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私だけのはせがわさん  作者: 蜷川二奈
第一章
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第5話 ぼうけんのしょ 後編

 ワインは、見たことも無いくらいフチが大きなグラスに入って出てきて、おつかれさま~と二人で小さく乾杯した。長谷川さんによると、フチが大きいと鼻をグラスが覆える為、ワインの香りのみを純粋に楽しめるらしい。


 「しっかし、部長ねーアイツもうやんなっちゃうよねー。パッと見仕事出来る風だけど、色んな人にネチネチネチネチさ、粘着気質も大概にしろよ、それで営業成績上がるとおもってんのかー!って感じ」


 長谷川さんは早くも酔って来たのか、声が少し大きくなっていた。食事が出てきて食べたらすぐ帰る、そう決めていた私も、中々出てこないハンバーグを待つ最中に一杯飲んでいた。なんだかふわふわして、舌が軽くなる。


 「うん。私は部長に呼び出される常連だから、いつもその被害を被ってるよ。お前の武勇伝なんか聞いてねぇよー!って感じ」


 「だよね~!」


 と、長谷川さんがワインを大きくあおって、またウェイターを呼ぶ。私も勧められて、同じものを注文した。


 「でも、長谷川さんはいいじゃん。営業成績凄いんだから、ネチネチ怒られることもないでしょ?」


 「いやいや、私は、いつもあの男からの執拗な飲みへの誘いを断るのが大変なのだよ。週に2回は誘われるし、隙あらば肩凝ってるー?とか言いながらセクハラしてこようとしてくるし……」


