第4話 存在(2)
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「あいつは……、こないだの勃起男――!?」
英二と順平が、顔を見合わせ驚く声が、屋上に響く。
二人の視線の先には、屋上のフェンスを乗り越え、僅か六十センチくらいの足場にしゃがみ込み、小さな身体をぶるぶると震わす拓巳の姿があった。もしも、一歩でも足を踏み出せば、まっさかさまに下に落ちてしまいそうな場所に拓巳はいたのだ。
「私、先生呼んでくる!!」
今にも屋上から落ちてしまいそうな拓巳の姿に気づいた里美は、悲鳴にも似た声を上げ、足早に屋上をあとにした。
「お―ぃ! 勃起男、お前そこでナニやってんだ!?」
「痴漢の次は、自殺かぁ? 危なねぇから、早くこっちに戻って来〜い」
一歩一歩拓巳に近づきながら投げかける言葉は、いつものようにおどけている英二と順平だが、今にも屋上から落ちてしまいそうな拓巳の姿に動揺を隠せない。二人の額は、じわりとイヤな汗で湿ってきていた。
さっきまでは心地よかった春の風も、今は、まるで小さな拓巳の身体を屋上から落とそうとしているようで、春の風が屋上を通り抜ける度に、英二と順平は心臓の止まる思いがした。
「来るな――!! 僕に近づいたら飛び降りるぞ!!」
瞬間、拓巳は立ち上がり、掴んでいたフェンスから手を離そうとする。
「ナニやってんだ、お前ぇ!!」
英二は、拓巳を睨みつけるような眼差しで、拓巳がいるフェンスまで駆けてゆく。
「来るなと言っただろ! 本当に飛び降りるぞ!」
しかし、その言葉とは裏腹に、狭い足場に立ち上がり怖くなったのか、拓巳は、フェンスにしがみつきながら、目には大粒の涙をためて震えていた。
「ホントは、怖ぇんだろ? 一体ナニがあったんだよ?」
英二は、優しい表情を浮かべ、フェンス越しの拓巳に話しかける。
「…………」
しかし、拓巳はフェンスにしがみついて、小さな身体を震わすだけで、ずっと黙り込んでいた。
「あん時さぁ、駅のホームで言ったじゃん。オレたち同じ高校の『トモダチ』じゃね〜か。なんか辛い事でもあったんなら、聞いてやるし、力になってやるぜ」
順平も、英二の横に並び、フェンス越しの拓巳に言葉をかける。
屋上は、心地の良い暖かな春の日差しで溢れていたが、フェンスを挟んだ三人の周りだけは、ピンと張り詰めた冷たい空気に包まれていた。
数分の沈黙のあと、口を開いたのは拓巳だった。
「……こないだ、駅のホームで助けてもらった事は、礼を言うよ」
「あぁ……」
「だけど、勘違いしないでくれ。僕は、君たちの事を「トモダチ」だなんかとは思っていないから。君たちと僕とでは、生きている世界が違うんだ。だから、僕が、今、たとえ苦しみ悩んでいてたとしても、君たちが、僕を理解しようだなんて、そんなおこがましい事は言わないでくれ」
「……んだと、このヤロー!!」
自分たちを、まるで見下しているかのように話す拓巳の言葉に、短気な英二は、怒りを抑えられなくなり、拓巳がしがみついているフェンスを、力いっぱい蹴飛ばしてしまう。
拓巳の身体は、その勢いで大きく揺れ、足のつま先が、狭い足場からはみ出てしまい、下に落ちそうになった。思わず大きな悲鳴を上げた拓巳は、フェンスを掴んでいた手に思いっきり力を入れた。
「おいっ! 英二、お前、勃起男を殺す気か?」
拓巳の言葉で、興奮した英二は、順平に身体を押さえつけられながらも、拓巳を睨みつけ大声を放つ。
「ナニが君たちと僕とでは住む世界が違うだと? あぁ!? 見下したように、言ってんじゃねぇぞ! おんなじ十七歳の高校生だろうが!」
「……同じ高校生? 馬鹿な事言うなよ。僕の偏差値がいくらあるか君はしってるのかい? 君たちのような下等な人間と同じにしないでくれ」
「なんだと、コラァ!!」
「だいたい、おかしいんだ。世の中は! いつだってそう、僕のように優秀な人間はいつも苦しまなきゃいけない。君たちのように、何も考えず、ただ、だらだらと毎日を過ごしてる人間もいるというのに、僕は……、僕は、ここで死ななきゃいけないなんて不条理すぎる……」
フェンスを両手で握り締め、うつむき呟くように話す拓巳の目からは、ぽたぽたと大粒の涙がこぼれていた。
「死ななきゃいけない……? ナニ言ってんだよ。死ななきゃいけない人間なんている訳ねぇだろ……」
拓巳のひとつひとつの言葉の節々に、少し苛立ちも感じる英二だったが、まるで世界中の悲しみを、その小さな身体に背負い込んでいるような拓巳の姿に、英二は胸がいっぱいになり、無性に何か拓巳の力になりたくなった。
