父親
ビンゲン男爵が、ヨハンナとレオポルトの兄妹に監視されながら入室してくる。
実の娘が奪った男の元婚約者に、父親が会いに行くというのはどういう心境なのだろうか。聞きたくもあったが、一人で乗り込んできた勇気を称してここは堪えておこう。
「貴重なお時間を頂戴し、ありがとうございます」
頭を下げるビンゲン男爵に軽くうなずいて応える。
ヨハンナが男爵をエリザベートの向かいの席に誘導する。考えていたよりもエリザベートの近くだからか、一瞬躊躇するも、その後は淀みなく席についた。
男爵のすぐ後ろではレオポルトが睨みをきかせ、ヨハンナはエリザベートと男爵の間にすぐ入れる位置に立つ。
「男爵、今日はどうしたのかしら? 代行と言えども、わたくしの時間を欲しがる貴族は多い。正直に言って、エイチンク一族のあなたに会う時間は勿体無いのよ」
「では却下されれば良かっただけの話です。そう申し添えてありましたが、お聞きになっていないのでしょうか」
「勿論聞いた。でも我がウィケッドは、会いたいと来ている者を追い返すほど狭量ではないの。どこかの……婚約者を奪うような女を育てた家と違って」
「なるほど。では、寛容なるエリザベート様は、我らのようなせせこましい家にとって十分な時間を取ってくださっているということなのですね」
この男……手強い。
立場的には圧倒的にエリザベートに分があるというのに、ビンゲン男爵は一歩も譲ろうともしない。こちらの言葉を逆手に取って、目的を達成するための時間を確保した。要求を受け入れるかはともかく、ビンゲン家の要求の途中で面会を打ち切るには外聞が悪くなってしまった。
「そうね。しかし、男爵と無駄話をして過ごすつもりはない。時間を浪費させるというのなら、相応の覚悟をするように忠告するわ」
軽く指を突きつけると、ビンゲン男爵は黙って頭を軽く下げる。
時間をかけるつもりはないということか。さあ、何をいってくるのかしら。
「エリザベート様に取引のお願いがございます」
「随分と図々しい。ウィケッド家とビンゲン家がどういう関係かを思い出しては如何かしら?」
「両家の関係など、問題ではありません。取引は対等の立場でするもの。あとは、応じるか否かしかありますまい」
強気に攻めて来るわね。木端役人でしかなかった男爵が、ここまでやるなんて……。
男爵が強気に出られる理由がわからない。部屋に入ってくるまでは、平身低頭して助命を願い出てくるか、死を覚悟して一矢報いるのかと考えていた。男爵はどちらでもなく、娘のことすら謝罪せずに取引を持ちかけてくる。
「取引とは、望むものを差し出せなければ成立しない。失礼だけれども、わたくしの望むものをそちらが用意できるとは思えないわ」
「それは聞いてみないことには。エリザベート様はビンゲンに何を求められますか?」
「我らウィケッドは、ウルストラに人生の大半をかけたものを台無しにされてしまった。だからウルストラにも、これまで積み重ねたもの全部、取り立てさせてもらう。それが、平等というものでしょう? 求めることはただ一つ、ウルストラの全てよ」
血気に逸った何人かが、ウルストラを殺そうともしている。しかし、そんなことは許しはしない。まだまだウルストラからは、負債を取り立てなくてはいけないのだから。
「でも今、ウルストラはエイチンク伯爵家の義娘。だから、もうウルストラに関わる気がないのなら、ビンゲン男爵家には何も求めない」
ビンゲン男爵家に求めるものはウルストラの全てだが、代物はエイチンク伯爵家が持っている。何もしないのなら見逃してやるということ。
取り立てに邪魔な障害はもう取り除いたのだから、これ以上出てこられてもうっとうしいだけだ。それに、実家にも見捨てられたとなれば、ウルストラはますます後がなくなる。
家の存続を願うのなら娘を差し出せばいい。大半の貴族家ならそうするのだから、何も恥ずべきことではない。
「なるほど。仰る通り、確かに当家では用意できません」
「そ。では、話は終わりね」
男爵の態度から、何かあるかも不気味ではあったが、どうということではなかった。ビンゲン家に手出しをしないと言えば、あっさりしたものだ。
「いいえ。こちらにはエリザベート様に求める物がございます」
終わったと立ち上がろうとしたところで、ビンゲン男爵がそれを制止する。
男爵が、まっすぐ、小動もせずに見つめてくる。エリザベートは浮かしかけた腰を椅子におろした。
「ビンゲン家が求めることは……これ以上ウルストラに手出しはするな。ただ、それだけでございます」
「……本気なのかしら、男爵? それとも、わたくしがさっき言ったことを理解できていなかったの?」
「勿論、本気ですし、先程のことは理解できております」
できることならもう話を打ち切りたかった。だが、最初のやり取りがある限り、話の途中で帰らされたとうるさく触れ回りかねない。
