I intend to win.
地鳴りの如き衝撃が、足元から這い上がる。
ぞくり、と。俺は一瞬身震いした。
しかし、その後地鳴りがすることはなく、衝撃は来なかった。
「村雨。魔物っていうのはどのくらいでかいんだ」
心臓に響くほど強い振動だ。きっとそのサイズも大きいものなのだろう。
「…見てみないことにはわかりません。これは結界網の揺れですから」
「結界網…?」
「はい。私の防衛義務地域である『寅』の方角に関しては、私が、結界網と言う、魔物が現れたことを私の住む地点に知らせるためのいわば魔術を使った警報装置を設置していますから、魔物が通るとこの地点が揺れるのです」
またしてもスケールの大きな話であるが、なるほど。俺は必要以上に驚いてしまったということだろうか。いや、それにしたって、だ。
「わざわざここまで激しい音をたてなくてもいいじゃないか…」
「すみません、不器用なんです…。魔物の大きさを感じ取るために組む魔術網は私には難しくて。現れた魔物の大きさもわからないようなお粗末なもので、接近を知らせるためにはこんな風に地鳴りとしてしか表現できなかったんです…。これでも、地鳴りの種類で魔物の大体の位置が分かるんですよ?今回であれば、そう急いで移動することもない位置からの侵攻かと」
なんということだろう。この世界で言う魔術なるものを知らないため、どの程度が器用なのか判断もつかないが、何もここまで揺らす必要はないだろう。それにしても、村雨は、ぱっと見では家事万能良妻タイプの幼女である。助成というものを知らないのでよくはわからないのだが。
「人は見かけによらないのな」
「里見さん、何かいいましたか?もしかすると褒めてくださっているのですか?…これはこれで、眠っている時にもすぐ気がつけて便利なのですから、いいんですよ。ともかく、敵は近づいてきています。もしかすると魔術を使ってくるかもしれません。もっとも最近では、莫大な魔力を持っていても魔術の使えない、肉体だけで戦う低級の魔物にしか遭遇していませんが。知能的な面においても以前とは比べ物にならないほど劣ってきたように思いますし。ですが、何にせよ里見さんが現段階で外に出るのは危険です。この部屋に隠れていてください」
俺は、気づけばわずかに震える歯を食いしばって頭を横に振っていた。
「何言ってんだ。仮にも村雨のサポート役として召喚された身だ。一緒に戦うとは言わないまでも、お前がどう戦うのかが見たい。それに、何か言えることがあるかもしれない。だから、俺もついて行きたい」
俺の方こそ何を言っているのかがわからない。だが、口をついて出てきたのはそんな言葉だった。口と意思が分離したような感覚だ。
「…私は、どんな敵であれ勝つつもりです。ですが、里見さんを守りながら戦うことはできないかもしれません。最悪の場合、里見さん、死にますよ」
俺の歯はその言葉を聞いてより一層震えた。説明を聞いただけではよくわからないが、並外れた力を持つと自分で説明した村雨がそこまで言っているのだから、危険は大きいものなのだろう。
だが、仮にこの部屋の中にいたとしても、この部屋が狙われる危険だってある。死を認知しないで潰されるくらいなら、死ぬ間際まで目を見開いていたい。自分が死ぬときくらい、死ぬと意識して死にたい、などと言う漠然とした、よくわからない願望もあった。それに、魔物とやらを一目見ないことには村雨が言っていることも信用できないではないか。全てがドッキリであったという淡い期待を捨てるべきかどうかは、その魔物とやらをこの目で見てからでも遅くはないだろう。
「わかった、それでもいい。なるべく邪魔はしないから」
村雨は、どうしようもないものを見る目で俺を見たが、ため息をついて、
「…わかりました」
とだけ言った。
