わかった、手伝ってやる。明日にでも行くぜ」
「はい」白矢は治った体を動かし、大丈夫であることを確認した。
「それでいいです」
第七章
ネラクスの墓場。もう五〇年前に放棄されたサイレスの街からも遠い共同墓場、らしい。
かつては街の人々が埋葬されたが、どうしてかいつからかアンデッドの巣窟になり果て、誰もが見捨て、そのままになっているそうだ。
マドッグと皆部白矢、細木織恵はそこへ向かって歩いていた。
真っ昼間だというのに太陽は厚い雲に隠れ、黒雲は時折竜のような稲妻をちらつかせていた。
白矢は織恵にこの後のマドッグとの決闘を話していない。
もし知られたら彼女は全力で阻止するからだ。
織恵は変わった。
かつて彼女は白矢が危険を冒す事にも応援するくらいだった。
しかし今の彼女は彼が何をするにも付いて来て、少しでも危険だと思える事をすると、身を挺してまで止めた。
「だめよ! 危ないことはしないで!」
例え喧嘩の仲裁に入ろうとしても、この言葉で阻まれる。常にみんなを心配していた織恵が、いつの間にか白矢の安全しか考えなくなっていた。
一方マドッグは覚悟を決めていた。
彼はこの生真面目で勇敢な異世界人が何となく好きになっていた。だが殺すのだ。
ソフィーだ。
あれから毎日彼女を治療している。瀉血と水銀の丸薬だ。
だが一向に彼女の病は癒えなかった。それどころか常に口から涎を垂れ流し、重い下痢で、便を漏らすようになった。マドッグの左顔面の怪我さえ見えない程に憔悴している。
もはや彼女を救う手は一つだ。
大司教ドミニクスの奇跡……大金貨三万枚。
しかも昨日のブローデルとの会話で判ったが、ドミニクスも妻帯しているし、酒も飲んでいる。つまり教会に禁止されている行いを平気でしている。
ふっかけられて大金貨三万枚じゃ済まないかもしれない。
考えれば考えるほど暗くなるマドッグだが、背後の二人には微笑みを誘われた。
どうやら二人は結ばれたらしく、オリエの方が女の目でビャクヤを監視している。
「なあ、ビャクヤ」つい話しかけてしまう。
「はい」
「女は大事にしろよ、ちゃんと可愛がってやってるか?」
「はい! 昨晩も……」
彼が黙ったのは、オリエにつねられたかららしい。
「わははは、そーいやミュルダールが謝ってたぜ。誘惑して悪かったって」
「ミュルダールさん? どうしてます?」
「ああ……俺が殺した」
ビャクヤの表情が変わった。だがすぐ「いて」と顔をしかめる。またオリエにつねられたようだ。
マドッグは内心笑った。
この初々しい恋人達は何故か彼の心を温かくする。だからこそ、この後の決闘は憂鬱だった。
ソフィーのためだ。と唇を噛むが、ビャクヤが敗れたらオリエはどうなるんだろう、それを考えると心が萎えそうになる。
「さあて、そろそろ仕事だぞ」
彼の悩みを吹っ切るようなタイミングで、それらは現れた。
墓場から這い出るゾンビ達とスペクター、グール達だ。
三人は即座に、それぞれ戦闘態勢に入った。
苦戦はしなかった。何せ彼等は国で挙げられる程の実力者なのだ。ミュルダール程圧倒はしなかったが、着実にアンデッドをただのデッドに戻していく。
「そう言えば……」マドッグは無駄話をする余裕もあった。
「お前達は異世界から来たんだろ? どんな世界だ?」
「ええっと」これまた余裕があるビャクヤが、応じる。
「この世界より大分文明は進んでいます。馬より早い鉄の車や、空を飛んで違う国に行く飛行機とかがあります」
「すげえな」しかしマドッグはあんまり感心していない。実は想像も出来ない。
「マドッグさんはどうして冒険者になったんですか?」
それはビャクヤの何となくの質問だろう。間つなぎみたいなものだ。
だがマドッグの口元は引き締まる。
彼の傷だ。
「死の冬……知っているだろ? この世界は神に見捨てられてから冬が厳しくなった。何でも人類を前に進ませないためにだそうだ。畑は石みたいに凍り、毎日雪が降り、家畜は死に絶え、油断しているとすぐに人も凍死する……みんな生きていたければ暖炉に張りついていなければならない時期さ。ちなみに糞も暖炉の前の桶でする」
マドッグの目が細められる。彼はいつのまにか捨てた故郷を見ていた。
「俺はさ、こう見えてもパン屋だったんだぜ……パン屋の息子」
「……はあ」
「……あのなあ、お前達の世界ではどうだか知らないが、田舎の村でパン屋は重要な職なんだ……だがある日、親父は告発された。パンに使う大麦の粉を、不当に搾取しているってな、荘園裁判は散々だったさ、陪審員は誰も親父の言うことに耳を貸さず、親父は結局有罪となり、冬のために育てていた豚を全部賠償として取られた」
マドッグは苛立たしげに前髪を跳ねる。
「親父はそんな男じゃなかった! いつもきっちり持ってきた粉の分だけパンを焼いた。親父が泥棒何てしていない事は、誰よりも一緒の食卓に着く俺達がわかっていた。」