エリザベートは足を組み替え、椅子の肘掛けに頬杖をついた。
「男爵が求める商品は持っているわ。だけど、売る気はない」
「……こちらの用意する対価が…………新王朝の平穏、と言ってもですかな?」
シュパニエン兄妹の気配が変わった。ヨハンナが少しエリザベートに近づき、レオポルトは剣に手をかけようとしている。
「それは面白い商品を持っていること……。ぜひとも欲しいけれども、あなたから買わなくても、別にいいわよね?」
「これは私にしか用意できません。なにせ、エイチンク一族積年の陰謀なのですから」
はったりにしても大きく出て来るわ。でも、そんな陰謀なんて、誰が信じるというの。
「怪しげな話は多く聞かされたけれども、あなたのは飛び切りよ。残念だわ、男爵。そんな無駄話に、付き合うつもりはないの。レオポルト、お客様はお帰りになるそうよ」
「エイチンクは王家への介入を、王国に帰属して以来ずっと狙っていました」
ビンゲン男爵を掴み上げようとしたレオポルトの手が止まる。そして、どうするのかと視線で問うてくるので、少しうなずいて手をおさめさせた。
ウルストラとアーネスト・クラインの許嫁の話を聞いたとき、ビンゲン家が王家への介入を狙っていると疑ったのを思い出したのだ。証拠もなく、ヘレーネの言う通りに偶然だろうと捨て置いていた。
「興味が湧いたわ。詳しく話を聞きましょう」
「無論、エイチンクの全員が知っていることではありません。エイチンクに関わる一部当主たちが、知っていることでございます」
「具体的に、どうやって王家への介入をしようとしていたの?」
「最終的にはエイチンクから王を出すこと。そのために、三つの方法が取られました。一つは、何代もかけて家格を上げていき、王妃を輩出できるだけの力を身につけること」
実にまっとうな手段とも言える。叶うかどうかはともかくとして、貴族家なら夢見ることだ。
「そして二つ目は、王妃を出しても不思議ではない家にエイチンクが正妻を送りこみ、子供を産ませる。女なら王妃になれるかもしれない。そうすれば、一族として政治に参画でき、家格が上がる。また、それほどの家なら、産まれたのが男でも王家に側近として取り上げられることもある。どちらでも、王家に近づいていける上に、一気に王へ手が伸びる可能性が出てくる」
ヨハンナとレオポルトが気味が悪いとでも言いたげに、顔をしかめている。偶然そうなることはあるが、狙っていたとなると恐ろしい執念だ。
「最後の三つ目は、我が家とクライン家のように、王位継承権を持つ家とエイチンクが結婚で結びつくこと。そうすれば、何かの拍子で王位が転がり込むということです」
「馬鹿げた陰謀ね。時間がかかり過ぎる上に、迂遠すぎるわ」
「その通り、馬鹿げた陰謀です。隠蔽を施し、エイチンクの関係者を各家に送り込む。むろん、送り込まれる本人は陰謀を知らないことがほとんどです。また、婚姻にたどりつけなかった縁談もたくさんあるでしょう」
ビンゲン男爵が一度言葉を切る。
「しかし、一部の者達がそれを本気で信じ、何代にも渡って実行に移してきました。事実、ウルストラは知らなかったこととは言え、エイチンクの宿願を叶えることに図らずも成功したのです」
これには沈黙するしかなかった。神の悪戯か、叶うはずのない陰謀が、実現しかかったのだ。それを思うと薄ら寒いものを感じる。
「でももうこれでお終いよ。エイチンクの主だったものたちは捕らえられ、裁きを待つのみ。すでに夢物語で終わったわ」
「エイチンクに関わる一部の当主、とお伝えしました。陰謀を信じる者が、今まだエイチンクの一族一門とは限りません。まったく別の家名を名乗り、別の一門に収まっている者もいるのですよ。そうした者たちを、ウィケッド家が探し出すのは不可能です」
「そんなの、紋章院に徹底的に調べさせれば……」
ある考えが浮かび、脳裏に警鐘が鳴り響く。
「まさか……紋章院に仲間がいるの?」
「系図を改ざんし、エイチンクに加担する人物がいます。エイチンクが滅びたところで、残った彼らが、夢よもう一度と陰謀を巡らしていくでしょう。なにせ、うまくいきかけたのですから」
怪しげな家系図を持ち込んできた貴族と同じように、真実ではないと切って捨てることは簡単だ。
だが、捨てたとは言え自らが思いついた推測の答えが目の前にある。それに、その陰謀はウルストラによって成功しかけた。
紋章院を調査し、系図などの改ざんを修正しようにも何十年とかかるだろう。その間に、陰謀を企む連中は別の皮を被ってわからなくなる。
「祝福されし新王朝の中に、おぞましい鼠が入り込むことになる。長い時間をかけて、王朝を食い荒らしていくでしょう。しかし私は、そういう隠れた鼠たちの居所を全て知っています」
手塩にかけて作り上げようとしている王朝に、不純物が入り込みつつある。それは、許されることではなかった。
