3 PTSD
3 PTSD
「う~ん、PTSDの症状も見られますし、解離性同一性障害の傾向も見られます。そして、いくつかの記憶障害も」
想の症状を告げたのは精神科の担当医であった。尚道はハーバード大学医学部を卒業し、医学大学院に進級した伝手によってこの病院の院長と知り合うことになったのだが、大学院での専攻は細胞生物学なので精神科は畑違いであった。ある理由から尚道は現在日本に在住して僧侶となっているが、その大学院に籍は残っていて休学扱いとなっている。とはいえ僧侶であるから精神分野にも興味が薄いわけではなく、並以上の精神疾患についての知識を有していた。そして、その知識から担当医に尋ねた。
「そうですか。何かがあったと?」
「はい、よほど激発的な体験が原因と考えられますが...」
「治療は可能ですか?」
「結果は保証できませんが...症状の緩和になればと思いますので...」
何とも歯がゆい返答であった。それというのも、PTSDは1980年に米国の学会で発表されたまだこの時(1989年)では10年くらいの歴史の浅い精神疾患概念であったからである。日本ではこの後1995年に認知されたため、ほとんどの病院ではPTSDと診断されることはなかった。それを考えるとこの病院で診察してもらったことは僥倖であったかもしれない。
「催眠療法で原因の発見と暗示による症状緩和を行いたいと思います。」
「具体的にどのような症状が出ているのでしょうか?」
「逃避ですね。原因に関わりのある事象に遭遇したり、キーワードを耳にした時、別の人格を作ります。これが解離性同一性障害ですね。あるいは、忘れてなかったことにするんですね。これが記憶障害と考えられます。」
「う~む。何があったんだろう。その睡眠療法でどのくらいのことが分かりますか?」
「ピンキリですね。全てがわかることもあれば、まるで分らないこともあります。」
「そうですか。しかし、それしかないのですね。」
「ここではそれしかありませんね。しかし、佐々木先生はアメリカに太いパイプを持っていらっしゃるからそちらで調べる手もありますよ。」
「では、そっちも当たってみますが、催眠療法の方もお願いします。」
こうして、想の治療は始まったのだが、尚道はどうしてもしっくりとこないものを感じていた。『想ほどに気丈なものがPTSDになるなどと、どれほどの目にあったというのか?殺さると分かっていてもニヤリと不敵に笑うような男なのだ。それに、成田での泥酔騒ぎは恐怖を紛らわすためだったのか?いかなる局面でも、真っ直ぐに突き進んで玉砕するような男なのに。それらは俺の買い被りだったのか?』と答えの出ない問答を繰り返すばかりであった。
年を越し、当たりが薄っすらと白くなりかけても治療の成果はあがらなかった。むしろ病の根源が治療に抵抗しているようにさえ見え、治療をすればするほど想は苦しんでいった。アメリカの知人とも連絡をとっているが、効果的なアドバイスを思いつかないらしい。その知人が勧めるには『治療を打ち切って、静かなところで暮らした方がいいと思う。PTSDの治療はまだ緒についたばかりだ。治療が正しいと断言できない』というものだった。
尚道は想にこのことを告げると『俺もその方がいい』という返事だったから2番目の住居を探すことにした。住居の候補はすぐに見つかり、想と楓をそこに連れていくと想は2つ返事で快諾した。何より赤ん坊の楓がはしゃぎ通しだったのが決め手になったようである。
2番目の住居は東北の寂れた牧場の隣の潰れた牧場だった。住まいとなる家をリフォームして荒れ野となっている牧野を整理してそこに住むことにしたのだ。隣の牧場の家までは2㎞ほどあるが、牛を囲う一番近い柵までは数百mしかなく、風向きがよければ牛の鳴く声がよく聞こえた。
1990年の春のことであった。