だがな……マドッグの声が小さくなる。
「すぐに真相は割れた。パンの粉を誤魔化していたのは、水車小屋の粉ひき一家だったんだ。みんな勿論知ってたさ、だが村のクズどもは水車小屋の粉ひきが、領主からの信任厚い者だから親父を生け贄にした」
マドッグの表情が消える。
「その冬は寒かった。寒くてひもじかった……何てったって、喰うはずの豚の乾燥肉がないんだ。幼い妹はすぐに死んだ。親父はお袋が病気になると、何かを探してくると外に出た……死の冬の中にな、で帰ってこなかった。結局お袋も死んだ。おなかがすいた、て苦しみながら」
ビャクヤ達は無言だ。衝撃を受けているのだろう。
「俺は一四のガキだった。だがやることは判ってた。……死人税を払うことじゃねえ、冬が開けると鉈をもって水車小屋に行き、粉ひきとそのガキ共を皆殺しにしてやった……すぐに村から逃げたよ。それ以来、俺は冒険者さ、名前を変えてな」
「そんな……こと、って」ショックなのかオリエの声が湿る。
「気にすんな、ここはそんな世界だ……だけど俺は今は幸せだ、妻のソフィーがいる。彼女の為には何でもやる。おまえ達の世界だって、戻りたいと思える今がきっと一番いい時代なんだろうさ」
マドッグはここで舌打ちした。
喋りすぎたと自分で判る。レイチェルやルベリエにも語ったことがない昔話もしてしまった。
だがどうしてか、彼等に自分の出自を話しておきたかった。これからの決闘に対しての贖罪かも知れない。
「おおっと、おいでなさったぜ」マドッグが過去語りなど無かったように、明るく声を出し、「う」とオリエの戦く声が聞こえた。
巨人がいた。だだの巨人ではない。人間の死体を滅茶苦茶につなぎ合わせた、見るもおぞましい化け物だ。
フレッシュ・ゴーレム。魔道士の趣味の悪さが爆発した代物だ。
「行くぜ」とマドッグは右手にロングソード、左手にハルパーを握るが、ビャクヤが囁いてきた。
「……ではマドッグさん、あなたの本名は何て言うんですか?」
「何だよ、いきなり」気勢をそがれたマドッグが振り返る。
ビャクヤの真剣な目があった。
どうやら彼も決闘を考えているらしい、堂々とした戦士と戦士のだ。
「本当の名前……タフティだ」ソフィーしか知らない名前だった。彼が幸福だった頃呼ばれていた、父からつけられた本当の名。
「さあ、化け物退治だ」
「うう……」オリエが怯んでいるのが判ったから、マドッグは口笛を吹く。
「そんなにびびるなよ、奴らはでかいだけだ。動きは遅いし、力はまああるが、攻撃なんて滅多に当たらない」
その通りだった。フレッシュ・ゴーレムは反撃する間もなく、ビャクヤの魔剣に、奇術のようにバラバラにされた。
「いい剣だな」マドッグは勿論決闘で勝ったらかっぱぐつもりだ。これ程の魔力を宿した剣なんて見たことも聞いたこともない。
「出番は多そうですね」ビャクヤが肩を落とす。
マドッグが一つしかない視線を転じると、フレッシュ・ゴーレムが五体、のそのそと歩いて向かって来ていた。
「めんどくせー」
さすがに五体を片づけるにはそれなりに体力と時間を食う。だが最後の一体を倒した後はアンデッド達もなりを潜めて、随分楽な旅路となった。
「うーん」とマドッグは、突然目の前に現れた屋敷を見上げる。
それなりに豪華な造りだ。壁は煉瓦で漆喰により補強されている。建物は領主のマナーハウスのように大きく、三階建てで窓にはガラスも嵌ってあり、四角い煙突からは煙も出ている。
「これだろうな」マドッグは結論した。
目的地である。これしかないだろう。ネクラスの墓場の奥にマトモな人間が、ご大層な屋敷を建てるわけがない。
「そうでしょうね」ビャクヤの声が震えていた。怯えているのではないとは判る。恐らく感激している。ついに目的地にたどり着いたのだから。
「後は『死を超越した者』に蘇生の方法を聞くだけです」
実はそれにはマドッグも興味があった、ソフィーだけではなくレイチェルとルベリエの姿も頭によぎる。
──全てが元通り。
魅力的すぎる展開だ。
「突っ立っててもしょうがない」躊躇している二人を尻目に、マドッグは屋敷の、竜の顔をしたノッカーを鳴らした。反応はない。
「会いたくないそうだが、強引に会うか」
マドッグは異世界人達の制止の空気を無視して、扉を蹴破った。
「グモォォォ」
「あらぁ」とマドッグは肩を落とす。
中には番人よろしくフレッシュ・ゴーレムがいた。しかもご大層にカニのように腕を四本はやしている。
屋敷は流石に戦闘には狭い。しかし敵は動きそうにない。しんどい戦いになりそうだ。
最初に仕掛けたの先頭のマドッグだ。彼はのっそりと動く八本の腕の一本に斬りかかった。簡単に切断する。
だが、彼に向かって他の七本が迫る。
「マドッグさん!」ビャクヤがすかさずカバーに入った。魔法のバスタードソードの一刀で、一本失った側の腕残り三本を纏めて落とした。
