古巣
「ちょうどよかったわ、ウルストラ! こっちに来て頂戴」
持ち場の仕事を終えて戻ってきたら、上役から声をかけられた。
「どうかしましたか?」
「これを殿下のところに届けてほしいのよ」
上役は持っている盆を少し持ち上げる。盆の上には、飲み物二つと切り分けられた果物。
「えっと、私でいいんですか?」
盆を受け取りつつ首を傾げる。
ラディスラウム殿下の周囲には、王妃様の一族からきた侍女がおり、上役もその一人だ。そうした侍女が対応できないときは、ウィケッド公爵の一族から派遣された者がいる。自分のような、後から来た外様に殿下関係の仕事は回ってきたことがない。
「ええ、大丈夫よ。あなたは真面目に仕事をしているもの。それに、この前持ってきてくれたお花を殿下の執務室に飾ったら、すごく褒めていらしたわ。だから、これを機会にしっかり許嫁を売り込んできなさい」
売り込みについては、こっそり耳打ちされた。贔屓や足の引っ張り合いが起きないように、上役以外は誰が許嫁なりがいるのかも聞いていない。いくつかの派閥から人が集まっているときの不文律だ。
上役の心遣いが嬉しかった。だが、クライン家で育てた花を殿下が褒めてくださったというのはそれ以上に嬉しい。
自分と同じ立場の同僚たちに羨望の目で見られつつ、浮かれながら殿下の部屋に向かう。ドアの近くに護衛の騎士がいるので、簡単に事情を説明する。いくつかの質問に身を固くして答えると、微笑ましく通してくれた。
早鐘を打つ胸を、ドアの前で落ち着かせてからノックする。初めてのことなので、少し待ってからゆっくりとドアを開けた。
「失礼いたします。飲み物をお持ちしました」
声をかけるが、返事はない。不思議に思い、部屋を見渡すと椅子にもたれかかって眠っている殿下とウィリアムの二人。あどけない寝顔に思わず笑ってしまった。
盆をテーブルに置き、飲み物と果物を並べる。そうしてから、執務机の殿下を揺する。
「殿下、起きて下さい」
「ん、んあ。ああ、すまないウィル。寝てしまっていたか……」
ラディスラウムは目をこすり、伸びをする。そこでようやく、起こしたのがウィリアムでないことに気がつく。
「……ウルストラか。どうして、君が?」
「殿下に飲み物をお持ちしました。ご休憩なさって下さい」
テーブルを示すと、殿下が嬉しそうに笑う。
「ありがとう。そうだ、ウルストラもここで休んでいくと良い」
「え? でも……」
誘いはうれしかったが、そんなことをしても良いのかと思ってしまう。
「私が言うのだから構わない。ウィリアムは寝かせておいて、君はそれを」
殿下がさっさと果物を口に含む。ウルストラもおずおずと椅子に座り、ウィリアムに持ってきた飲み物を手に取った。
それがきっかけで、殿下の休憩時にご相伴に与るようになる。政務の苦労話を聞き、聞かれた他愛もない話題で盛り上がっていくにつれて、殿下の為人に惹かれていった。アーネストやエリザベートのことは、どうしてか話題にものぼらなかった。
馬車で揺られていると、見覚えのある家々が見えてきた。まだ一年も経っていないのに、ひどく懐かしいと思ってしまう。
ウルストラは嬉しくなり、御者にゆっくり進むよう伝える。
少しゆっくり流れるようになった景色を眺めていると、次々と思い出が湧き上がってきた。悲しい思い出もあるが、楽しかったことのほうが多い。幼い頃の日々を思い起こすと、最近の辛かった日常が幾分か和らいでいくように思えた。
エリザベートから言われたことが頭から離れない。
どこにいても、見られているのではないか、話を聞かれているのではないか、それらを誰かと話して嘲笑っているのではないか。そんなことを考えてしまっている。
エリザベートと会った後の祝宴では散々であった。固くなってしまい、笑顔もぎこちなかったと言われた。ラディスラウムに相談しても、視線があることは彼にとっては当然のことで、何が問題なのかわかってもらえない。養父母には、上に立つ者として自覚が出てきた証拠で、教育にも身が入るだろうと、むしろ喜ばれてしまった。