 本当うざいよ。彼女は笑顔のまま、そう吐き捨てる。あぁ、長谷川さんもこうやって人の悪口を言うんだなぁ。そこにまた少し安心して、小さく気になっていたことが口をつく。


 「そういえば長谷川さんって、ゲームとか好きなの?」


 「え?」


 ちょっと、顔が引きつって、何故それを、みたいな顔をしている。


 「いや、さっき、勇者えぐちとか言ってたし。何かそういうの、意外に分かるのかなーって」


 「あ、あー……」


 やはり無意識的だったらしい。彼女はワイングラスを手にもったまま、その水面を眺めるように逡巡する。寄せられた眉根は、多少の葛藤を示しているようにも見えた。


 「えぐっちゃんになら良いかなぁ……」


 内緒にしといてね、その言葉に心臓がトクンと跳ねる。秘密の共有は信頼の証だ。他者との間にそういうものを築くのは、殆ど初めてのことだ。

 彼女は、テーブルの下に置かれた鞄に手を突っ込んで、何やらもぞもぞし出した。直後彼女は、レザーのカバーに包まれた物体を取り出した。あれ、それって……。


 「D○、だよね?」


 「うん」


 何故、そのゲーム機が鞄の中に。


 「ちょっと車の中でサボったりしてる時に、やってるんだけど」


 サボってあの成績なことにも驚きだが、わざわざ携帯ゲーム機を持ってきてやるっていうのにも驚きだ。中々ヘビーな……。私もスマホのゲームとかはするけど。

 分かるかなーと呟きながら彼女が電源を点けると、その画面の中には、ドットが粗い2Dの画面が現れた。


 「うわ……なっつ……」


 思わず声が漏れる。


 「あ、もしかしてえぐっちゃんもやってた!?」


 彼女の瞳が爛々と輝く。


 「うん。めっちゃやってた」


 「うおーマジかぁ~!」


 長谷川さんは興奮して、テーブルをどんどん叩く。頬が赤く上気して、アンパンマンみたいになってる。

 忘れもしない、友達がいなかった幼少期の私が、唯一心を躍らせた冒険の旅。

 懐かしさを共有した嬉しさに二人で顔を見合わせると、彼女がそっと手のひらをこちらに向けて差し出してきた。


 「ん」


 「……ん?」


 「ん?じゃないよ~えぐっちゃん。ハイファイブだよハイファーイブ」


 ハイファイブ……昔覚えた英単語の中から即座にある動作が浮かぶ。そのイメージに、少しだけどきまぎしながらも、こちらからも小さく手を伸ばす。


 ぱちん。

 二度目の乾杯のようなそれは、小さくも愛らしい音を立てた。ハイファイブとはつまり、ハイタッチのことだ。和製英語のハイタッチと言わないところが彼女らしい。


 「いえ~い」


 「い、いえ~い?」


 何にしても、秘密の共有は成功したらしい。その反応は、素直に嬉しい。きっと沢山の人が知らない彼女の秘密。多くの人が触らず、森の奥で静かに熟された果実。


 因みにそのゲームは今から15年は前に発売された、とあるシリーズの初期のものだった。最新のスピーカーから潰れたエイトビット音源が流れる。もはやレトロゲームとも言えるそれは多分、復刻版か何かなのだろう。ポチポチと手馴れたように動く指先の中で、かつて愛情を注ぎこんだモンスターたちが映っていく。


 「うわぁーめっちゃやりこんでるね」


 そのレベルとステータスに、思わず笑ってしまう。中々にやり込まないと、こうはならないはずだ。若さにかまけて湯水のように時間を使えた学生の時分ならともかく、社会人が息抜き程度にやる時間では、ここまではいけない。


 「分かるー? うふふー、土日とか夏休みとか、友達の誘いをテキトーに理由つけて断ってまでやったりしてるから。あ、これも内緒だよ?」


 けらけらと笑いながら、しーっと指でやる。その仕草と人懐っこさに、思わず目を細める。


 「ハンバーグお待たせしました~」


 その間隙を突くように、両手にハンバーグのプレートを持って、ウェイターがやって来た。その姿に、忘れかけた決意を思い出す。これを食べ終わるその時が、タイムリミットだ。楽しい時間は終わりを告げ、身を飾った偽のシンデレラは、元のボロに身を包まなくてはならない。王子様は永久に現れず、また姉たちにいびられながら、冷たい雑巾を握りしめて床を這いずり回るのだ。


 テーブルの上に載せられたハンバーグから漂う、お腹の底をくすぐるような匂いに、胃がぎゅっとなる。流石にお腹が空いていた。


 それから間もなく、ウェイターは長谷川さんの手元に、その容姿と不釣合いな物体があることを発見して怪訝な顔をした。が、すぐに失礼な表情に気づいて、あ、やばという感じでささっと仮面を張り付けて、礼をしながら去って行った。


 「あの人、凄い顔してたね」


 長谷川さんが悪戯っぽく笑う。


 「うん」


 私もニヤニヤ笑いながら、ナイフとフォークを掴む。


 手を合わせて、二人でいただきまーすとハモる。太鼓のバチみたいに芯のあるハーモニクスが鼓膜を揺らして、その振動にまたシンクロするように、残された時間を精一杯楽しんでおきたいという想いが一層強くなる。


 たまねぎにナイフをぐしゅりと刺し込んで、口の中に、牛肉の塊と共に放り込む。蕩けるたまねぎに、芳ばしく焼けた濃厚なソースと、じゅわーっと滲み出る肉汁が美味だ。


 「おいしいねぇ~」


 ほっぺたをお肉でパンパンにしながら、長谷川さんが漏らす。


 「うん、でも、あふぅぃね……」


 「うん~あふぅ~い……」


 ふざけて体を二人で揺らす。

 最初は気圧されたお店の雰囲気も、カチャカチャと色々なところから聴こえる雑多な音も、知らない人の笑い声も、今となっては心地よくなっていた。追加されてやって来たワインを飲み干す。多分もう5杯くらいは飲んでいる。脳の奥は既に麻痺して、ぼんやりと霞ががっていた。だからこそ私も、彼女に踏み込める。