「君たちには理解できないかもしれないが、僕は死ななきゃいけないんだ。偏差値が……偏差値がどんどん落ちてゆく僕に、生きてゆく価値などないんだ! 僕ら進学希望の受験生たちは、常に偏差値というものさしだけで計られ生きてゆく。つまりは、偏差値を上げること意外に僕らの存在意義はないんだ。そこには、自分という人間性もなにもない。ただ、数字だけの世界なんだ。むろん、今さら個性や夢などとか言っても、僕自身が偏差値でしか自分を表現することや、他人を評価することができないんだけどね……。僕らはみんな『はだかの王様』さ。偏差値という服を脱ぎ捨てれば、そこには何もないんだ。自分さえもね……。だから、だから偏差値という服を失った僕は死ぬしかないんだ」
「ナニを馬鹿な事、言ってんだ。偏差値だけがすべてな事なんかあるもんか」
「最初に言ったろう。住む世界が違うんだ。僕が住む世界は、偏差値だけがすべてなんだ」
英二は、拓巳のその言葉を理解することも、反論することもできなかった。
英二自身が、自分は何のために生きているのか、高校を卒業した後、一体何をしたいかさえも分からなかったからだ。
むしろ、自殺まで考えるほど、目標に向かってまっすぐに突き進もうとしている拓巳が羨ましくも思えた。
――今の自分は、命をかけてまで何か熱中するものなどあるのだろうか?
英二の心の中には、いつも行き場のない虚無感が漂っていた。
「……それに、僕は、病気なんだ」
「……!!」
その言葉に、英二と順平は驚く。
「……イカないんだ。全く……」
「イカない……?」
英二と順平は、目を丸くして拓巳を見つめる。
「……つまりは、射精不全なんだ」
「射精不全――!?」
「あぁ、勃起はするが、その……、いくらシテもイカない……」
「……???」
突然の拓巳の告白に、英二と順平は言葉を失ってしまった。
しかし、そんな二人をよそに、拓巳はまるで、今まで心の中に溜め込んでいたものを吐き出すかのように、二人に話しはじめた。
「一ヶ月ほどくらい前だったんだ。自分の部屋で東大の過去問を解いている時にね、難問にさしかかり、どうしてもその……、オナニーをたくなったんだ。だけどね……、その時僕はシテいたところを、母親に見つかってしまったんだ。それからなんだ……、何度シテも、何度シテもイキそうになると、必ずあの時の母親の悲しげで冷たい表情が浮かんでしまい、急にしぼんでしまうんだ。そうなってくると、もう僕の身体はどんどんおかしくなってくる。僕の精巣に溜まった精子たちは、きっと今の僕のように行き場を失ってしまっているんだろうね。早く排出を望み、陽のあたる場所へ出たがっているかのように、イカないのに、どんな些細な刺激でも、僕を勃起させてしまうようになったんだ……!!」
「…………」
「……だから、僕はもう終わりなんだ。偏差値もさがり、身体も変な風になってしまった僕が、これからどう生きて行けばいいというんだ。……でも、最後に、君たちに話を聞いてもらえてすっきりしたよ。ありがとう」
拓巳は、話を終えると、涙に濡れてくしゃくしゃになった顔を上げ、空を眺めた。
そして、何かを決意したかのように、少し頷くと、フェンスを掴んでいた両手を、そっと離そうとした。
「ちょっと待ったぁ――!!」
今まで、ずっと黙り込んでいたいた順平の声だった。
その声にびっくりした拓巳は、離そうとしていた両手で、またフェンスを力強く掴み、目を丸くして順平を見つめる。
「おいコラ! 勃起男! ナニが君たちに話を聞いてもらえたからすっきりしただ!? すっきりしなきゃいけねぇのは、お前のポコチンだろ!!」
「な、なななんだよ、急に君は?」
「お前、セックスした事あんの?」
順平は、腰をかがめ少し上目で、拓巳に笑いかける。
「……ないよ……」
「オレもないよ。だからさぁ、お前、セックスもしねぇで、死んでゆくなんてもったいなくねぇ? セックスしに行こうぜ、オレらとよぉ。そうすりゃ、お前のイカないビョウキってのも、もしかしたら治るかもしれねぇぜ! だってよぉ、セックスって、超気持ちイイらしいじゃん。オレらの右手の何百倍も気持ちいいんだってさぁ!!」
順平は、驚き戸惑う拓巳の手を、フェンス越しにがっしりと握り締め、豪快に笑い出した。
――いつだってそうさ
よく考えりゃぁ
あの頃の俺たちに
出来る事って言ったら
オナニーくらいしかねぇよ
だけどさぁ
これからは
ぱぁっと一緒に飛び立つんだ
独りでウジウジ考えんのはやめてさぁ
みんなで一緒に探すんだ
俺たちが
これからを生きていくための意味を!!