behave like an idiot
蜘蛛の急な方向転換に虚を突かれた村雨のその隙を突いて、蜘蛛は巨大な足を軽々と、まるで剣でも振るかのように器用に振り抜き彼女を蹴り飛ばした。
村雨は勢い良く後方に飛ばされ、自分で作り上げた氷柱に背中を打ち付ける。
「———ウグッ」
村雨は苦しそうに息をつまらせた。
蜘蛛はしかし、そんな村雨に休む暇も与えないようにするが如く、全身の筋肉を使って彼女に飛びかかり、執拗に追撃を繰り返す。
これでもかと言うほど踏みつけたかと思えば、弄ぶように蹴り飛ばし、村雨というボールを使って氷柱と言う的にぶつける遊びを繰り返す。
延々とも思えるほど遊びを繰り返した蜘蛛は、シメと言わんばかりに最後の氷柱に村雨をぶち当てた。
氷柱の破砕音に重なって、どさり、と重くて鈍い音とともに地面に投げ出された彼女の衣服は、ぼろぼろに破け、その奥には真っ白な素肌が見えている。体のところどころには血の跡が見えたが、ここまで無茶苦茶をされて人間としての原型をとどめているのが不思議なくらいだった。元が人間であったなどとは考えられないほどに頑丈な肉体で、防衛兵器の器になれる少女はやはり格が違うのだろう。俺があんな風にボコボコにされてしまえば、きっと肉のぼろきれが出来上がる。
…そして、彼女がやられたのは、彼女の責任ではない。全ては俺の責任だった。
本当は行きたいなどと思っていない魔物との戦闘とやらに、口先だけで行きたいなどと言い、浅はかな好奇心で首を突っ込んだ。
村雨は俺を守りながら戦うことはできないかもしれないと言っていたではないか。それはつまり、できることなら自身の力でどうにかしてくれというメッセージで、それができないのであればついてくるなということではないか。それでも俺がついてくることを許されたのは、わずかとは言え彼女に信頼されていたからではなかったか。
俺はその信頼を裏切ったのだ。
———それに、もしこれで村雨が死んでしまっていたら、俺もここでこの蜘蛛に遊ばれて殺される。
村雨はうつ伏せに倒れたまま動かない。本当に死んでしまっているのかもしれない。
俺は泣きそうになった。よくわからない世界にいきなり召喚されて、いきなり知らない少女に名前を呼ばれ、そのよく正体の分からない彼女からこの世界についての雑な説明を受け、気づけば魔物が現れ、結局俺がでしゃばったせいで、出会ったばかりの人の命を表面上は間接的であれ、本質的には直接の原因として奪ったことになる。そして最後はあのグロテスクな蜘蛛のような化物のおもちゃにされて殺されるのだ。
蜘蛛がこちらを向く。俺に向かって、どこか勝ち誇ったようにさえ見える足取りで軽やかに近づく。表情などは分からないが、どこか不敵な笑みさえ浮かべているようにも思えた。
無数の牙を兼ね備えた底なし沼のような丸い口が、眼前にゆっくりと迫る。
—————氷柱の次はその辺の大岩で遊ばれるのか。ははは。面白いなあ。もしかするとこのまま食べられてしまうかもしれない。ははは。面白いなあ。
膝は震え、涙は止まらなかった。
最高に不思議な体験をして、最高に無様な死に方をするのだ。
それに、本物の俺がここで死んだとしても、コピーの俺は元の世界で幸せに暮らすのだろう。
それなら、もういいではないか。すでに俺は、元の世界のことを考えれば死んだも同然の存在とさえ言えるではないか。
蜘蛛が器用にも二本の足をつかって俺をつまみ上げた。ふわふわとした見た目は伊達じゃなかったようだ。掴まれる心地だけは羽毛布団に包まれているかのようだ
グロテスクな顔面は、至近距離で見ても変わらなかったが。
蜘蛛が大きく口を開ける。腐臭が中から漂う。
「い———嫌だ、俺はまだ死にたくない、村雨、誰でもいい、助けてくれ…助けてくれ、助けてくれ助けてくれ助けてくれたすけてたすけてたすけ」
蜘蛛は俺の右太ももにかぶりつき、咀嚼した。
ぐちゅぐちゅ。
もぐもぐ。
にちゃにちゃ。
「痛い!!!痛い痛い痛いって痛い痛い痛いやめろ痛いやめてくれよおおおおお!!!!」
俺は絶叫した。視覚的にも痛かった。足は血まみれで、その肉はグロテスクな様相と化していた。そして、それが蜘蛛の唾液と混ざって溶け合っているようにも見えた。
右足が灼けるように熱い。骨まで噛み砕かれようかとしているところだった。
