プロローグ
天空には金色の惑星が幾億の星々に囲まれて浮かび、薄ぼんやりと地上を照らしている。
夜風が農村の周りに広がる平原を駆け抜けて、青々と茂る草花を優しく撫でていった。
その風は山々の麓の森から、草木の匂いを運んでくる。
そんな平原の中に、小さな農村があった。
大きな風車が中心に家々が囲うようにして並び、その周りには果実を実らせる木々が生えている。
収穫時期にはまだ遠いのか、実る果実はまだ青く、硬そうだ。
大きな屋根の建物からは、家畜の鳴き声が時折聞こえてくる。
井戸の周りには小さいながらもベンチが並び、昼間には仕事の休憩に来た村人たちで大いに賑わうのだろう。
だが夜も深い今は、農村の家々に明かりはない。
いや、一つだけ明かりの点いている家がある。
木造の簡素な造りをした二階建ての小さな家、その二階の窓からオレンジ色の明かりが漏れていた。
ランタンに灯された火が揺れているのだろう、その明かりはゆらゆらと不安定だ。
そんな僅かな明かりの灯った部屋の中、真っ白なシーツの敷かれたベッドの上には二人。
まだ幼くあどけない少女と、皺の深い老婆だ。
少女は大きなベッドの中で老婆に身を寄せながら、ワクワクした様子で話しかける。
「ねぇお婆ちゃん、今日のお話はなぁに?」
老婆はその言葉に人好きのする笑みを浮かべると、少女の柔らかな髪を撫でながら言った。
「そうですね、何にしようかしら。もう随分とお話を聞かせてきたから、迷ってしまいますね。」
「私ね、冒険するお話が聞きたいな。」
嬉しそうに言った少女を見て、老婆は僅かに驚いた表情をする。
「あら、そんなことを言うのは初めてよね、何かあったのかしら?」
「うん!あのね、よくお婆ちゃんに会いに来る大きなオジサンがね、この前旅のお話をしてくれたの!それでね、続きが聞きたいって言ったらお婆ちゃんの方が詳しいよって言ってたの!」
「あらそうなの。ふふ、ご期待に沿えるかしら。」
興奮した様子の少女の笑顔に、老婆は少女の言う大男を思い浮かべて微笑むと目を閉じる。
それは昔を思い返すような、そんな穏やかな表情だ。
やがて老婆は目を開けると、優しい声音で語りだした。
「昔、とある旅人がいました。彼女の名前は、エルステリア=サマースノー。小さな村に生まれた彼女は、いつしか広い世界を見て回りたいと願い、大人になった頃、ついにその願いを叶えに行くことにしたのです。」
深い森があった。
樹齢何十年にもなるであろう太い幹を持つ木々が、大きな葉を幾重にも茂らせて、空を覆い隠している。
薄暗くじめじめとした空気は、土の濃い匂いを含んで、この森の深さを強調しているようだ。
そんな森の腐葉土の積み重なった地面の上を、一人の女性が歩いている。
足元に注意して、時折小枝を踏み鳴らしながら、彼女は額に浮いた汗を手の甲で拭った。
女性にしては、背がすらりと高い。
細く引き締まった体つきが、フードの付いたマントの隙間から覗いている。
明るいブラウンの髪を首元でおさげにした彼女は、口元を固く結んで、そのマリンブルーの瞳で前を見た。
「……これは、いよいよ迷子ですね。」
冷静に途方に暮れて、彼女は背負っていたバックパックから古く傷んだ紙を取り出して開くと、呆れたように溜息を吐いた。
「この森を抜ければ町が見えてくる…って、森としか書いていませんよこの地図。」
彼女の手にある地図には、恐ろしく大雑把な地形しか描かれていない。
森や山とは書かれているが、川や道といった指標となるべき情報は一切含まれていないのだ。
何故あの商人を信じてしまったのだろうと、彼女は数日前の自分に呆れてしまう。
「情報が欲しいのならそれなりの対価を頂かないと、ねぇ?」
数日前のとある町。
そう言って揉み手をするニヤケ顔の商人に彼女は確かにと頷いて、僅かに残っていた路銀と、道中で手に入れた薬草などを差し出し、引き換えに町への道筋と地図を受け取ったのだ。
正当な対価を払って得たものということに、その時の彼女は安心していた。
そして受け取っていた地図を開かぬまま、商人の説明通り森へと入り、ものの見事に遭難しているという状況だ。
彼の情報が嘘だったのかどうかは既に判りようもない。