「……その剣、滅茶苦茶だなぁ」
と、背後から歌が聞こえる。オリエだ。吟遊詩人の彼女が『声援』を使っている。
マドッグの体に力が沸いた。
「へぇー」感心する。これならかなりの乱戦でも戦えそうだ。勇士として選ばれるワケだ。
嵐が起こった。
片方の腕を全て無くなったフレッシュ・ゴーレムが、暴れ出したのだ。
折角の屋敷の調度品をなぎ倒す。
「こいつ飼っている奴は余程の忍耐力だな」マドッグは感心した。
「俺なら二日で元の空き地に捨ててくるね」
マドッグとビャクヤが暴走する敵から距離をとり、隙を見ては剣を突き出す。
知能のないゴーレムは、それでけで徐々に力を失っていった。
止めを刺したのはビャクヤだ。マドッグがフレッシュ・ゴーレムの足の腱を斬り、蹲った瞬間首を飛ばした。
見事な連携だった、思わず二人は空中で手を叩き合った。
『ほほう、まさかわしのクレイムを倒すとはな、よき戦士達だ』
突然屋敷内に声が響いた。否、それは彼等の耳だけに届いた呪いだ。
『よかろう、ここまで来るがいい。三階だ』
マドッグとビャクヤとオリエは三人顔を見合わしたが、それしか道はないので黙って従った。
二階は皆固く扉が閉まっている部屋ばかりだった。
異世界人達は早く三階に行きたがったが、冒険者として経験を積んだマドッグは二階の扉に手を触れる。鍵がかかっていた。「ふーん」と彼はかがんで鍵穴を見つめる。異様な臭いが鼻を突いた。
「なるほどね」ビャクヤとオリエは怪訝な顔をしているが、マドッグは残った目をつむる。
「行こうぜ、そのなんちゃらの所に」
屋敷の三階はより豪華だった。赤々と火が燃える大きな暖炉があり、木の床にカーペットが敷かれており、大きな書架が幾つも置いてある。
その中心には安楽椅子に座った温和な顔の老人がいた。
「お初にお目にかかる、わしの名前はキルバリーじゃ。何用かな? 若き冒険者諸君」
はっとしたビャクヤが、ローブ姿の老人の前で礼をする。
「私はミナベビャクヤです。初めましてええっと、その……」
緊張からか口が回らなくなったビャクヤの代わりに、オリエが一歩踏み出した。
「私はホソキオリエです……『死を超越した者』に会うためにここまでやってきました」
「なるほど、なるほど」キルバリーは目元を皺だらけにして微笑む。
「だからわしか……うん、そうじゃ、わしは死を超越した。不死を得たのじゃ」
異世界人二人の顔が明るくなる。
「本当ですか! いえ、済みません、探していたので」
キルバリーがビャクヤに何度も頷く。
「よいよい、無理もない、中にはお主等を騙そうとした者もいたじゃろう。だがわしは正真正銘死を超越した……このアンデッドの巣に住み込んで三〇年かけてな」
マドッグは無言だ。ただ三人の遣り取りを表情を消して見つめている。大分片目にも慣れた。
「加藤君も岡部君もこれで蘇る」
「ほほう、お前さん達は死の淵から帰したい者が、いるんじゃな?」
「はい……あの出来ますか?」
「任せたまえ」キルバリーは胸を張る。
「ううむ……」がすぐに表情を曇らせた。
「しかしそれにはいくらか金が入り用じゃ」
「え!」ビャクヤとオリエは固まる。
「いくらくらいですか?」ビャクヤが恐る恐る訊ねたのは、彼にはブローデルを倒して貰った、普通金貨一〇〇枚があるからだろう。
「金貨一万枚じゃ」キルバリーは容易く二人の希望を打ち砕いた。
「そ、そんな……」オリエが力無く呟いた。
「そんなお金、いくらなんでも」ビャクヤも呆然としている。
「安心しろ」キルバリーはにっこり笑う。
「そうだと思って、もう一つの手がある。わしに手を貸してくれないか?」
「は?」
「手伝って欲しいことがあるんじゃ」キルバリーは寂しそうに目尻を下げる。
「何せわしはもう歳じゃ、お前さん達のような若者に、頼らなくてはならない……よいかな?」
「はい!」異世界人二人は大声で了承した。
「うむ、有り難い、ではこちらに来てくれ」
ビャクヤとオリエは手を振るキルバリーの近くに、言われるまま寄った。
「うむ、目をつむってくれないか」
「はい」頭を垂れ、二人は瞑目したようだ。
次の瞬間、マドッグは飛び出しキルバリーをぶん殴った。
「ぐわっ! 何をする!」
「え!」目を開けたビャクヤとオリエは安楽椅子から落ちたキルバリーを見て、非難の眼差しをマドッグに向けた。
「それはないぜ、お二人さん。命の恩人だぜ俺はっ」
マドッグはキルバリーが忍ばせていた、湾曲した短剣をも吹き飛ばしていた。
「こ、これは?」ビャクヤがぽかんとする。
「まだ気がつかねえのか?」
マドッグは床で蠢くキルバリーのローブを捲る。
「うっ!」目にしたオリエは口を押さえた。
キルバリーの脚は片方ずつ違っていた。片方は男のそれで、もう片方は女の細い脚。
「……つまり、あんたの言う死の超越ってのは、フレッシュ・ゴーレムになることだろ?