見るに堪えない惨たらしさに思わず目をつぶりそうになる。
だが、痛い。
耐え難くなって、諦めたように天を仰ぐ。
「…?」
荒い息で見上げた視界のその先に、三本の、真紅の槍があった。
とても高いところにあって、その槍はぴたりと静止している。
美しい光景に、ほんの僅かな時間だけ痛みと現実を忘れる。
その巨大な槍が、思い出したかのように天の上から迫ってきた。
蜘蛛の腹を、頭を、足を、その槍は串刺しにする。
三本の槍が、臓器をえぐり取る生々しい音とともに、杭のように蜘蛛を地面に打ち付けた。
轟くような断末魔、重なって響く大地の揺れ。それが、山一面に反響する。鼓膜が裂けそうになった。
蜘蛛は俺から手を離した。俺は地面に思い切り落ちる。叩きつけるような濁った着地音とともに全身に激痛が走った。
蜘蛛の腹から溢れ出た緑色の液体が、俺の顔に返り血のようにかかり、学校指定の制服をも汚す。どろりとしたその液体は不快で、右足の見た目はもっと不快で、耐えられなくなった俺はその場で嘔吐した。
気を失っていないのが不思議なくらいだ。いっその事、気を失ってしまったほうが楽であるというのに、体が、痛みを学習させるかのごとく意識を保たせようとする。
蜘蛛は、いまだあのギチギチとした耳障りな音を口から漏らしているものの、その巨大な氷槍に貫かれて身動きが取れないようだ。
それにしても、あの槍は村雨がやったのだろうか。
心臓の音がドクドクと耳に響く中で、さくりさくりと草を踏んで歩いてくる村雨を見つけた。
村雨は、俺の足を見るなり顔を歪め、涙目で俺を見た。
「里見さん、その足…!!!」
「ああ、これ、さっき食べられた。めちゃくちゃ痛い」
もう痛みが酷すぎて意識が朦朧としているのだが、よくぬけぬけと言えたものだ。
「こんな怪我でよく意識を保てていますね、痛かったですよね…、今すぐ治しますから、動かないで待っていてください」
「お前これ、直せるのかよ」
「………元の足には戻りません。ですが、里見さんの肉片をベースに魔義足を組み上げることは可能です。もちろん、普通の足と感覚はほぼ同じです」
村雨は言うなり、自分の持っている刀ですぐ近くにいた『リソース』の首を切り落とした。
鮮血が飛び散る。村雨は顔に多くの返り血を浴びていた。
「お前それ…」
「私だって不本意です、ですが、『リソース』を使いでもしなければあの化物を倒せなかったでしょうし、その足だって治せません」
村雨の目から涙がこぼれて、つい俺も黙り込んでしまう。
そうか、村雨は俺を助けるためにリソースを使ってあそこまで巨大な槍を作り上げたのか。
俺がいなければ、彼女に辛い思いをさせることもなかったわけだ。
つくづく役立たずだと痛感させられる。
村雨は『リソース』のその切断面に手を当て、静かに目を閉じた。
すると、それの胴体から、どろりと血液が溢れ出して宙に浮かび、ぐにぐにとうごめく。村雨はそれの下に手を差し出し、まるでテレビで見るような超能力者の如く、その球状になった血液をふわりと移動させて俺の足まで運ぶ。
その不思議な血液の球体が俺の右足に触れた途端、右足がライトブルーの光に包まれた。
右足がじんわりと気持ちがいい。痛くて、でも心地がいいという感覚、といえばいいだろうか。今までの激痛がウソのように感じるほど痛みはやわらいで来た。
俺の足を見てみれば、右足らしい形に徐々に変わっていっている。
驚きのあまり、この世界の魔術は本当に万能なのかもしれないな、と思ってしまった。
そんな状態が続いてしばらくすると、右足を包む光が消えた。
「…だいたい、できたと思います」
玉のような汗を浮かべながら村雨は言う。その顔には達成感と、しかしそれをずっと上回る疲弊の色が見て取れた。
右足はといえばだが、その出来栄えは、その入れ墨のような、魔法陣のような紋様が何故か刻まれているという点を除けば見事というほかない。足は自由自在に動かせたし、何より自分の足では無いと思うほど軽く感じたのだ。もっとも、事実その通りなのだが。
と。
ぽふん、と言う軽快な音とともに、伸ばした俺のむき出しの右太ももに村雨が倒れ込んできた。
一瞬慌てたが、すやすやという寝息が聞こえて安堵する。
気づけば日はすっかりと昇り、優しい暖かさが俺を、膝で眠る村雨をつつんだ。
眼前に息絶えた蜘蛛を据えながら、しばし少女の休息を見守った。