しかし、屋敷内のことが外に漏れていたことは大問題なので、調査をしてくれている。幸いなことに、屋敷内の者がウィケッド派と結びついているものはいなかったらしい。今は、誰に何を話したかを調べているとのことだ。
とりあえず一安心ではあるが、人に見られていると思うとどうしても気になってしまう。笑い声が聞こえただけで振り返ってしまい、談笑していた人たちを驚かせてしまったこともあった。
失敗が続き、そのために余計に人の目が気になるという連鎖が続いている。
心配したラディスラウムがわざわざ屋敷まで来てくれて、婚約者として初めて公式の場に出たために神経質になっているのだろうと言われた。そして、何か気晴らしを勧められる。
だから、義父に許可をもらって両親に会いに行くことにする。護衛をつけられるところだったが、日中の貴族街のみなのでそれは許してもらった。ドワルドの反乱が終息した後、布告によって対立を煽る過剰な守衛の設置は禁じられたので、貴族街も以前の雰囲気に戻ったおかげだろう。
それに、王都での見回りをエイチンクの一族が現在引き受けている。道中、騎士や兵士を幾度か見かけたから、注意されているのだろう。それくらいなら、まだ我慢できた。
さらには他家の家に入ることもない御者のみにし、侍女も連れて行かない。これで、家族水入らずで過ごすことができる。
よく承知してもらえたと自分でも思うが、仕切り直すには良い機会だ。
やがて住み慣れた一角までくると、鮮明に思い出が溢れてくる。
そういえば、テオフィル様のお墓にしばらく行ってないな。
元許嫁アーネストの祖父テオフィルにはよく可愛がってもらったし、多くのことを教わった。実家に行く前にお墓参りするのもいいだろう。
「お花は……アーネストのとこのじゃないといけないよね、やっぱり」
許嫁解消は、ラディスラウムが両親や相手のクライン家に申し入れてくれた。自分も精一杯頭をさげて、アーネストとその両親に許しを請うた。アーネストの両親は、仕方がないと応じてくれて、アーネストは震えていた。両親に促されて、ただうなずいただけで、一言もしゃべらなかった。
アーネストにはとても会えるとは思っていないし、クライン家に行っても良い顔をされないことはわかっている。しかし、テオフィルの墓に参るにはやっぱりクライン家で育てた花しか思いつかない。
今ならアーネストもおじさんと一緒に王宮だろうから、大丈夫だよね。
アーネストの母親に花を少し分けてもらってテオフィルの墓参りをすることに決める。
御者に行き先を指示すると、寄り道することに難色を示したが、どうにか行ってもらえることになった。
クライン家の前まで来ると、愕然としてしまった。
塀を彩っていた花や草が踏み荒らされ、花壇の一部も壊れて土がこぼれてしまっている。
「そんな……どうして……?」
それ以上言葉が出なかった。小さい頃からこつこつと作っていた物が、自分が知らないうちに壊されている。胸がつぶれてしまいそうであった。
「あら? お客様でしょうか?」
屋敷から、クライン家で見たことがない若い女性が出てくる。汚れてもいいような服装をしているが、使用人には見えない。
「あ、あの……」
ウルストラが何と言おうか迷っていると、笑顔の女性が急に顔つきを変えた。
「あなた、ウルストラ・ビンゲン? どうして、ここに……?」
「はい、今はビンゲンではなくエイチンクですが……」
名前を呼ばれたことで、覚えていないだけで知っている女性かと、よく顔を観察する。すぐには出てこなかったが、確かに見覚えがある気がする。
「信じられない。もーどうして今さらあなたがクライン家に来るのよ」
困ったという表情で頭を抱える女性。
やっぱりここがクライン家だよね。じゃあ、この女性は?