あんたは意識があるフレッシュ・ゴーレムだ」
「貴様!」キルバリーは今までとは打って変わった、憎しみに塗りつぶされた目でマドッグを射る。
「……二階な、あそこは死体がわんさかあるはずだ。コイツ達みたいに騙された奴らのな……死体の腐った臭いは、冒険で一番最初に知ることだ」
ビャクヤとオリエはようやく自分達が何をされようとしていたのか判ったらしく、青ざめていた。
「若い体がこいつのパーツにならなくてよかったな」マドッグはにやりとする。
「期待していたんだがな、世の中は甘くないか」
「おのれ……小僧めが」キルバリーは地獄の底で響くような声を出す。
「わしの不死の邪魔をしおって」
魔法が解けたのか、キルバリーの体中の縫い傷が表面に現れていた。顔も覗いている手も、場所場所で色や大きさが違う。色んな死体の一部分を切り取ったのだろう。
「あんたが成功したのは、アンデッドになっても意識を保つことだろ?」
望みが打ち砕かれて無言の異世界人に代わり、マドッグが指摘する。
「不死かもしれんがな、趣味じゃないな」
「そ、それじゃあ加藤君達は……蘇生は……?」
キルバリーはビャクヤを嘲笑する。
「愚か者! 死んだ者が蘇るはずなかろう」
「あんたで試すさ」マドッグが犬歯を剥き出すと、キルバリーは邪悪な笑みになる。
「そんなこと出来るかな? わしがフレッシュ・ゴーレムだけの魔道士と思うなよ、わしはネクロマンサーじゃ」
途端、部屋が揺れだした。キルバリーの命を受けたのか、現れる。
この世ならざる者達が。
暖炉から燃えさかる死体がはい出て、本はポルターガイストにより空を舞い、木の床のカーペットを剥がしてゾンビ達が手を伸ばす。ガラス窓はスペクターの集団に外からばんばん叩かれる。
屋敷は一気に騒がしくなった。
二階の死体安置所の奴らも目を覚ましたのだろう。あちこちから叫び声が、幾重にも響いた。
「ふふふ」キルバリーは三人を嘲弄した。
「さすがの貴様等もこの数には抗せまい」
「……なあ」マドッグは首を捻った。
「操っているあんたがここにいるんだが、それはどうなる?」
キルバリーは左右性別も長さも違う足を繋いでいるために、まだ起きあがれず、床に転がったままだ。
「わしは殺せぬ! 傷ついたら痛んだ部分を取り替えるだけじゃ。何の心配もない」
「……例えば」マドッグはロングソードを、持ち上げた。
「これであんたの脳を潰してもか?」
キルバリーは目を剥いた。
「……そ、それは……脳はダメじゃ…………」
「お前……バカだろ」マドッグは片手で顔を覆った。
「ま、待て! ……ジョークじゃ、そう! 全部冗談じゃ。お主等に危害を加えるつもりはないんじゃ……だからこのまま帰ってくれないかの?」
ビャクともオリエは言葉もなく、ただ口をぽかんと開いた。
「……わかった、わしの財宝もやろう。だから脳だけは、脳だけはやめてくれ」
「そんな訳ないだろ!」マドッグの剣がキルバリーの頭に突き刺さり、「ががが」とネクロマンサーは血も出さず、床に沈んだ。
ピタリ、と周囲の喧噪も消える。その場にゾンビが倒れ、本は落ち、スペクターはかき消える。
マドッグはしばらく辺りを観察し、安全だと判断した。
となると、最後の戦いだけが残る。
「さてと、おまえらの冒険につき合ったし、いいか?」
ビャクヤに背を向けながら彼は問うた。
期待して旅をしていた、『死を超越した者』の愚かさ加減に頭を垂れていたビャクヤは、
「はい」と答えた。
「え? 何? 何のこと?」
一人オリエが困惑する。彼女は知らないのだ。決闘の約束を。
「思い残すことはないな?」
「あります」ビャクヤは即座に答え、マドッグの唇が緩む。
「だろうな、俺も金が欲しい」
二人はキリバリーの死体など無いかのように、彼の部屋で剣を構える。
片方は使い込まれたロングソード。もう片方は魔法のバスタードソード。
パン屋の息子・タフティVS異世界人戦士・皆部白矢。
マドッグが剣を構えた時、「ちょっと待ってよ!」とオリエが割って入る。
「こんなの聞いてないわっ! 決闘なんてやめて、お願いっ!」
しかし覚悟したらしく、ビャクヤの目に煌めく戦意は消えない。
マドッグは感心して、オリエに声をかけた。
「さっき言ったろ? 俺はソフィーのためになら何でもやる」
「白矢! やめて! もしあなたに何かあったら私……」
「織恵、俺は君が好きだ。愛している……このままずっと愛し続けたい。でもこの世界に来て戦士の礼儀を学んだんだ。だからこの戦いを受ける……約束だから」
「そんな……」
ぺたん、とオリエが座り込む。
「あんたは見届け人だ。どっちが勝ってもギルドに報告してくれ」
「嫌よ! そんなのイヤ」
が、彼女の抵抗はマドッグとビャクヤの決闘を止められなかった。二人は恐怖で動けないオリエに構わず、最後の決闘を始める。
最初に仕掛けたのはマドッグだ。彼は敵の剣の威力を知り尽くしている。受けに回ったら負けると判断した。
ビャクヤの反応は素晴らしかった。
ロングソードの突きを跳ね上げると、逆にバスタードソードで突く。
間一髪、マドッグはそれをかわした。だが革鎧が紙のように、切り裂かれる。
──すげえな。
マドッグは敵の剣技と魔剣の両方に、賛辞を送る。
──だがだからこちらは動きやすい革鎧だ!