 「ところで何で、長谷川さんはほっぺにご飯を詰め込むの? ハムスターだから?」


 笑いながら言うと、長谷川さんが嬉しそうに口に運ぼうとしていたアボカドチーズハンバーグの動きを止めて、意表を突かれたような顔をする。


 「なにゆえハムスター……え、私ってそんなデブ?」


 腹に視線を落としてから、ゆっくりと手元のハンバーグを皿に戻そうとする。


 「いやいや、むしろ私のがデブだし。えっと完全に私の妄想なんだけど、おにぎりの下りから、何かハムスターを想像しちゃって…せっまい車に詰め込まれて、おにぎり詰め込む長谷川さんとか、ゴールデンハムスターみたいだなぁって」


 思い出して、また少し吹き出しそうになる。


 「あぁ~! それであんなにウケてたの!」


 手を叩いて得心いったという風に笑う。


 「うん、失礼だと思って、言わなくてごめんね」


 「いやいや。笑ってくれたならそれで良いのだよ。因みに、私がこうやって詰め込むのはねぇ~」 


 とフォークでハンバーグを捕まえて、またしても口にパンパンに詰め込む。


 「こほやって、沢山詰め込んだ方が、しあわせな感じしにゃい?」


 まさしく幸せそうに顔を綻ばせるのはいいけど、笑った歯の隙間から、肉汁がこぼれてるぞ。

 

