第3話 存在(1)
<1>
「よ―い、はじめ!」
英二らが通う私立南青山学院高校の、特進クラスでは、大学受験に向け模擬試験が行われていた。
三十名ほどが集まる、緊張の貼りつめた静かな教室は、試験監督の教師の合図が響き渡ったと同時に、生徒たちが鉛筆を走らす無機質な音で一斉に包み込まれた。
午前八時から始まったこの模擬試験は、すでに二科目のテストを終了し、午前中最後の科目の英語のテストを向かえていた。
そして、その教室の中には、先日の痴漢騒動で英二らから救われた男子生徒、水野拓巳の姿もあった。
東京都内の中でも、偏差値的には、中の上に位置する、南青山学院高校では、毎年僅かながらも、現役での東大合格者を輩出しており、三年生になると一クラスだけ設置される、この特進クラスの三十名の生徒たちは、『目指せ東大合格!』を合言葉に、受験戦争の中を必死に勝ち抜こうとしていたのである。
将来はプロボクサーを目指す順平や、卒業後の進路を決めてすらいない英二とは違い、この特進クラスの生徒たちは、寝る暇も惜しむ程の勉強漬けの毎日だった。
必死に机に向かい、鉛筆を走らす生徒たちの中で、拓巳の様子に異変が起きたのは、試験開始から、四十分を過ぎたところだった。
ひとつひとつ調子よく問題を解いていた拓巳だったが、難問に差しかった時、途中でふと机から顔を上げたのだ。
するとその時、拓巳の視界に、前を座る女子生徒の背中が映った。しかも、その女子生徒は、模試を受験する生徒たちの熱気で教室の中が暑かったのか、ブレザーを脱いでいたため、拓巳の視界には、彼女が背中を丸めて机に向かう度に、白いブラウスから、うっすらとブラジャーの線が見え隠れするのが飛び込んでくるのだ。
拓巳は、自分の前に座る女子生徒の、白いブラウスから浮かび上がる、淡い水色をしたブラジャーの色や立体的な形に、思わず釘づけになってしまった。
身体中の血が全身をドクドクと大きな音を立てて駆け巡っているかような感覚に支配された拓巳は、自分の意思とは関係なく、気がつけば、股間が大きく大きく膨らんでしまっていた。
そして、次第に顔中が熱を帯びたように火照ってきた拓巳は、たまらなくなり、誰にも気づかれないように、そっと右手をポケットに忍ばせ動かし始めた。
<2>
「あ〜っ、順平、お前、そのカレーパン俺のだかんな、絶対ぇ食うなよ!」
「ちょ…ッ、バカ英二! ちゃんと順平と分けなきゃダメでしょ。ナニ独り占めしようとしてんのよ!!」
午前中の授業の終了のチャイムが鳴ったと同時に、英二、順平、里美の三人は、里美が買ってきた幾つかのパンと牛乳を抱え、屋上に向かう階段を駆け上っていた。
「そうだ、そうだ、バカ英二! お前は、駅の蕎麦でも食って、一生ストーカーでもしとけ!!」
順平は、真っ先に階段を駆け上がっていた英二を追い越し、英二の肩をポンと押す。すると、それを一番後ろで聞いていた里美は、弾むように一段飛ばしで階段を上がり、順平の横に並び、英二に作り笑顔を投げかける。
「へ〜! 英二、あんた好きな人なんかいるんだ?」
里美は、両足を思いっきり広げ、腕を組んで仁王立ちで英二を見下ろした。
「里美ちゃん、好きな人とかってゆうレベルじゃないべ、コイツはただのストーカーなんだから」
そして、そんな里美の横では、英二を指差しながら豪快に笑い出す順平がいた。
「な〜んだ。つまんないの!」
「うっせーよ、お前ら」
順平の言葉を聞いて、ほっとしたように無邪気な笑顔を浮かべる里美とは対象的に、英二は、独り取り残された踊り場で、ポケットに両手を突っ込み、少し斜に構えて順平と里美を見上げていた。
屋上の扉の窓から差し込む眩しい程の太陽の光は、三人をまっすぐと照らし、それぞれの影を長く映し出した。
「な〜に寂しそうに呟やいてんだよ、英二。今日中には、また再会できる自信があんだろ。早く上がって来いよ」
少し寂しそうにする英二に気付いたのか、順平は、英二に優しく笑いかけ、屋上の扉に手をかけた。
<3>
校舎の屋上は、一歩足を踏み入れると、グランドを美しく彩る満開の桜の香りを、春の暖かな風が運び込み、優しい桜の香りで溢れていた。
「気っ持ちいい〜!」
里美は、桜香る春の風に髪がさらわれないように、額に右手を添えながら、満面の笑みを浮かべ、屋上を見渡していた。
「ホントに……春の日の屋上って、気持ちがいいよなぁ」
「あぁ、こっから、こうやって空を眺めてると、イヤな事なんてな〜んにも忘れちまいそうだぜ。」
気がつけば、英二たちは、三人横並びになり、春の爽やかな空に両手を伸ばし、大きく伸びをしていた。
すると、そんな時だった。何気なく、屋上のフェンスに目をやった順平が、眉間にシワを寄せ英二に呟いた。
「……おい、英二。あそこに、誰か立ってねぇか?」
「あぁ〜!?」
順平が指差す方向に、英二もゆっくり目線を合わせてゆくと、確かに屋上のフェンス近くに、何やら人影が動いているのが英二にも見えるのだ。
「……おい、あれ、フェンス乗り越えちゃってねぇか……?」
英二は、順平に顔を寄せ呟く。
「あぁ……、乗り越えちゃってるね、あのヒト」
順平は、英二の目を見つめた後、二人は恐る恐るフェンスの方へ近づいた。
すると、フェンスを乗り超えた向こう側で、何やら誰かがしゃがみ込んでいる姿が、二人の視界に入ってきた。思わず、息を飲んだ英二と順平は、顔を合わせ、驚きのあまり声を上げた。
「アイツは……、こないだの勃起男!?」
なんと、屋上のフェンスの向こう側では、小さくしゃがみ込んだ拓巳が、身体をぶるぶると震わせていたのだ。