体勢を立て直したマドッグは斜めに剣を振る。
がきん、とビャクヤの板金鎧から火花が散る。
そう、敵は鎖帷子の上に部分的にだが、板金鎧を装着しているのだ。ブローデルとの戦いで歪んでいるが、まだ十分威力を発揮している。
──不利すぎるぜ。
マドッグは笑う、凶暴に。あだ名となった狂犬の顔になる。
マドッグの剣の狙いが変わった。頭だ。ビャクヤは兜を被っていない。
彼は長年培った足さばきを駆使し、ビャクヤの顔を剣で狙い、ビャクヤからの反撃からは遠ざかった。
勇士決闘の最後は、相応しく激戦になった。
マドッグとビャクヤは何度も剣を交え、あちこちに傷を作る。
実力的には明らかにマドッグが上なのだが、ビャクヤの魔法の剣と鉄の鎧は、致命の一撃を何度もはね除けた。
はあはあはあ、と二人の男の息が弾む。
真剣勝負は疲れる。肉体もだが精神も、鉄のヤスリで削られているように消耗していく。
だが二人の戦いは終わらない。
ロングソードが頬をかすり、バスタードソードが革鎧を裂く。
どれだけ続いただろうか、ついに終焉が見えた。
経験の浅く若いビャクヤが足をカーペットに取られた。その隙をマドッグは見逃さない。
彼はロングソードをビャクヤの顔めがけて振り下ろした。
「きゃあああ!」オリエの叫びがひびく。
ロングソードはビャクヤの顔を斜めに切り裂いた。だが浅い。同時にビャクヤの剣がマドッグの右腿に突き刺さる。
鮮血が宙に舞った。
オリエはビャクヤの治癒の為に彼に近づこうとしたが、「来るな!」と気配を読んでいるビャクヤに一喝される。
「これは正々堂々の決闘だ」
マドッグの感心は畏敬に変わった。これでまだ一五歳なんて大したモンだ。何せさっきからマドッグを正面から攻撃している。
──見えない左側からなら楽なのによ。
マドッグはミュルダールとの一戦で左目を失っている。ようやく慣らしたが、まだ本調子ではない。それを知りつつビャクヤは視界の左側に入らないのだ。
──ホントによう。
マドッグはビャクヤの潔さに好感さえ感じていた。ミュルダールが惚れる筈だ。
彼は肩を庇いつつ剣をかいくぐる。レイチェルからの一撃はまだ癒えていない。
目と共に治癒の魔法をかけて貰おうと思っていたが、ソフィーの治療を優先させた。
だからこそのマドッグの苦戦だ。
本来なら、先程の一撃で顔ではなく頭を叩き割っていただろう。
で、ここに来て足だ。
彼は血が吹き出る腿に、懐から出した布を素早く巻いた。
ビャクヤの方は、ただ血まみれの顔を片手で覆っている。
血で視界は狭まっただろう。足と視界……どちらが不利か。
マドッグの思考は短かった。彼は足の傷など無視して、ビャクヤに向かって駆けるとその胸を蹴った。敵が疲労してる故の戦法だ。
ビャクヤは胸部を板金鎧で守っている。だが板金鎧は重い。恐らく起きあがるのに隙が出来るはずだ。
視界を阻まれて、蹴りをまともに受けたビャクヤの体はふっとび、キルバリーの部屋の木の壁を突き破り、隣の空間に落ちる。
──行ける!