 「戦後の子供か」


 小さく笑うと、彼女も満足気に笑い返す。初めてのつっこみを入れて、笑って貰えた。小さなことだけど、繋がってる感じがする。


 「あ、今更だけど、敬語も取れてきたことだし、長谷川さんなんて他人行儀じゃなく、私のことは好きに呼んでいいんだよ?」


 指先をぐるぐるしてから、ぐいっとまたワインを飲む。


 「えー、いきなりそんなこと言われても。みんなは何て呼ぶの?」


 「うーん、大学の時の知り合いは、知里だから、ちーちゃんとか、ちーとか? あ、中学の時にはハセガワだからハッサンとか呼ぶ男子居たな。ガチムチかよって」


 けらけら笑う彼女は、もはやネタを隠すこともしない。


 「その男子、きっと長谷川さんのこと好きだったんだと思うよ」


 私にも、その男子の気持ちは何となく分かる。小さくても何か特別な繋がりが欲しくて、誰も呼ばないあだ名が欲しくなったりするのだ。


 「え~……マジかぁ。でもえぐっちゃん、あたくし、ハッサンは嫌ですわよ?」


 ふざけて手を口元でくねらせる。なんだそれ。


 「いや、流石にリアルでハッサンと呼ぶ勇気はないよ……」


 「ミレーユならよくってよ?」


 それ、もしかしてミレー……いやない。

 しかしなぁ、あだ名、あだ名。長谷川知里、はせがわ ちさと、チサト ハセガワ。ハセガワハセガワ。うーん。あ。


 「……はむがわ」


 「ハムガワ……?」


 彼女が不思議そうな顔をして問う。どうやら初めてのあだ名らしい。


 「ハムスターから?」


 「・・・うん。どう?」


 「はむはむ・・・いや、中々悪くないハムねぇ」


 手をしゃかしゃか動かしながらふざけて言う彼女は、アヒル口の派生のように、口をωの形にして、サムズアップした。公認である。


 「じゃあちょっと練習してみようか!」


 と、いきなり試合中の野球監督ばりに手をカマン!という形にして、自らの方にグイグイ引きつけ始めた。


 「え、えぇー・・・」


 「えーじゃない。練習しないと、普段から使えないじゃん? ホラ! 言ってごらん」


 相変わらず押しが強い人だ……多分やるまで引きさがってはくれないのだろう。致し方ない。なに、そんなに難しいことではないはずだ。たったの4文字である。


 「はむ…、う……」


 あ、予想以上に恥ずかしいわコレ。頬に熱がせり上がってくるのが分かる。


 「はむぅ?」


 えー?と、長谷川さんは身を乗り出して、世間を賑わせた県議ばりに聞こえない聞こえないと右手を耳に添える。むかつく。


 「……やっぱり長谷川さんのままでも良い?」


 「えー!ダメだよー! ほらほらー勇気を出してわんもあトライ! えっぐっち! えっぐっち!」


 手を叩きながら、要求する彼女はどこか意地が悪い。逃げられない感が全開である。クッ……殺せ、とか言って有耶無耶に出来ないものか。


 「ねぇねぇマダー?」


 長谷川さんは両手にナイフとフォークを持って、ぶーぶー言いながら唇を尖らせている。やるしかないのか……。頭の中で三回唱えて耐性を作ろう。はむがわはむがわはむがわ。よし。


 「はむがわ! ……さん」


 言えた! けど最後ちょっと逃げてしまった。とはいえ、恥に見合った戦果は・・・。


 「オー!ミスタえぐち。ウィアフレン。サンいらないノーね、あゆおけ?」


 ウィアフレンは地味に結構嬉しいけど、駄目らしい。チッチと大げさに指を振りながら、エセ外人を気取る長谷川さん。むー。てかミスタってなんだよ、ミスだろ。


 「長谷川さんばっかりずるい……」


 小声で、感じていた小さな非難を口にする。


 「え~? でも、私はもうえぐっちゃんって呼んでるからな~。他に呼んで欲しい名前があるなら別だけどぉ? 何か今思いつくのぉ~?」


 彼女はさっきのギャルみたいに語尾を伸ばしながら、両手を広げる。声に出して長谷川さんを恥ずかしがらせられるあだ名……そんなもの、すぐに思いつくはずない。そもそも彼女はそう簡単には恥じらわないだろう。やっぱりずるい。不公平だ。


 「うー……」


 思わずうなる。その表情を見てか、長谷川さんがおほぉ!とか言いながら頬をほころばせる。絶対私で楽しんでるよこの人。エスってやつだ。


 「じゃあラスト、これでラストだから!最後の一投!頑張ろう!」


 心なしか先程よりも興奮しながら、長谷川さんがバンバンと机を叩く。その目はキラキラ輝いていた。うわぁ楽しそう・・・なんか・・・汚い大人っぽい・・・。


 「本当にこれで最後だよ…?」


 「うん、ダイジョウブダイジョウブ!」


 調子いいなぁ……。期待の眼差しが、肌にビシビシ突き刺さる。



 はーふー。

 ひーふー。

 ぐっと息を止める。



 「は、はむがわ、ぁ……」



 口に出すと、先程頬まで上がって来ていた熱が、頭の先まで昇り切った。きっと耳朶は真っ赤になっている。彼女の方を見れない。ストロボのフラッシュを喰らったみたいに目がチカチカして激しくまばたきしてしまう。インフルエンザで寝込んだ時みたいに、体中に力が入らない。


 「・・・」


 な、なんで無言なんだよぉ。だばだば分泌される唾を飲み下して、顔を上げると、そこに彼女は居なかった。

 


 ゆらり。

 まるで忍の如く音も無く、気付けば彼女は私のすぐ横に立っていた。


 へ・・・?



 がばあっ!

 疑問を抱く間もなく、唐突に視界が暗転する。

 え!? え!?何が起こった? 事態を認識しようとすればするほど、その正確さの輪郭をなぞろうとすればするほど、非現実的な答えしか脳裏には浮かんで来ない。

 つまるところ・・・


 長谷川さんが、私を、抱き締めている?


 「って、えええええええ!? わ、え、な、なに!?どうしたの!?」


 なんでなんでなんだこれ!

