別離
母が言うには、エリザベートお嬢様は私の指を離そうとしなかったらしい。私もお嬢様から離れることを嫌がって、離すのに苦労したと聞いた。
自分がおぼろげに記憶しているのは、お嬢様がよく私の服の裾を掴んでいたことだ。もう少し大きくなると、どこへ行くにも手を握っていた。王太子殿下と婚約される前くらいにはそれもしなくなって、手が寂しいと思ったものだ。
一度だけ、母から念入りにしてはならないと言い聞かせられていたことを破った。あまりにもお嬢様が可愛く、自分も子供だったこともあって我慢できなかったのだ。
お嬢様は、意味もわからずに――――――と呼んでくれた。
ただただうれしくて、抱きしめて、この子は必ず私が守る。どんな願いも叶える。どんな内容かは忘れたが、演劇の台詞を真似てそう言ったはずだ。お嬢様が、任せるに足る人と結ばれるまで、私が騎士になる。子供ながら誓いを立てた。
だから、ウルストラが、あの忌々しい悪魔が憎くて堪らなかった。
「思っていたよりも元気そうですね」
マルガレーテの兄、レオポルトに続いて小屋に入ると三人の男が待っていた。一人の男が椅子にふんぞり返るように座っている。
「ふん、これが元気そうだって? お貴族様の使用人は、布で顔を隠すと目も悪くなるってか」
「それだけ話せるのです。やはり元気としか言えません」
「前に会ったときと違って随分と言ってくれるじゃねえか。……んで、どうしてくれるんだ?」
「カールさん、あなたは依頼を達成していません。こちらに要求をするのは、依頼達成後にされてはいかがです」
カールが拳を振り下ろし、テーブルから衝撃音があがる。
「ふざけるな! 今更、伯爵家にいるウルストラとかいう貴族女に手が出せるわけねぇだろ。ちんけな男爵家にいるのとは訳が違うんだぞ!」
「それをどうにかするのがあなたの仕事です。それに、そのちんけな男爵家の襲撃すら失敗したのでは?」
テーブに振り下ろしたままの拳をカールは震わせる。そして、睨みつける瞳が相対者を脅す。
だが、じっと見つめ返されるだけで効果がない。それがわかると、舌打ちをして目をそらした。
「……いいのか? 俺らは王太子のとこに行ったっていいんだぜ」
良いことを思いついたとばかりに邪な笑みを浮かべるカール。
「そうしたら全部しゃべってやる。あんたの主人が何をしたのかを、な」
カールは、さも自分が優位者だと言うように腕を広げる。
「ご主人様が恋敵を始末したがっている。それもできるだけみじめに。そう言って俺を頼ってきたのはお前だ」
「なるほど。それで、私たちにどうしろと?」
「ようやく自分の立場がわかったみたいだな。まずは俺達の安全だ」
カールが指を一本立てる。
「ウィケッド公爵に関する領地なら殿下も手が出せないでしょう」
「それでいい。じゃあ、次は金だ。前に約束した金の十倍だ」
二本目の指が立てられる。
「随分と欲張りますね」
「当然だ。王太子が関わってるなんて知っていたら、あんな金じゃやらなかったんだからな」
「まあ、いいでしょう。お金は言い値でかまいません」
「話がわかるじゃねえか」
そして、勿体つけるようにカールが三本目の指を立てる。
「最後は、俺を貴族にすることだ」
「馬鹿を言うな。貴様のようなやつが貴族だと」
今まで静観していたレオポルトが声を上げた。
「俺だって爺さんの代まで貴族だったんだぜ。血統が悪いことはあるまいよ」
「この、犯罪者風情が……」
「あん? なんだと、てめぇ」
カールが立ち上がり、その配下二人も武器に手を伸ばす。レオポルトは、いつでも剣を抜けるように構える。
「レオポルト様、ここは私が対応することをお嬢様がお望みです」
「ヘレーネよ、貴族でないお前にはわからんのだ」
「レオポルト様。お嬢様が、決められたことです」
悔しげに構えを解くレオポルト。それを見届けたカールとその配下も武器を置いた。
「それで、要求は以上ですか?」
「ああ、そうだ。まあ、とりあえずはな」
「わかりました」
カールが満足そうに笑みを浮かべ、配下たちは肩を叩きあう。それをレオポルトが苛立たしげに睨みつける。
「では、依頼通りにウルストラを仕留められたら、要求どおりにしましょう」
ついと、付け足された言葉に、カールもレオポルトも目を丸くする。ややあってカールが理解すると、顔を真っ赤にさせる。
「てめえ、俺たちをおちょくってるのか。ああ、いいぜ。お望み通りに王太子のところに行ってやる。それでお前たちのご主人様はお終いだ」
「どうあっても依頼は実行しない、ということですか。残念です」
残念と口にしながら、まったく残念には聞こえない。むしろ、それを望んでいたと言わんばかりの口調であった。
ここにきて、初めてカールは女の目つきに覚えがないことに気がつく。
「お、お前、本当に前と同じ女なのか?」
「ええ、勿論です。さて、レオポルト様。お待たせしました。交渉は決裂ですので、あとは予定通りに」
「ああ、任せておけ」
レオポルトが剣の鞘で床を突く。衝撃音に、カールたちの肩が跳ねる。
「な、なんだと。なんだよ、予定通りってのは」
カールが傍らの武器を取ろうとする。しかし、それより前に、カールたちの背後の壁から破砕音が鳴り響いた。カールたちが驚きで振り返ると、もう一度破砕音がくる。すると、丸太が壁から生えるように飛び出し、大きな穴が開いていた。