「あなたはどなたでしょうか? クライン家の方じゃないですよね」
「はぁ。何度か会ったけど、顔しか見たことないから覚えてるわけないか」
女性が姿勢を正し、ウルストラに向かい合う。
「失礼いたしました。私はマルガレーテ・シュパニエン。以後お見知りおきくださいませ」
「シュパニエン?」
シュパニエンは祝勝会で会ったレオポルトの家名だ。つまりは、ウィケッド公爵家に連なる人物。そこまで考えたとき、マルガレーテと名乗った女性と記憶が結びついた。
「あ! いつもエリザベートの後ろにいた!」
「はい。エリザベート様の侍女として、お会いいたしました。今は職を退き、クライン家の主であるアーネスト様の婚約者として、ここクライン邸で暮らしております」
「アーネストの婚約者……」
もはやどうなっているのかわからなかった。アーネストがクライン家の主で、婚約者もいる。しかも、その婚約者がエリザベートの侍女を務めていたマルガレーテ。自分が物語のように、違う世界に紛れ込んでしまったような気さえする。
「どうやら戸惑っておられるようですね。どうぞ、お入りください。邸内はお客様をお迎えする状態ではありませんが、庭は片付いておりますので」
マルガレーテがさっさと庭の方へ向かってしまう。ウルストラは入るべきか悩んだが、結局ついていくことにした。
庭までの道も所々荒れてしまっている。自分が植えたはずの花がなかったりして、悲しかった。
マルガレーテに続いて庭に足を踏み入れると、驚きに立ち尽くすしかなかった。
みんなで一緒に作ったいくつもの花壇に、花の一輪もなく、草も生えていなかった。土の茶色があるだけの光景に、言葉が出なかった。
「お座りください。飲み物もすぐに運ばせますので」
見たこともない白い丸テーブルと椅子。ウルストラは力なく椅子に座る。
「何が……あったんですか?」
「その前に、もう身分関係なくお話ししてもよろしいでしょうか? ウルストラ様も、そのほうが気が楽でございましょう?」
マルガレーテの言う通り、そうできたら楽だろう。しかし、そんなことをしたと知られては恥をかくかもしれない。
迷っているウルストラに、マルガレーテは安心させるように笑いかけた。
「大丈夫です。ここでのことは絶対に漏らしません。侍女にもきつく言いつけておきますので」
「……それなら」
不安であったが、今は話を聞きたかった。
「ありがと。じゃあ、何から聞きたい?」
「庭、ううん、色んなところが荒れてしまっているけれど、何があったの?」
「ああ、それからか。屋敷が荒れてるのはドワルドの反乱が原因よ。ここの近くに子爵家があったでしょ?」
同年代の子がいなくて親しくはなかったが、確かに子爵家はある。
ウルストラは黙ってうなずく。
「あそこがドワルドに同調したものだから、王宮での反乱後にこの辺でも戦いに。それで、塀の周辺はボロボロ。しかも無関係だけど同じ中立派ってことで、エイチンクの騎士たちにここも荒らされてしまった」
「エイチンクに!?」
「そうよ。まあ、逃げ込んだ兵士なりがいないか家探しされた程度だけど。それでも家中の調度品は壊されるし、庭はめちゃくちゃ。駆けつけてきたときは私も目を疑ったわ」
「そんなことがあったなんて……」
全然知らなかった。それも、自分がいるエイチンクの騎士が関わっているなんて、想像もできない。
「クライン家のみんなはどうなったの? 無事なんでしょ?」
「お義母様はまあ、だいぶまいっていらしたけれど、怪我もないわ。でも、止めようとした使用人夫婦は突き飛ばされて怪我をした。ああ、ひどくはないから大丈夫よ」
「なんてことを……」
使用人夫妻も当然昔からよく知っている。かなりの年齢で、もうそろそろ引退しようかという話があった。そんな人たちを、エイチンクの誰かが傷つけた。
ウルストラはテーブルに肘をつき、手で顔を覆った。いっそのこと泣いてしまいたい。
マルガレーテが待っていてくれるように何も言わなかった。それをありがたく思う。立て続けに言われたら耐えられそうになかった。