 鼓動が早鐘を打って、酸素が急激に不足する。彼女の巨体と私のそれはサイズ感が合っていない。その為に、視覚が遮られてしまっているのだ。しかしだからこそ、知覚出来る何かを得ようと無意識的に働いた嗅覚が、シャツの胸元から漏れる香りを思いっきり吸い込んでしまう。

 香水の甘い香りと汗の少しだけ酸っぱい匂いが、アルコールで防御力の鈍ったシナプス達を、隅々まで侵していく。


 幼児期以来そんなイベントなんて毛頭ない私は、唐突に訪れたハグに、ただひたすらに困惑する。爪先が疼いて、さっきまで全く気にならなかった周囲を急劇に意識する。

 が、それぞれに騒ぎ立てて自分達の世界を作っている人々は、誰も私達になど注目していない。ホッとするような、でもやはりこの事態の異常さにどう反応すれば良いのかまるで分からなくて、頭皮の毛穴という毛穴がぶわっと開き、脂汗をどんどこ量産していく。もはや嬉し恥ずかし、いや嬉しがあるのか自分でも分からないが、兎にも角にもストレスと緊張で禿げそうな程である。


 そんな、動揺を通り越して腹を下しかけているような私をよそに、彼女はそのまま、穏やかな様子で腕を回して、私の頭に手を置いた。

 そうしておもむろに、撫で始める。


 「へ……へ?」


 「よ~しよしよ~し……」


 私の動揺を鎮めるように、ゆっくりと、髪を梳くように、彼女の手が私の頭の側面を伝う。

 ふわり、さらりと。


 「私のムチャ振りに一生懸命応えてくれて、ありがとうねぇ」


 撫でられる後頭部に血が集まって、瞬間、言及しているのが例のはむがわだということを理解する。


 「いやぁ……あんまりその姿が可愛いもんだから、思わず体が動いちゃった。ごめんね」


 「あ、あ……ぅ」


 あんまり可愛くて、ハグ。そんな……そこまで……。ただでさえ酔って働いていない脳細胞が、またグラグラと沸騰して、ぼんやりする。


 頭を撫でる手はそのまま下に降りて、今度は背中をゆっくりとさすっていく。シャツ越しに、手のひらから伝わった微かな暖かさが上下する。

 ……遠い昔、母が眠れない夜にそうしてくれた気がする。その微かな記憶との重なりに、全身の緊張がゆっくりと解かれていった。


 夕凪に打ち寄せる波の様に静かに優しく、耳元で澄んだ声が囁かれる。

 きっと、さっき見たように、マリア様みたいに穏やかな笑顔をして…。


 「えぐっちゃんには今宵わたしが百点満点をあげるから。もう、大丈夫だよ」

 

 さする両の手が背中に回って、今度こそ私を抱き締めた。



 百点 満点。

 その言葉が鼓膜を小さく揺らして、細胞の隙間に沁み込んでいく度に、意識が遠のいていく。



 そう、いつだって私は、ただ、


 ―――褒めて、欲しかった


 だから一生懸命勉強して、テストで何度も取ったそれが、私の存在そのものを肯定したことはただの一度もなかった。凄いね、と言ってくれる子は居た。でも、輪には入れてくれなかった。


 ――認めて欲しかった


 努力や知識は、「頭は良いけど、ちょっと変わった子」というバリアや、優等生といった一時的な居場所は作ってくれても、人格そのものまで承認させる力は、全く持っていなかった。それでも、僅かながら与えれた肯定的なその居場所を、奪われない様に大切に、大切に、守ってきた。そうすれば、こんな私でも評価して貰える場所がきっとこれからもあるはず。


 ―受け入れて欲しかった


 『君を雇う価値がない。何かあるなら、説明してごらんよ』


 そんな勘違いにハッキリと気付いたのは、愚かしくも成人を超えてからだった。社会、人の波。そこに漕ぎ出す為の試練において、大人達は口ぐちにそう告げて、私の自尊心を踏み躙っていった。


 『学歴あろうが、コミュ力ないんじゃねぇ。事務職で、派遣社員にでもなったらどうなの』


 承認されずにただ時間ばかりが過ぎて、結局そうなるしかなかった。でも、たらい回しにされたその先で、君の待遇を良くしたいなんて甘言を信じたら、何故か人と付き合う仕事を与えられた。