「なるほど。だから対価が、新王朝の平穏ということね。……男爵も、陰謀の加担者だったでしょうに。娘を切り捨てられず、暴露するというわけ?」
「私はついていけませんでした。だから、芽の出るはずのない、テオフィル様のいたクライン家のアーネストにウルストラを縁付かせた。そのまま、エイチンクから離れていくはずだったのです。そうした人物は、過去に幾人もいましたので……」
エイチンクから離れるはずが、その宿願を叶えることになった。皮肉としか言いようがない。
「……あなたの言うエイチンクの陰謀には証拠がない。ただの妄想と言っても過言ではないと、理解している?」
「その通りです。信じるかどうかは、エリザベート様次第になります」
動じることなく、エリザベートから視線をそらさないビンゲン男爵。嘘を言っているようには見えない。または嘘を本気で信じ込んでいる。
「ウルストラに手出しはするな、ということだけれども、私から何が欲しいの?」
「エリザベート様! こんな――」
ヨハンナが声を上げるが、片手を少し上げて黙らせる。
「ウルストラとエイチンクの養子の解消。そして、ウルストラに干渉しないというエリザベート様の正式な文書を」
「養子の解消までつけるなんて、欲張りね」
エイチンクを罰することでウルストラに何らかの危害を加えることも止められることになる。しかも、それを文書にするということは、反故が難しくなる。
「……良いでしょう。すぐに用意する。文書と引き換えに、壮大な陰謀に加担している輩の名前を教えてくれるのかしら?」
「ウルストラが我が家に帰ってくれば、紙に書いてお渡しします」
「だいぶそちらに有利だけれど、負けておいてあげましょう」
男爵が頭を下げる。ようやく、表情にも感情が出てきていた。安堵で椅子にもたれかかっている。
エリザベートはヨハンナに命じて、文書を代筆させた。そして、書き上がったものを男爵に見せた上で、エリザベートが署名をする。
「明後日にはウルストラはビンゲン男爵家に帰れるようにする。ちゃんと名前を準備しておくことね。代価だけをとって商品を出さない取引は、許されない」
「取引を持ちかけたのはこちらですので、心得ております」
「レオポルト、男爵を家まで送って差し上げなさい」
これだけで、レオポルトならビンゲン家の監視を徹底してくれるだろう。
レオポルトがビンゲン男爵を連れ出していく。だが、ドアのところで、男爵が振り返り、深々と頭を下げた。
「娘が、ご迷惑をおかけしました。申し訳ありません」
ただ一言だけの謝罪。いまさら遅いと怒るべきか、判断に迷う。いつまでも頭を下げるのを見ていても、考えつかない。だから、ふと思った疑問を口にする。
「ウルストラが戻ったら、ビンゲン家はどうするのかしら?」
「準備ができれば爵位を返上し、伝手を頼りに国を出るつもりでいます」
「そう……どの国?」
「ウィケッド家のいない国へ」
エリザベートは軽く微笑むと、レオポルトに手を振って頭を下げたままの男爵を連れて行かせた。
「あのような話をお信じになられたのですか?」
「まさか。よくて話半分よ」
だが、捨てておけないと判断したのも事実だった。
ヨハンナがため息を漏らし、頭を振る。
「それでも、エリザベート様が動かされた。ビンゲン男爵もなかなか弁が立ちます。殿下……ラディスラウム様の近くにいては、些か面倒だったでしょうね」
「いいえ。仮にラディスラウム様の近くにいたほうが、問題はなかったわ。男爵はずっと機会を窺っていた」
ヨハンナが訳がわからないと首を傾げる。
「もしものために、備えていたのよ。倒れて、泥にまみれ、死んだふりをしてね。私がもう安全だと、物陰から出てくるのを、油断して横を通り過ぎるのをじっと息を潜めて待っていた」
「なるほど。では、どうしますか? このままおめおめとお下がりに?」
「ええ。私もまだまだだわ。獲物を前にして刃を研いでしまっていた。その間に、獲物は親の巣穴に匿われた。手を入れれば、噛みつかれてしまう」
もはやウルストラに手は出せない。あの男爵のことだ、何か用意をしているだろう。今外聞も捨ててビンゲン家を攻撃するには、守るものが多すぎる。
「承知しました。皆に決して手を出さないように伝達しておきます」
「そうして頂戴。マリーの仕事が予想外にうまくいったのだし、ウルストラのことはこれで満足しておくわ」
ビンゲン男爵家には、煮え湯を飲まされてばかりだが、仕方がない。
「後の予定も取り消しておいて。これから、王宮でお父様とエイチンクのことを相談する」
「かしこまりました。すぐにご用意します」
その後、エイチンクに関与したとしてさらに複数の貴族家が捕縛された。また、新王朝に際して系図に間違いがないか調査されることになり、その調査は数十年の長きに渡って続けられることになる。