「は、破城槌だと! 見張りは何をしていた!?」
狼狽えるカールとその配下たち。それに、レオポルトが背後から襲いかかり、配下の一人が殴り倒した。
「てめえ! 一人で何ができる!」
カールともう一人がレオポルトに向き直り、武器を構える。だが、さらにその背後の、破城槌によって開けられた穴から兵士が突入してくる。
「くそ! 寄るな、触るんじゃねぇ!!」
カールが最後まで抵抗するが、多勢に無勢、あっという間に縄で縛り上げられた。口にも縄が巻かれて、自害することも出来ない。何とか声を発しようとするが、兵士たちに殴られて、すぐにそれも止んだ。
「ヘレーネ、一時は奴の要求を呑むのではないかと冷や冷やしたぞ」
「まさか。芸も出来ない動物に、ご褒美はあげられませんわ」
「なるほど、道理だ」
「あとのことはお嬢様の指示通りにお願いします。何人かは使い潰しても結構です。しかし、カールともう一人二人は、使い物になるようにしておくように、と」
「薬を使わずに、だな。わかっている。あのような野犬と我らは違う」
「存じています。では、私は一足先に戻らせていただきますね」
「わかった。おい、何人かでヘレーネを送ってやれ。くれぐれも見つかるなよ」
兵士たちに指示を出すレオポルト。その目の前を通りすぎる髪を自然と目で追ってしまう。薄暗くはあったが、丸くまとめられた髪が妙に美しく見えた。結婚相手がいると聞いており、惜しいことをしたと内心で思うのだった。
痛い。熱い。早く。
ただひたすら、それらを考えて意識を保ち続けていた。何度も眠りそうになってしまうのを、どうにか耐えてきたが限界であった。
ふと見ると、寝間着が赤黒くなってしまっている。
汚れてしまった。怒られてしまうだろうか。せっかくお化粧もしたのに。
そんな場違いなことを考えていると、部屋のドアが開けられ、灯りを持った人が入ってくる。
「待たせてしまったわね。大丈夫だった? ヘレー、ね?」
ああ、エリザベートお嬢様。やっとお帰りになったんですね。
「ヘレーネ、生きているの? しっかりしなさい」
「お、じょうさま。きが、えを」
痛みを我慢して、待っていたのだから。早く着替えてほしい。
「着替え? まさか、私を待っていたの? なんて馬鹿なことを……」
私と同じ服を身にまとったお嬢様。その姿を見たら、もしかしたらなんて思ってしまう。
エリザベートは乱暴に、まとめていた髪をほどき、侍女服を脱ぎ捨てる。そして、用意してあった寝間着に着替えた。
「かー、るは、いかが、でし、た?」
「そんなことはどうでもいい。いま助けを呼ぶわ。死んだら許さないわよ」
私の頬に触れるお嬢様。震えているのがわかる。
「誰か! 誰か来て!! 早く!」
エリザベートが助けを呼ぶ。ヘレーネも聞いたことがない大きな声だ。
「おね、がい、おねがいが……」
「おねがい? 願い事? なに、なんでも言いなさい」
床を踏み鳴らす振動音が、床から伝わってくる。
急がないと。来る前じゃないと。母に怒られてしまう。
ヘレーネは、赤く濡れた手を伸ばそうとする。エリザベートが、その手を両の手で包んだ。
「も……ど…………でく……せ……」
ヘレーネの口が動くが、聞き取ることができない。まぶたもゆっくり落ちていく。
「ヘレーネ!」
お願い、もう一度――。
もう一度呼んでくれませんか。
お姉ちゃんって。
エリザベート・ウィケッドの存命中、ある劇が上演される。エリザベートを揶揄する内容ではないかという意見が広まり、興行を止めるべしという声が挙がった。
しかし、エリザベート自らが劇場に出向き、劇を観覧、その興行を自ら保護するという宣言を出した。こうして、その演劇は教訓とともに多くの人に楽しまれたという。
残念ながら、演劇の内容が伝わることはなかった。ただ、悪魔の力を借りた魔女が、次々に権力者を虜にしていく、という断片的な記録が残っているにすぎず、長らく歴史の闇に葬られた。興行主にして台本作家が、エリザベートの観覧数日後に川へ転落死していることから、エリザベートは人気取りで劇を保護したが後世に残すことを許さなかったという見解を出す者までいる。
ところが、ある調査によって演劇の内容が判明した。
エリザベートに縁のある大聖堂の地下室に、彼女の棺が安置されている。その棺の近くに、誰のものかわからない棺があり、教会関係者や学者からは最愛の妹ヴィルマの棺だと信じられていた。
後に災害によって大聖堂が損壊。地下室にも被害が出た。修復のためにヴィルマの棺が移動されることになり、その際に教会立ち会いのもとに開封、調査される。
事前の予想は外れ、中に遺体はなく、ただ布にくるまれた二冊の冊子と櫛が収められていた。冊子は演劇の台本とその草稿と思われる。そのため、中を空にして棺だけが戻されることになった。
だが、包んでいた布に「我が姉ヘレーネ」と記されていたことで急転する。全てを棺に戻すことを教会が決定、その通りになされた。
冊子については字が模写されたことで、『悪魔』という題名であり、内容からエリザベートが保護した劇の台本だと判明した。だが、エリザベートが書いたと考えられる「我が姉ヘレーネ」以降の文章は、掠れてしまって模写できず、エリザベートに姉がいたという新事実のみしかわかっていない。
大聖堂は、再調査を今なお拒み続けている。