 『オイ、お前全然ノルマ達成出来てねぇのに、何帰ろうとしてんだよ。一日は24時間もあんだよ、今から在庫持って駅前で売れば良いだろ。出来るよな?ていうかやれ』



 ――――ただ、愛して、欲しかった

 

 長谷川さんが抱き締める腕の力を強める。


 「今日、職場では知れないえぐっちゃんを知れて、もっと早く誘えばよかったって後悔した。えぐっちゃんと話してると面白いし、ゲームのこととかも打ち明けられた。何より一生懸命で可愛いし、私今日、もっと仲良くなりたいって思った。他の誰でもない、えぐっちゃんと、もっと」


 辛かったんだ。

 私はいらない存在なんかじゃない、何度そう唱えても、真の存在価値は他者しか与えてくれない。だけど、誰もそれを与えてくれなかった。それが苦しくて、辛くって、でもそれにもいつしか慣れて、当たり前のように自分を大切にすることが出来なくなった自分が、本当は一番悔しかったんだ。


 「……、うぐ」


 みっともなく背中が震え出して、崩れ落ちないように両腕を彼女の背中に回して力を込めた。抱き締めるなんていうよりも、もっと無様でかっこ悪い。それは抱き着きという方が正しかった。

 それでも応えてくれるみたいに、長谷川さんが横から無理に抱き締めていた体制を少し変えて、より抱擁を密着させてくれた。胸と胸が触れ合って、そこから私の平熱よりもずっとずっと高い長谷川さんの体温が流れて込んでくる。それはまるで氷を溶かす熱湯のようで、形を失った水分子は、長谷川さんのシャツの肩先に熱い染みを作っていく。


 「えぐっちゃん、何か張りつめてるからさぁ……。もうちょっと緩まないと、その内プッツリ切れちゃうよ」


 彼女の右手が私の頭をグイっと押して、その頬に寄せた。私のぐしゃぐしゃでびしょびしょの頬と、長谷川さんの柔らかな頬がくっついて、熱が伝播する。お互いの体温と体温の中間地点まで心地よく温められた雫は形を変えて、皮膚と皮膚の間を薄い膜で繋いでゆく。まるで私たちの距離を0にまで持っていくように。


「ぶぐぅ……、」

 

 抑えようとした声はむしろ鼻から鳴るみたいにみっともない音を立てたけど、そんなことは意に介さないといった様子で、依然、背中をさする手は背骨を伝って優しく移動し続ける。下から上にさすり上げるような動きは、身体の中から悪い物質を全て吐き出させようとするようだった。心臓は今にもはち切れそうにもがいて、体中に酸素を送る。嗚咽を殺そうと引き結んだ唇は、耐え切れないようにぐしゃぐしゃ動いて、反動で鼻の奥は削られるように熱かった。


 「うぶ……はせっ、がわ、しゃん……」


 「ウィアフレン……でしょ?」


 手がまた頭の上に戻って、ごしごしと少し乱暴に動く。


 「は、はぶがわぁ……はぶうぅぅ……」


 「はは、全然発音出来てないじゃん」


 「はぶぅ……はぶぅ……うう」


 「えぐっちゃん、何か赤ん坊みたいだよ」


 しょうがないなぁ……彼女はそう呟きながら、また優しく頭と背中を撫でた。


 

 赤ん坊でも構わなかった。彼女が受け入れてくれるなら。

 今夜だけで離れようなんて、もはや到底無理な話だったのだ。

 


 その後、全然泣き止まない私に段々注目が集まって、ウェイターが迷惑そうに顔をしかめ出した頃、長谷川さんは私を引っ張って、それからたっぷり2時間、女子トイレの個室で私を抱き締めながら、背中をさすり続けてくれたのだった。

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