第8話 teenage blue(1)
<1>
「あなたは……こないだの高校生でしょ」
英二は、自分に話しかける人影に、ゆっくりと目を向けた。すると、そこには、始業式の朝の痴漢騒動の時に、渋谷駅のホームで出逢った、二十歳くらいのあの女性が立っていた。
――やっぱり、運命だったのか!?
英二は、自分の前に立っている、ずっと探し求めていた女性の顔を、雨でびしょびしょに濡れた顔で思わず見つめてしまう。
とても品良く化粧された、色白で整った顔立ち。
そこに美しく描かれた眉の形。
彼女が本来持つ大きな瞳を、さらに印象的に見せるように、ボリュームをつけたまつ毛。
肩の先で、ゆるく巻かれている、落ち着いたブラウン色した綺麗な髪。
少し胸元が開いた、黒のタイトなセータが引き立てる、すらりとした彼女のスタイルの良さ。
彼女を美しく包み込むかのように、肩にかけられたストール。
どれをとっても、今まで英二が学校の女子生徒たちには感じなかった、大人の女性を感じさせる魅力だった。
彼女は、まるで英二を包み込むかのように、真っ赤な傘を英二に向けて立っていた。
「風邪ひくわよ……」
英二にそっと呟やく彼女の眼差しは、とても静かで優しい眼差しだった。
「ほっとけよ! あんたの肩が濡れるだろ」
英二は、自分がとっさに出してしまった言葉が憎らしかった。
本当は、今、誰かに優しくされたかった。
本当は、今、誰かの心に自分の存在を映して欲しかった。
しかし、自分が出した言葉は、せっかく差し伸べてくれている手を……、今自分が一番望んでいた人からの手を、冷たく振り払うような口調であり、言葉だった。
――あなたにもう一度逢いたかったんだ……
心の奥にある気持ちは、英二の口からは、まっすぐとは出てこなかった。
「……強がらなくてもいいのよ。あなた、本当は、今とても淋しい気持ちだったんでしょ。……まるで、雑踏の中に捨てられた、捨て猫みたいな顔してるわよ」
彼女は、アスファルトに座り込む英二の前に、そっとしゃがみ込み、優しく微笑んだ。
「なにがあったか知らないけど、こんなに濡れちゃって……」
そして、バックからハンカチを取り出し、英二の顔を拭いてあげる。
「あなた、こないだ着てた制服は、南青山学院の生徒でしょ。何年生?」
「……三年」
「そう、じゃぁ、受験生だね。こんなとこで身体壊しちゃったら、大変よ」
「んな事、知ったこっちゃねーよ。それより、何で南青山ってわかるんだよ……?」
「……ふふふ、私も、南青山だから。あなたと一緒。っていっても大学の方だけどね。南青山学院大学の二年生」
ずっと探していた憧れの女性を前に、照れているのか、少し拗ねたような口調で話し続ける英二だった。
「……あっ、名前?」
「私の……?」
「……あぁ」
「瞳、綾木瞳。あなたは?」
「赤木英二……」
「ふふ、英二くんって言うんだ……」
「なんだよ、人の名前呟いて笑うなよ」
ひとつの小さな傘の中で、互いの心に抱える淋しさを、まるで刹那にかき消し合うかのように、二人はそっと笑い合っていた。
埃っぽい街を打ちつける雨音は、どこか悲しいブルースの音色のように聞こえる夜だった。
<2>
『こないだ来た時なんかは、数枚の一万円札をテーブルに広げられてね、これでいいだろって、いきなり抱きしめてくる男性もいたわ』
自分の部屋で、机に向う拓巳の頭には、出逢いカフェにいた幸子の言葉が、先程からずっと頭に残っていた。
英二が出逢いカフェを飛び出した後、拓巳も塾の時間になり、順平を置いて退出したのだが、塾で授業を受けている時も、塾が終わり、自分の部屋で勉強している今も、ずっと幸子の言葉が頭に響いているのだ。
どうしようもなく落ち着かなくなり、勉強に集中できなくなった拓巳は、いつものように、机の引き出しの奥に隠してあるヌード写真集を見て、気晴らしをしようと、机の引き出しを開けた。
「……ない!?」
拓巳は、引き出しに入れてあった参考書や問題集を、全て部屋に撒き散らし、必死に引き出しの中を探すが、三冊入れていたお気に入りの写真集が一冊もないのだ。
「拓巳さん……、あなたが探しているものはコレかしら?」
ふと、自分を呼ぶ声に、拓巳は後ろを振り返ると、そこには、自分の母親が立っていた。
母親は、まるで拓巳に見せつけるかのように、拓巳が大切に隠していた、三冊のヌード写真集を手にしていた。
「拓巳さん……、お母さんは前にも言ったわよね。こんなもの持ってるから、あなたの偏差値は下がってゆくのよ」
ヌード写真集を見つめる母親の目は、人間のものとは思えないような、冷たい目をしていた。
「お母さん、それはっ……」
母親にヌード写真集を見つけられた拓巳が、動揺を隠せず、思わず声を出した瞬間だった。
「けがらわし!!」
なんと、拓巳の母親は、狂気に満ち溢れんばかりの鋭い眼差しで、そのヌード写真集をびりびりと、拓巳の目の前で破き始めたのだ。
「けがらわしい!!」
母親の狂気に満ちた眼差しで、何度も何度も繰り返されるその言葉と、写真集が破かれる時の、びりびりという騒音にも似た音が、まるで拓巳を狂わせてゆくかのように部屋中に響き渡る。
――うああああああ!
拓巳は、部屋に座り込み、唇をかみ締め、両手で両耳をふさぎ込み、心の中で悲鳴をあげる。
――ヤメロ! オマエハヤクデテイケ!
拓巳は心の中で、何度も何度も呟いた。
……しかし
「ごめんなさい。ごめんなさい」
出てくる言葉は、何故か母親への謝罪の言葉だった。
涙で溢れた目で、母親へ謝罪することしかできない拓巳だった。
「そうよ。それでいいのよ拓巳さん。あなたを惑わすものは、お母さんが全て取り払ってあげるから。あなたは、東大の受験の事だけ考えればいいの」
先程とはうって変わり、急に優しい眼差しに変わった母親は、部屋に座り込み、泣きじゃくる拓巳を、思いっきり抱きしめた。
「……お母さん、心配かけましたね。僕は、もう大丈夫ですから。必ず東大に合格するよう必死で勉強しますね」
母親の腕の中で、全く生気を感じさせないような目で、そう告げた拓巳は、急に立ち上がり、自分の机に戻り、てきぱきと問題集を解き始めた。
拓巳のその姿に、ほっと安堵のため息を漏らした拓巳の母親は、満面の笑みを浮かべ、静かに拓巳の部屋から出て行った。
母親が部屋から出て行った事を確認した拓巳は、解いていた問題集を閉じ、部屋の窓にそっと目を向ける。
窓を打つ雨音は、空虚な拓巳の心の中に、いつまでも虚しく響いていた。
『家には帰りたくないから…』
『……東大』
『僕と一緒だ……』
窓をぼおっと見つめていた拓巳の心に、先ほどの幸子との会話が、ふと、また思い出されてきた。
拓巳は、しばらく何かを考え込んだかと思うと、まるで何かに決意したかのように、拳を強く握り締め、窓を叩く雨を、鋭い眼差しで見つめ続けた。