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不見聞言

作者: 白基慶
掲載日:2021/11/10

 私の罪は全てベッドの上にあった。獣がいつも居座っていた。毛むくじゃらのそれは、追い払ってもすぐ新しい一匹がやって来て、私が折角洗った真っ白いシーツに毛だらけの身体を腹ばいに横たえた。彼らの目的は私だった。私も貪った。男達と一緒に私も獣になった。あらゆる事をした。一日中眠っていた事もある。それも罪の一つになるだろう。

 彼らの内のどのタネだか、判らないが、私はそのベッドで息子を授かった。


 その息子がいつもの様に帰って来た。私はベッドの中で玄関の扉が閉まる音を聞いた。時刻は深夜。息子はそっと帰って来る。物静かな子。大人になった今でも変わらない。息を殺して生きている。夜の外出も、私に気付かれないよう工夫している。昼間は大概家にいて、出掛けても日暮れ前には必ず帰宅する。毎日夕飯を準備して、私と一緒に食べ、寝支度を済ましたら「おやすみ」と言って寝室へ行く。それから、時折、こっそり家を抜け出し、こうして夜半に帰って来る。

 母子家庭だというのに、息子は未だに働いてくれない。生活は苦しいけれど、息子は家事をよくしてくれるし、それに息子が子供の頃、私が散々ぶったりなじったりした所為で引っ込み思案になったのかも知れないから、「働け」と強く言えない。

 そう言えば、獣の一人に、今の息子に似た男がいた。典型的なヒモで、私が喰わせてあげていた。彼も大人しく、私が酷く怒っても、困った様に笑ってばかりいた。若しかして、息子は彼の子供?

 息子が寝室の扉を閉める音を聞いてから、私はベッドから抜け出た。トイレに行くフリをして、息子の部屋の前を通る。起きている気配はない。家は静かだった。誰の声もしない。私の溜息だけが聞こえた。こんな夜はよく眠れない。

 朝、息子が起き出して、台所へ向かう。私は少し遅れてベッドを下りる。

「おはよう」

 鮭を焼いている息子に声を掛ける。

「おはよう、母さん」

 深夜に出掛けた日の息子は、特に機嫌が良い。今朝の天気と同じ、晴れ晴れと、朝日に照らされながら天使の様な笑顔を浮かべている。親バカだけれど、この笑顔にときめく女は沢山いるだろうと思う。無垢で、あどけなく、放っておけない笑顔。

 そういった男と暮らした事がある。美しい笑顔を見せる男。けど、彼が上機嫌に笑うのは、決まって浮気した後だった。息子はその男の気質を受け継いだのだろうか?

「いってらっしゃい、母さん」

 息子に見送られて仕事に出る。私はホッとしていた。日中、息子は殆ど家から出ない。だから罪悪感を抱く必要がない。と言っても、最近は罪悪感も薄らいでいる。こんな生活にも慣れたのだろう。心配だけは膨らでいくけれど、仕事に熱中している間はそれも忘れられる。私は仕事熱心で有名だった。昔みたいに男漁りもしない。そもそも、年老いた私に言い寄る男はもういない。可愛いのは息子だけ。あの子の為に私は働いている。

 夕方、仕事を終え帰宅すると、リビングのソファに寝転んだ儘、息子が言った。

「おかえり、母さん」

「ただいま」

 そして息子は徐に身体を起こし、台所に立って、夕食の支度を始めた。私は鞄を下ろしながらその背中を見守った。スッカリ広くなった背中。いつの間に私より背が高くなったのか。いつの間にハンバーグなんか作れるようになったのか。私は何も知らなかった。

 食卓に並んだハンバーグとサラダとトウモロコシのスープ。茶碗によそった白米が湯気を立てている。

「いただこうよ、母さん」

「そうね。いただきます」

 息子と向い合せに座って、箸を取って、モソモソとハンバーグを食べる。息子の手作り料理を食べられて、私は幸せな母親だと思う。

「今日は何をしてたの?」

 私が毎日する質問。息子は笑顔で応える。

「今日は思い切って本棚の後ろを掃除したよ。埃がかなり溜まってた。あんなに何処から飛んで来るんだろうね」

「絨毯が古いのがいけないのね、きっと」

「そっか。けど、もう綺麗になったよ。これで少しは空気も良くなったんじゃないかな。それから、そう、映画を見たよ。古い映画。監督がヒッチコックの」

「へぇ。じゃあ、白黒?」

「うん。結構面白かったよ。流石はヒッチコックだね。定番のネタだけど、古典としてその定番を生んだっていう点が偉いよ」

「面白かったのなら、良かったわね」

 私はニコニコとそう言った。息子が愉しそうにしていると、私もつられて笑ってしまう。

「母さんは、今日はどうだった?」

 息子からそう訊いてきたから、私は次に用意していた質問を言い出せなかった。けど、言い出せなくて良かったと、つい安心してしまう。

「今日は税金関係の入力をしたの。でも、最近は何でもパソコンを使うから困っちゃって」

「母さんはデジタルが苦手だからね」

 朗らかに、天使みたいに息子が笑う。私も笑い返す。本当に穏やかな性格になった。昔は大変だった。息子が学生の頃は、荒れに荒れていた。あらゆる暴言を吐き、手当たり次第に物を投げた。怒りに身を任せていた。私も泣き叫んだ。息子の目が怖ろしかった。あの目、怒りの目。見覚えのある目。私を殴る男と同じ目だ。彼も怒りながら泣いていた。あの男の血が、息子の中にも濃く流れているのだろうか?