少し落ち着いたところで、テーブルから小さな音がした。それにつられて顔を覆っていた手を下ろす。
テーブルには木の杯が置かれ、そばには若い侍女が立っていた。
「もう下がっていていいわ。それと、今日はお客様は来ていない。いいわね?」
「かしこまりました。では、塀の周りを片付けてまいります。何かあればお申し付けください」
丁寧なお辞儀をし、侍女は外に向かう。
ウルストラは自分の杯を手に取る。二人はおそらく知らないだろうが、自分がクライン家で使っていた物だ。マルガレーテの分も同型の物だが、長年使い込んでいるので自分の物だとわかる。残っている物もあって気持ちが落ち着いた。
飲み物に口をつけると、子供の頃から慣れ親しんだ味がする。アーネストの母が作っている果実漬けを薄めた物。作り方は、自分がクライン家に嫁いだら教えてくれる約束だった。もう教えてもらえないし、自分で果実漬けを作ることもないと思うと少し寂しくなる。
「それで……アーネストたちは?」
「アーネスト様とお義父様は反乱のときには王宮にいたわ。アーネスト様に怪我はなかったけれど、お義父様は戦いに巻き込まれて腕を骨折。その程度で済んだのは、親子揃って閑職に回されていたからだなんて、嘘みたいな話よ」
骨折は心配だったが、口調からして大丈夫なのだろう。気になったのは、閑職に回されていたことだ。クラインは男爵家の中でも小身であるが、王家にも信用されていた家柄。重要な仕事までは無理だが、それなりの役職についていたはずだ。
「二人で帰ってきたときは本当に安心したわ。帰ってくるまでお義母様といっしょに――」
「ねえ、アーネストたちは、どうして閑職に? 前はちゃんと役職についていたよね。それが……」
「え? あなたのせいに決まっているじゃない。いや、戦いに巻き込まれなかったからおかげになるのかな?」
私のせい? 円満な別れではなかったが、悪いのはこちらだ。なのに、アーネストから仕事を奪った?
「もしかして、ラディスラウム殿下が……?」
「それはない。殿下なら婚約者の元許嫁相手だからって、そんな陰湿なことしないわ。まあでも、殿下に近しい誰かが、アーネスト様の存在を知って気を利かせたつもりなんでしょ」
ラディスラウムが直接関わったのではないことに安心する。けれども、自分たちが原因でさらにクライン家に迷惑をかけていたことが衝撃だった。
「まあ、それはともかく、怪我をするし家も荒らされて、お義父様もお義母様も気が滅入ってしまった。とても見ていられなかったわ。だから当主様、ああウィケッド公爵にお願いして領地にある保養地に招待して貰ったの。道中の護衛や向こうでの付き添いなんかも用意してくれて、もう至れり尽くせり。ちょっと前に手紙が届いたけれど、だいぶ元気になられたみたい」
「ウィケッド公爵が?」
「当主様は気前がいいから。そりゃあ厳しくもあるけれど、お祝いや困っているときなんかにはすごく親身になってくれる。このテーブルと椅子も、婚約祝だってわざわざ届けてくださったのよ」
道理で見たことがなかったはずだ。作りも上等だし、男爵家には不釣り合いな代物だった。でも、前の彩られた庭にはよく合っていただろう。
ウルストラにとってウィケッド公爵は、エリザベートのことや政治のことでラディスラウムを困らせているのもあって、敵としか考えていなかった。そんな人物に、優しい一面があるなんて意外に思う。
「保養地に向かわれるときに、お義父様は引退されてクライン家の当主はアーネスト様に。使用人もいなくて一人だと心配だったから、私も婚前だけどここで暮らすことになったわ。さっきの侍女は実家から連れてきた子よ。ああ、部屋はあそこ」
マルガレーテに指差された部屋は、自分がクライン家で使っていた部屋だ。許嫁解消の折に私物は持ち出したが、思い出深い調度品が揃っている。
あの部屋が、この人の物に……。
自分にはもう権利もないのに、嫌だと思ってしまう。どうしようもない衝動を封じるために、そっと胸を手でおさえた。