オリエの懇願するような瞳を振り切り、マドッグは駆けた。起きあがる前にビャクヤの首をかき切る。
左手には使い慣れたハルパーがある。
マドッグはビャクヤを追い、彼の破った壁をくぐった。
「は?」停止する。
ビャクヤは予測どおりまだ起き上がれていなかった。蹴りのダメージが意外に大きかったのだろう。
絶好の好機! ……マドッグはそれどころではなかった。
ビャクヤの周りだ。
暗闇だったが、ビャクヤが開けた穴からの光で異様に輝いていた。何があったか……水銀が垂れるほどの時間をかけマドッグは理解した。
金、銀、プラチナのインゴッド……そして各宝石類。
それらがわんさかと置いてある、隣の部屋はどうやら宝物庫だったらしい。
「……わかった、わしの財宝もやろう……」キルバリーの命乞いだ。嘘だと思って無視していたが、実は大した物だった。不老不死の噂を聞いてやってきた連中から、かっぱいだのだろう。
総合すると大金貨二〇万枚分はある。
「…………」マドッグは自分でも間抜けだと思いながら、提案した。
「戦う理由、なくない? ……やめようか」
オリエがビャクヤの傷を癒やしている。吟遊詩人は多少の治癒魔法が使えるらしい。
マドッグは何も言わない。
「俺も直して」と頼めるほど、彼も厚顔ではない。
気まずい雰囲気が辺りを支配していた。
「戦い、終わり」と宣言したマドッグに、ビャクヤの目は冷たかった。
彼を起こそうと手を差し伸べたが、ぴしゃりと弾かれる。
──だろうな。
マドッグはただ木の床を見つめた。
あまりにも意外でバカバカしい、勇士決闘の終わりだ。
ビャクヤとオリエはキルバリーの宝なんていらない、と突っぱねた。
半分に分けようと、せめてもの詫びのつもりで持ちかけたのだが。
「あのさあ」重い空気を何とかしようと、マドッグは明るい口調を作る。
「今回の決闘には王様の命令があったらしいから、おまえらはすぐに国から出ろ……もうローデンハイムに用はないだろ?」
「ええ、ありません。二度と来ません」ビャクヤは声は、怒気にうねっている。
彼の顔の傷は跡もなく消えていた。オリエの力だ。
──俺の足もやってほしいな、あと目とか。
密かに願うマドッグだが、言い出すチャンスはなさそうだ。
「……マドッグさん」ビャクヤは肩を震わせながら口を開く。
「色々とありがとうございました……でも、もう二度と会うこともないでしょう。いえ、俺はあなたに二度と会うつもりはありません!」
オリエはマドッグを見ようともしない。
「あ、ああ、そだな……ええと……あ! な、仲間の所まで元気でな」
顔を引きつらせながらマドッグは答え、手を振る。
こうして異世界人二人は去っていった。
マドッグと莫大なる財宝に背を向けて。
パン屋の息子・タフティVS異世界人・皆部白矢。勝負つかず(戦う理由なくなっちゃった)
「一攫千金てあるもんだな……」
マドッグは冒険の不思議に思いを馳せながら呟いた。一攫千金を信じていなかったルベリエなら、何と答えたろう。
ソフィーがまだ治療を受けている。
ムノンの瀉血だ。
とにかく、と彼は安堵する。
「これで無意味な戦いは終わりだ」
瞋恚の眼差しが彼を追う。ムノンの娘のエリナはまだ許してくれない。
マドッグは彼女を守ろうとしたミュルダールを、殺している。
彼女だけではない。サイレスの街で、マドッグはもう後ろ指をさされる存在になっていた。
冒険者の仲間を裏切り、無意味な殺しを続けた。王の命令なんて関係ない。人はその事実だけでマドッグを軽蔑し嫌悪している。
しかし彼は満足だった。
こうして家族のソフィーを治せるからだ。
水銀の丸薬も、タップリ買い込んでいた。
後はこのまま瀉血を続ければ、ソフィーも直によくなるだろう。大金貨三万枚も喜捨して、大司教ドミニクスの魔法の治療も頼んである。
ふー、とマドッグは息を吐き、椅子にもたれかかる。
まだ彼自身の傷は治していない。だが彼は今、貴族並に金がある。いつでも治癒の魔法で、傷一つ無い体に戻れる。
そしたらこの街は居づらくなったから、健康になったソフィーと違う街へと越すのだ。
そこでは大きな庭付きの屋敷が手に入るだろう。美味い物を毎日食えるだろう。
もう命の危険を冒してゴブリンから装備をかっぱぐことはない。
彼の、彼等の未来は輝いていた。
「そう言えばマドッグ様」ソフィーから血を抜きながら、ムノンが目を上げる。
「異世界人はどうなりました……その、どんな奴らでした?」
マドッグはムノンの疑問を正確に理解する。異世界人について興味があるのだ。この世界は異端と呼ばれる魔法があり、異世界から飛来した悪魔がいるとされているが、異世界人については、ほとんどの人が知らない。
「どこも違わねえよ、むしろいい奴らだ」と、答えながらも実はマドッグすら異世界とは何かが判っていない。
「……そうですか、でそいつ等は?」
「もうローデンハイムから出たところだろう」そしてマドッグは吹き出す。
異世界人オリエの、ビャクヤに対する瞳を思い出したのだ。
可憐な少女のフリをして、目の中で朱に散る愛欲を隠しもせずビャクヤに向けていた。あれはべた惚れどころか泥惚れだろう。