「そうそう、職場の人から聞いたんだけどね、近所の公園の花壇、あるでしょう?あそこの花が綺麗だそうよ」

 黒い沁みみたいな不安を拭おうと、私は話題を変えた。

「へぇ」

 息子がハンバーグを口に運ぶ。白い歯が肉を噛んでいる。

「去年は全然勢いがなかったのに、今年は盛っているんですって」

「何か変わったのかな?今度見に行こうか」

「そうね」

 私はサラダを噛んだ。青い葉がパリパリと割れる。トマトが口の中で破裂するのを感じながら、私は花壇の光景を思い浮かべる。鮮やかな花の数々。よく耕された土。

 私は突然心配になった。

「ミキサーの調子はどう?」

 いけない、と考える前に、言葉が口を衝いて出た。ミキサー。私が息子に買い与えた物の一つ。それは台所にはない。ズット息子の部屋にある。

「問題ないよ。どうして?」

 息子が笑う。けど、目の色が違う。

「いいえ、何でも無いの。暫く見てないから、ちょっと訊いただけ」

「そっか」

 目の色が戻る。私は微笑んでみせた。けど、動悸が激しくて、巧く笑えなかった。

 息子の私物について、触れてはいけない。息子の部屋には、入ってはいけない。息子が荒れていた頃、つまり学生の頃、喧嘩をして、腹いせに、息子が学校に行った後、息子の私物を無断で捨ててやろうと部屋に入った事がある。埃っぽい、散らかった部屋だった。やたらに育った観葉植物が床を占拠し、机の上には切り刻まれたコピー用紙が山の様に積もっていた。紙には裸の女が印刷されていた。息子がやったのだろう、机にはハサミも転がっていた。女達は、皆、胴体だけになっていた。首と手足はゴミ箱に埋められていた。

 私はあれから一度も息子の部屋に入っていない。

「生ゴミは溜めておかないのよ。それから、ビニールは洗ってから捨ててね」

 私は少し大胆になってそう言った。私は味方だと教えたかった。母親なんですもの。

「うん。判ったよ、母さん」

 息子は平然と頷いた。こういう男を私は知っている。全身で嘘を吐く男を。平気で人を騙して、何とも思わない男。彼の遺伝子が、息子の心を形作っているの?

 私がどんな質問をしても、息子は正直に応えてくれない。昼間、本当は何をしているの?常識的な掃除をして、映画を見ただけでは、とても時間を潰せない。他に何をしているの?あのゴミの量、あなたは一体、何処を掃除しているの?

「お金は足りてる?多くはあげられないけど、足りなくなったら言うのよ」

「うん」

 息子が肉を飲み込みながら頷く。私はお小遣いの使い道について、質問した事は一度もない。月に一、二度無心される程度だが、その都度従順に渡している。あのお金は何処に消えていくのだろう?息子は昼食もロクに食べていない様だし、服や靴も増えていない。貯めている様子もない。家にお酒は置いていないのに、時々息子からアルコールの匂いがする事と、何か関係があるのかしら?

 私は質問を次々飲み込んだ。窒息しそうだ。このハンバーグも、喉を通る気がしない。

「今日の夕食はどう?母さん」

 息子が訊いてくる。不意に、私の頭には料理が得意な男と付き合った記憶がよみがえった。彼は料理が好きで、皿洗いが嫌いで、料理より私を束縛する事に熱心だった。

 私は機械みたいに箸を動かして、デミグラスソースに浸かった肉を口に入れた。

「美味しいわ。いつもありがとう」

 私がそう応えると、息子は天使みたいに笑った。

 食事を終えると、息子がシンクに皿を持って行く。けど、皿洗いは絶対に息子にさせない。どんなに疲れていても、これは私の仕事だ。

 息子は食事を済ますと、すぐ歯磨きをする。それもキッカリニ十分と決まっている。歯磨きが済むと風呂に入る。これもキッカリニ十分。時計みたいに正確だ。

「おやすみ、母さん」

 寝間着に着替えた息子が、リビングに立ち寄って挨拶する。私はソファから立ち上がって、笑顔で応える。

「おやすみ」

 心底から言う。おやすみ。今夜はちゃんと寝てね。私の息子。深夜に起き出さないでね。どうか、グッスリ眠って頂戴。

「おやすみ」

 私がもう一度言うと、息子は軽く手を振って、自分の部屋の扉を閉めた。


 その日の夜も息子はベッドを抜け出した。私を起こさないよう忍び足で部屋を横切り、廊下を歩き、玄関から出て行った。私はベッドの上で目を開けて、じっと、暗闇を見詰め続けた。悪い予感が当たらないよう祈っていた。息子が無事に帰って来ますように。息子だけが帰って来ますように。

 なのに、祈りは届かなかった。どれくらい経ったか、やがて再び玄関の開く音が聞こえた。人の足音もした。二人分の足音。隣の息子の部屋から、囁き合う声がする。女の声。それは唐突に、蛙を握った様な声に変わる。私は毛布を頭から被り、耳を塞いだ。私には判っていた。明日の朝、隣の部屋からは息子だけが出て来るだろう。

 確かに、息子の過去に責任はある。けど、息子の人生の責任は負い切れない。

 息子の事は社会の誰にも知られたくない。私はひそかに願っていた。息子には生きていて欲しいけれど、数年、いや十数年後には、病気にでもなって、人知れず静かに死んで貰いたい。若しそうなったら、私もすぐ後を追って、ひっそり自殺でもしよう。


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