「ついてきてください、それと、戦闘に入ったら私と魔物から十分な距離をおいてください。危険、ですので」
「わかった」
村雨は俺が頷くのを見て、俺の部屋のドアに手をかけた。その先に見えるのは薄汚れた馬小屋のような一室。もしかすると俺の部屋は馬小屋の中の一部として召喚されたのかもしれない。
その馬小屋のような一室の戸を勢い良く開け村雨は裸足のまま外へ飛び出した。俺も後に続く。
鼻腔に流れ込む臭気に依然として顔をしかめながらも、緊張のせいだろうか、先程よりは幾分かその臭気もマシに感じる。
空はすでに白み始めていて、辺りも随分くっきりと見えるようになっていた。
目の前に広がるのはただただ広がる草原と、奥に見える、迷ったら出られなくなってもおかしくないのではないかと思われられるほど深い森、そしてそのさらに後ろには悠々とそびえ立つ山々がある。アルモは三方を山に、一方を海に囲まれた、歴史の授業でならった地域のようだと言ったが、スケールはそれ以上だ。明らかに山々の高さが違った。
山の姿を完全に捉えることはできず、山の上の部分は雲で覆われている。此処まで高い山を超えて魔物がやってくるなどとは、やや考えにくいものがあった。
「村雨、魔物っていうのはどこにいる」
「もう、見えています。前方です」
彼女の視線を追う。『リソース』がいまだ草をはみ続ける情景の先に、それはいた。
見た目を一言で言うとするのであれば、蜘蛛。しかしながら、その大きさは異常だ。『リソース』たちの高さの三倍はあろうか。距離はやや離れているが、全身はなめらかな毛で覆われており、その毛は、そのグロテスクなその表情に見合わずふさふさとしていて可愛らしいとさえ感じた。ペットのようだとでも言うのだろうか。俺の気もおかしくなってきたのかもしれない。
この、魔物が存在するという事実はすなわち、この世界が紛れもない異世界であることを証明する一つの手助けとなってしまったのであるが。
俺は村雨の横に並んで歩いていたが、大きな岩がぽつりぽつりと点在する地帯に入った頃、村雨が敵を見つめたまま俺に声をかけた。
「里見さん、これから私は戦闘に入ります。どうかその岩陰の辺りから動かないでください」
「…わかった」
なんにせよ、俺が危険な場所にいることに変わりはないのだ。この近辺のどこにいようと同じことだとは思うが、俺は村雨の言うことに従った。
「…では」
そう言って村雨は、自分の心臓のあたりに右手を添えて、目を閉じた。
次の瞬間、村雨の心臓のあたりが青白い光につつまれた。村雨はその光の中から、刀の柄、つば、刀身の順に一本の長い刀を抜き出した。
「…ッ」
村雨はその端正な顔を少し歪めながら、刀をしっかりと握り直す。
「なんだよそれ…すげえ……」
俺が発することのできた言葉は、その程度だった。
村雨の持つ刀からは、水が滴り、彼女がその刀を振り払うと、その水滴は氷の結晶となって散った。その所作の一つ一つが、清流のごとく美しい。
俺の手の甲めがけてぴちっと当たった冷たさにも、現実であることを意識させられる。それを見れば、体温で溶けかかった氷。
そうか、これが『妖刀・村雨』なのだ。
抜けば玉散る氷の刃。
妖刀、村雨。
もうその巨躯の隅々まで目視できるほどの距離にまで迫ってきている蜘蛛をまっすぐに見据え、彼女は静静と歩く。歩いた道には霜が降り、曙の空を跳ね返した。その嫌になるほど美しい後ろ姿を、忘れることは無いだろう。
村雨は、はたと歩みを止めてから、刀に左手を添え、すっと深く腰を落として息を一つ。
「———しッ—————」
研ぎ澄まされた掛け声とともに吐き出された、その白い吐息を追い越して、彼女は駆け抜けた。一瞬にして蜘蛛との距離を縮める。踏み抜かれたその地表はやや窪み、舞い上がった土は白い氷を纏っていた。