「……ま、あの分じゃ、仲間と再会する頃には三人になっているだろうがな」
「へ?」ムノンは理解できずに呆ける。
「とにかく、死の冬の前に元の世界とやらに帰れればいいな」
マドッグがそう締めくくると、どたばたと煩く、浴場主ムノンの使用人が入ってくる。
「何だ? 治療中だぞ」ムノンが不機嫌そうに叱ると、彼は怯えたように俯く。
「あ、あの……マドッグ様に会いたいという方が見えています、その……」
マドッグは察した。用心のために持ってきたロングソードに、手を伸ばす。
「あ、ダメでさぁ、その体で……逃げるべきでさぁ」ムノンは太い声で警告する。
マドッグの左目はまだ潰れている。肩の負傷は癒えていない、右腿も感覚がほとんど無い……だが。
「仕方ないさ、俺は殺してきちまった。今更戦いを回避は出来ない」
寂しく笑うと、マドッグは使用人に連れられ、外に出た。
雨が降っていた。
先程まで晴れていたから、にわか雨だろう。水滴は街道の横の木々や草花を活き活きと輝かせた。
マドッグは雨に打たれ濡れながら、草むらに横たわってた。
胸に槍で出来た大穴をこさえて。
敵は騎士だった。プレートメイルを来て軍馬に乗った知らない男だ。忘れていたが、騎士ベルリオーズの復讐権は、まだ生きていたらしい。
あっさりとマドッグは負けた。
名も知らぬ騎士が強かった訳じゃない。騎士は弱い。だがマドッグは負けた。
そもそも決闘など時の運。それに命と未来をかけるなんて、突端から馬鹿げているのだ。
勿論、負傷も彼の足を引っ張った。
レイチェルのレイピアが貫いた左肩。ミュルダールの最後の魔法で失った左目。ビャクヤに斬られた右腿。全てがマドッグの動きから生彩を奪った。
結果、致命の一撃を避けきれず、人のいない街道の隅で、人形のように捨てられている。
はあ、と彼は血で赤くなった口を開く。
「……仕方ないか……これは運命みたいな物だ……決闘なんてやり始めたときから、決められていたのさ」
彼は考える。
──幸運だった。
何にしろソフィーは助かるのだ。ムノンの治療と水銀の丸薬。それでもダメなら大司教ドミニクスの奇跡がある。
──ソフィーは、家族は助かるんだ。
だがここで重要な事実にマドッグは、目を見開いた。
家族……しかし彼がいなくなったらソフィーは彼の家族なのか? 共に生きて共に苦労するから家族の絆が出来るのではないか? それにしては二人の時間はあまりにも少なかった。
マドッグは今更、太陽が覗きだした空に手を伸ばした。
「ちょ、待ってくれっ! イヤだ! ここで誰にも知られずに死ぬのはイヤだ! 助けてくれ、助けてくれ! 誰か! ソフィー……ソフィー来てくれ! 一人にしないでくれ!」
叫びは届かず。冒険者マドッグことタフティーは、ただ一人で死んだ。
彼は勿論知らないが、マドッグを殺したのはウィーダの新しい愛人で、その男はその功績により、ベルリオーズの領地ワイズニスを手に入れた。
コンモドゥス王はいらいらとガギギドル城の中を歩き回った。
伝令が幾つも届く。全てが悪い知らせだった。
最初に訪れたのはダーソンの砦の陥落だ。続いて辺境のマータイル平原の失陥。騎士達や傭兵達を当然派遣した。
再び混沌の軍を蹴散らしてやろうと目論んだ。実際、これまでの戦いは常にローデンハイム軍の、人間軍の勝利だった。
だがダーソン砦もマータイル平原も、あっさり失った。
混沌の軍隊は、規模を増やしながら破竹の勢いで、ローデンハイム王国の領土を蚕食していく。
コンモドゥスは慌てて援軍を送った。届いたのは敗北の報告の数々だ。
今や混沌の軍はローデンハイム全域に跋扈し、弟リキニウス公もパリューンド領と妻を失い、勇者ギガテス伯も戦死していた。
リキニウスは隣国に身一つで逃げたと言う。
「何故じゃ! 何故こうなった」
コンモドゥス王は苛立ちと怒りと屈辱と不安に喚いた。
「おや、まだ判りませんか? 陛下」
涼やかな声がかかる。
コンモドゥス王が振り返ると、吟遊詩人でエルフのヘイミルが微笑んでいた。
「何じゃ、貴様、いつの間に」
コンモドゥスは目を血走らせてヘイミルの排除を命令しようとしたが、もう周囲の騎士達はいない。いつからかずっと城の騎士達は、減り始めていた。
「マータイル平原攻略は難しかった。何せ幾人もの勇士達が守っていたのですから」
ヘイミルはリュートの弦を一度撫でると、歌うように説明を始める。
「だから我等は考えたのです、手強い勇士達を亡き者にする策を……それが勇士決闘。見事に引っかかって下さいましたね」
「何じゃと! しかし勇士決闘で……」
「ええ、英雄は生まれました」
全ての勇士を倒したマドッグを殺し、未亡人のウィーダと結婚した若き騎士だ。多少のルールの歪みはあったが、眩しい笑顔の若き騎士をコンモドゥスは『英雄』にした。
「しかし、そもそも『英雄』とは何でしょう? ……危機に陥った惨めな人間がすがりつく偶像です」
ヘイミルは嘲笑う。
