挑戦状
「路上に自転車や原動機付自転車を放置することは,条例により禁止されています.
放置されている方は,速やかに移動してください.
移動されない場合は,条例により,撤去します.」
スピーカーからこんな台詞を大音量で流し,今日も漁場にやってきた.
にわかに交差点はざわつき始め,慌てた人たちが自転車に飛び乗りそそくさと去っていく.
交差点を左折したところに軽トラックを停め,車から降りる.
漁場は今日も豊漁の眺めだ.
交差点の西北の角は,コンビニ,マクドナルド,カラオケボックス,ラーメン屋...格好の漁場だ.
短時間なら大丈夫だろうと,一時的に路上に放置された自転車が大量にある.
我々の仕事は,これらの自転車を撤去し,市内の保管所へと持ち帰ることだ.
時々,まさに荷台に乗せつつある自転車の持ち主が戻ってきて,声をかけてくることがある.
今戻ってきたので撤去しないでくれ,返してくれ,と.
そういう声に対し,我々は決まって答える.
「規則なんで,駄目です」
逆上して罵ってくる輩もいるが,そんなことは知ったことではない.
今ここでお金を払うので,と財布を出す奴もいる.
もちろんここで受け取る訳にもいかないので,こう答える.
「規則なんで,駄目です」
我々の仕事はルーティンワークだ.いつも同じ漁場へ行き,たんまりと自転車を撤去して帰ってくる.
自転車を奪われて途方に暮れたり,憤慨する人々を横目に,荷台を一杯にした軽トラックで走り去る.
我々だって,やりたくてやっているわけではないのだが,これで賃金が発生するのだ.
今日もまた同じ,何の感情もなく自転車を積み込む作業をする.しかしこれは僕が生きていくために必要な行為なのだ.
交差点の西北の角をだいたい掃除し終え,軽トラックを走らせて南西の角に移動する.
ここに来てはじめて,僕は今日の仕事がいつもと違うことに気がついた.
「馬?」
今日はじめて声を発した.それは助手席に座る先輩にも聞こえていた.
「馬?何の話や?」
「馬がいます」
「は?,,,って,,ほんまや」
交差点の南西の角は,大きなドラッグストアが店舗を構えている.その真正面にはいつも,大量の路上駐輪自転車があるのだが,今日はその自転車の群れの中で異彩を放つ,馬がいた.
大きくて茶色い毛並みの,思わず見惚れてしまうような美しい馬だった.馬にはあまり詳しくはないが,雑多に停められた自転車の群れの中にいて,静かにたたずむ姿はなんとも品格を漂わせていた.
ひとまず,軽トラックを停め,馬の方へと歩いて行った.周りには飼い主のような姿も見えず,何故こんなところにいるのか不思議で仕方ない.馬の方は大人しく,近寄ってもこっちを少し確認した程度で,何をするでもなくじっとしている.
「よく調教されてんなぁ」
先輩は馬に詳しいのか,そんなことを言っているが,趣味であるという競馬はあまり勝てていないことは知っている.しかしこの先輩の言葉はどうやら本当で,よく調教された馬であろうことは素人目にもわかった.
そうは言っても,こちらには馬がいたところで関係ない.放置された自転車を荷台に積めるだけ積み込み,軽トラックを走らせ,その場を去った.
「なぁ,あの馬なんやと思う?」
運転中,先輩が急に話しかけてきた.
「いや,分からないですね」
「分からないじゃなくて,考えてーや」
「そうですね,,誰かが放置したとか」
「それは見たら分かるやんか,頭堅いなー」
「すみません」
「誰が,何のために置いたかや.まさか馬捨てようなんて思わんやろしな」
「飼い主は戻ってきてるんですかね」
「そうやなー」
少し会話が途切れたあと,先輩はこれから始まる長い戦いを予告する一言を発した.
「馬って,軽車両とちゃうかったか?」
「確かに,そうですね.道路交通法上は」
その時は僕はそんな答えしかできなかったが,先輩は続けた.
「ほな,自転車と同じ扱いやな」
「回収しろってことちゃうか」
先輩の一言は,最初何を言ってるのか理解できなかった.
「回収って」
捨て犬や捨て猫みたいな要領で捨て馬だとでもいうのか.
まさか軽トラックに馬を積み込めるはずもない.
というか,馬を捨てたかったら専用の業者か役所かがあるだろう.
「ちゃうって」
先輩は,僕の思考を把握しているようで,その上で自説を述べた.
「回収できるもんならしてみろってことや.軽車両やから,自転車と同じように」
「...?」
「俺らに対する挑戦状やな」
「そんなことする人います?」
僕はわざわざそんな挑戦状を送りつけるような人間がいるとは思えなかったが,同時にそんな人間がもし存在するとしたら,犯人はどういう人なのか,その見当もついていた.
「もしそうやとしたら,あいつらしか居れへんな」
交差点の南東の角は,大学に面している.全国的にも名前の通った名門大学であるが,その分変わった人間が多いことでも有名である.馬術部もあり,農学部のもつ農場もあり,馬がいてもおかしくない.
「あいつら,俺らが撤去するから,腹いせに挑戦してきよったんや」
確かに,あの交差点は大学のすぐそばということもあり,撤去する自転車もほとんどが大学生のものだ.
「自転車撤去するんなら,馬も持って帰れよってことやな」
先輩の話は論理が飛躍しがちだ.馬の所有者が大学であることは恐らく間違いないが,そうだとしても我々への挑戦状であるという確証はない.かく言う僕もこの大学の出身である.学歴だけで言えば,先輩は僕よりはずっと低い.しかし,僕は学歴で人を判断するような人間ではない.かつては僕も日本有数の名門大学で学び,社会をリードする人間になるのだと意気込み,真面目に勉強を続けてきた.しかし,それだけでは上手くいかないようだ.僕は結局,学校の勉強が得意だっただけの人間で,自発的に考えて行動できる人間ではなかった.僕は今,ルーティンワークに勤しんでいる.毎日の仕事でも頭を使っていない.ただ目の前の自転車を積み込むだけの仕事だ.社会をリードする人間とは程遠い.こういった事情から,僕は学歴など全く意味がないと考えている.真面目に努力して勉強して,今の無味乾燥な日々なのだから,時間の無駄だったのだ.
大学を卒業して10年程経ったか,僕はその間考えることをしていなかった.努力しても無理なものはあると知り,考えることのない仕事に甘んじた.変化のない日々は楽しくはないが,辛くもないので平気だ.ただ,どこかでこの日々から脱出することを望んでいたのかもしれない.
「次やられたら,ほんまに撤去したろ.頭いいからって舐めよって」
先輩は挑戦に対して苛立っているようにも見えたが,僕の方は不思議と悪い気もせず,
「そうですね」
とだけ返した.