村雨と蜘蛛の間の距離が肉薄する。至近距離まで接近した村雨は、構えたその刀を、蜘蛛のそのとてつもなく太い足のうちの一本めがけて素早く真一文字に抜き払った。
途端、蜘蛛はけたたましい、ギチギチとした悲痛な叫び声をあげる。耳をつんざくようなうめき声、蜘蛛の口から唾液のようなものが飛び散った。蜘蛛は妖刀に凍りつかされた足先をかばうように、残りの前足を村雨めがけてめちゃくちゃに叩きつけている。その動きは見かけによらず俊敏で、俺の目にはどこがどう動いているのかが理解できなかった。蜘蛛が叩きつけた地面は次々と穴が空く。その光景を理解するのでやっとだった。筋肉の塊が作り出す地面の揺れが、岩陰から覗く俺にも伝わってくる。
だが、その蜘蛛の俊敏な動きを持ってしてもなお、村雨の動きは圧倒的な速度だった。
彼女は、いともたやすく蜘蛛の足の隙間をくぐり抜けてはその刀と共にひらりと舞いながら、刀で蜘蛛の足を何度も切りつけ、そのたびに足は白く凍る。
今や蜘蛛は元の姿からは想像がつかないほどに足のあちこちが凍っていた。蜘蛛の動きはより緩慢になり、口と思われる、無数の鋭く長い牙が内側に向かって生えた部分からは、とめどなく唾液のような液体が分泌されていた。
…圧倒的だ。防衛兵器がここまで強いのであれば、この国は安泰ではないか。どうして村雨が失敗作などと呼ばれなくてはいけないのだ。補助役が必要だとかなんとか言っていたのは何だったのだ。
そんなことを思って眺めていると、急に蜘蛛の足から煙が立ち上ってきた。
いや、違う。蜘蛛の足に付着していた氷が、水蒸気となって消え去ったのだ。
「…!?」
村雨が呆然と蜘蛛を見上げるのが見て取れる。それはまた、俺とて例外ではなかった。
なぜ氷があんな風に溶けたんだ?魔物っていうのは体温が高いもんなのか?
よく見てみれば、蜘蛛の体、特に尻のあたりが小刻みに震えていた。もしかすると、体を震わせることで体温を上げているのかもしれない。しかし、氷が蒸気となるほどの高温になるほどだとは想像もつかなかった。
村雨は、バックステップで少し距離を取ってから、おもむろに刀を地面に突き刺す。
何をしているのかはわからなかったが、さすがに体力切れということもないだろう。
すると、急に蜘蛛の足元の地面が淡い薄青色に光りだし、ピキピキと音をたてて凍り始めた。蜘蛛もそれに気づいたのだろう、とっさにその巨躯からは想像もつかない速度で後ろへ飛び退く。
次の瞬間、蜘蛛がもともといた地面から、轟音とともに途方もなく太く鋭い無数の氷柱が一気にせり出してきた。もし蜘蛛があのまま動いていなければ、そのまるまるとした腹を貫かれていたことだろう。
村雨は立て続けに蜘蛛の真下から氷柱を突き上げる。蜘蛛はいつしか村雨のペースに押されて逃げ惑うようになり、辺り一面に氷柱が乱立していた。
村雨は地面に突き刺さったままだった刀を抜く。
蜘蛛は息を切らしているようにも見えた。俺の存在は認知されていないのかどうかは分からないが、今のところこちらにやってきそうには無い。
そう思った瞬間だった。
蜘蛛はおもむろに方向転換し、俺のいる方向めがけて猛突進してきた。
「ヒッ!!!!」
声が詰まって上手く出せない。ランニングで鍛えた足は、いざという時に裏切った。腰が抜け、足が動かない。そのままへなへなと座り込んでしまう。
何をしている、早く動かなければ蜘蛛にやられるじゃないか。動け。
俺にできたのは、座り込んだままずるずると後ろに下がることだけだった。巨大な馬が地面を駆けるかのごとく音が座っている地面越しに聞こえる。
村雨も蜘蛛が俺を狙っていることに気づいたのか、戦闘中ですら見せたことのない速度でこちらに走ってきた。
蜘蛛が俺に迫っている。そしてそれを上回る速度で村雨が蜘蛛に追いつこうとしている。
そしてまさに村雨が蜘蛛に追いつこうという瞬間—————蜘蛛が踵を返した。