「この国に英雄は必要なかったのですよ陛下。マドッグやベルリオーズのような要がいてくれたのなら……英雄などがいる世界の方が異常なのです、多数の普通の兵士がいてくれる方が正しいのです。英雄は亡国の前触れです。ただの兵士達の方が余程大切なのです。王よ、統治者たるあなたの真の役割は、そんな兵達のささやかな生活や夢を守ることなのです。しかしあなたは自らの地位に固執し、兵士達の功に報いるのに、命がけの決闘を命じました。逃げ場も封じて無理矢理に……愚かなことです」
「貴様! 何者じゃ!」
ヘイミルは優雅に一礼した。
コンモドゥス王は愕然とする。顔を上げた彼の肌は茶褐色だった。
ヘイミルは混沌の軍のエルフ、ダークエルフだったのだ。
「マータイル平原に勇士が居続ける限り我等混沌の兵は、ローデンハイムに侵入できませんでした。さらに彼達は確かに強く、我等の接近も再三気づかれました。だからつぶし合って貰ったのです……愚かなルールで縛って。まあ……勇士など誰でもよかったのです。ただこの国に功のある人物であれば、それを王であるあなたが無為に扱えば、私どもの策は成ったのです」
「き、貴様!」
もうダークエルフはコンモドゥス王を相手にしていなかった。彼は辺りをわざとらしく見回す。
「ところで兵の姿が見えませんな? 傭兵の集まりも悪かったとのことで……当然でしょう、有為の人材を無為に殺す王に、誰も着いては来ないのです。これは国家だけの事ではありませんが、どんな人材も厚遇せねば人心は離れ、組織は弱体化する……どうして人間はそんな簡単な理屈に、たどり着かないのでしょうね?」
コンモドゥスはふらふらと剣を抜いた。無礼なダークエルフを斬り捨てるつもりだった。
だがその前にガギギドル城が大きく振動し、王は無様に転がり王冠が落ちた。
「どうやらサイクロプス達の、城への攻撃が始まったようです」
「な!」コンモドゥスは、倒れたまま顔色を失った。
「では、私は失礼します。ここであなたを殺してもいいのですが、王よ、あなたは私の剣を汚すに値しない」
優雅にヘイミルは再び一礼する。
「ああ、一つ伝え忘れていました。あなたの弟リキニウス公の叛意は本当です。兄であるあなたを倒して、王になるつもりだったようです……愚かですね、我等と言う外敵がいるというのに……人間どもは周りの敵に背を向け、せいぜい同胞同士殺し合っていなさい」
ヘイミルはかき消えるように姿を消した。
残ったコンモドゥス王は呆然と、誰もいなくなった城で這い蹲る。
ややあって彼は叫びだした。
「誰かわしを助けろ! 勇士達よ、この国を救うんじゃ! そうすれば金貨を……そうじゃ! 領地を与えよう! 英雄として語り継ごうっ!」
この戦いでコンモドゥス王は無惨に八つ裂きにされた。彼はその後、廃墟として残ったこのガギギドル城でアンデッドのワイトとして、うろつくことになるが、どうでもいい話だ。
マータイル王国は王と首都を失っても一年保った。一年後には滅びた。
かつて騎士ベルリオーズの領地だったワイズニスも当然征服された。マドッグを倒して『英雄』になった騎士はそれなりに戦ったが、オーガーに捕まり、生きながら喰われた。
その末期の絶叫を聞きながらウィーダは自らの過ちに震え上がった。
この領地は勇士として選ばれた程の騎士、ベルリオーズだからこそ守られていたのだ。しかし彼女は何人も愛人を作り夫を裏切り続けた。
ウィーダは、本当は誰の種か分からぬ息子のエルンストと逃亡を図った。領民なんてどうでもいい。
すぐに捕まる。恐らくベルリオーズがいたなら、三人での脱出は可能だったろう。
混沌軍の虜囚となったウィーダは、美貌が徒となり散々陵辱を受け、耐えられず自害した。まだ赤子のエルンストは混沌軍側の人間奴隷兼非常食としてよい働きをするだろう。
サイレスの街も落ちた。
ジャイアント、サイクロプス、オーガー、オーク、トロール、ゴブリン達の一斉攻撃を受け、一溜まりもなく潰えた。
民衆はことごとく陵辱され斬殺され、浴場主ムノンも殺された。娘のエリナはその前に、暴力を奮う父を見限り、家を出ていたから難を逃れた。
ソフィーは……マドッグの愛したソフィーは混沌軍との戦いでは死ななかった。
その前に、墓石の下の住人になっていたからだ。
マドッグが大金貨三万枚を喜捨した大司教ドミニクスには、病を治す奇跡など授かっていなかった。彼も大多数の聖職者と同じく堕落していて、地母神からも見放されていた。
だから通り一遍の誤魔化しでソフィーの治癒は終わり、当然彼女は治らなかった。
対してムノンは、誠実だった。
生前金を貰っていたからでもあるが、治療である瀉血と水銀丸薬の投与を毎日続けた。
故にソフィーの死因は水銀中毒と、血を抜かれすぎたための衰弱による物だ。
ムノンはソフィーの真珠の髪飾りを盗む事も忘れなかったが、律儀に彼女を葬った。
マドッグが死んでから僅か一ヶ月後だった。
大司教ドミニクスはどこからか混沌軍侵攻の情報を得て生き延びた。違う街でまた大金貨三万枚の詐欺を続けている。
結局、ローデンハイム王国に残ったのは、廃墟と死体と森と川。あとは変わらぬ太陽と月と星。
了
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