もう少し物事を疑うべきだろうかと彼女は肩を落としたが、しかしすぐに歩き出した。
「過ぎたことを考えても仕方がないですね、先に進みましょう。」
合っているかも判らぬままに、見通しのきかない森の中を進んでいく。
水も食料もそろそろ底を尽く、もたもたしていれば本当にお終いになるだろう。
このままでは明日を超えられまい、ならば体の動くうちに先を急がなければならない。
「町に着いたら路銀を稼がなければいけませんね。あぁでも、まずは温かい食事を。」
そんな風に自らを鼓舞しながら歩いていく。
すると不意に、微かな物音がした。
森の中では聞こえるはずもない、金属の触れ合うような音。
彼女は歩みを止めると、周囲の木々へと視線を向ける。
「気づいてますよ、出てきたらどうですか?」
そう彼女が呟くと、彼女の周りからは途端に先と同じ金属音が幾つも鳴った。
そして音に続くようにして周囲の木々の裏から数名の男たちが姿を現し、友好的とは思えぬ笑みを浮かべた。
剣やナイフを携えて、動物の皮などで拵えた服に身を包んだ男たち。
彼らは値踏みするように彼女を見ながら、逃げ道を塞ぐように周りを取り囲んだ。
「おやおや、こんな森の中を女が一人とは、お困りかな?」
「はっはー、こいつは随分といい女だな。こりゃ久し振りに楽しめるかもなぁ。」
「ふはははは、よしてやれ、怖くなって震えちまうぞ。」
好き勝手にそんなことを言う男たちを前に、彼女は恐れる様子もなく呆れたように溜息を吐いた。
その態度が癪に障ったのか、男たちは急に目つきを変えて彼女を睨み付ける。
「おい女、テメェ随分と余裕じゃねぇかよ。もしかしてこの状況が解ってねぇんじゃねぇか?」
「正しく理解していますよ。程度の低そうな野盗が、私を囲んで弄ぼうとしているのでしょう?」
冷めた瞳でそう告げた彼女は腰に差していたダガーを両手に構えると、僅かに腰を落として睨み返した。
すぐさま野盗も各々獲物を構え、悪意に満ちた目で彼女を見据える。
「面白れぇ、傷物になっても知らねぇぞ女!」
「傷の一つや二つ、旅をしている以上仕方ないでしょうし、どうぞお気になさらず。」
「クソが、やっちまえ!」
怒り心頭の野盗たちが、一斉に彼女へ襲い掛かる。
刹那、彼女の姿が野盗たちには捉えられなかった。
バネが弾けるように前へと跳び出した彼女は、正面にいた男の懐に一瞬で入り込んだのだ。
驚いて足を止めた男の顎に向かって、彼女の強烈な蹴りが炸裂する。
鈍い音が響き、一撃で気絶した男が宙を飛んで、離れた地面に力なく落ちた。
何が起こったのか理解が追い付かない野盗たちに、彼女は優しく微笑んでみせる。
「まだ続けると言うのなら、お相手しますよ?」
「………ふざけやがって!」
仲間がやられたことに我を忘れた一人が、剣を突き出しながら走ってくる。
自分たちより遥かに細く弱々しい女一人に負けるはずがない、そんな考えが彼を単調な攻撃へと駆り立てた。
彼女は容易くダガーで剣先を弾くと、体勢を崩して倒れこんでくる男をふわりと躱し、その首筋にダガーを当てる。
そして動けなくなっている残りの野盗に微笑むと、彼らは倒れた仲間を置き去りにして、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
辺りに静けさが戻り、彼女は倒れている男に目を向ける。
戦意喪失して動かない男を見て、彼女は静かにダガーを腰へと戻す。
「はぁ、疲れているというのに、まったく。もういいですよ、仲間を助けて行ってください。」
「……殺さないのか?」
「殺してほしいのですか?それなら望み通りにしますが、できればそうしたくはありません。」
「………すまねぇ。」
立ち上がって少し離れた彼女を見て男はそう礼を言うと、気絶している仲間を担ぎ上げてゆっくりと歩き出した。
仲間を見捨てたとあっては、今後仲間としてやっていくことはできないだろう。
これで被害に遭う人が減ればいいだろうと満足した彼女は再び歩き出し、しかしすぐに振り返って男を呼び止めた。
「すみません、ちょっといいですか?」
驚いた男が振り返り、何だと答えた。
「…町はどっちに行けばいいでしょうか?」




