巳の二十四
唯火達が渦の中心へと侵入してしばらく後、あれほど吹き荒れていた黒い暴風は穏やかな風に変わっていた。
見守っていた桃葉はもう大丈夫だろうと移動を開始し、一人残された京奈の所へと戻っていた。
「いつまで寝ているつもりだ、四崎妹」
「……うるさいわね。放っておいて……」
木にもたれ掛かり、顔を伏せている京奈の姿。自然とため息をこぼす。
とは言え、仕方のないことなのかもしれない。今まで信じていたものが、縋っていたものが突然なくなったのだ。兄である京勝はとりあえず立ち上がることが出来たが、普通ならば顔を上げることすら難しいだろう。
なんとなしに頭上を見上げ、渦の中心を見る。既に風は止んでいるため黒い球型の中央部分がよく見えた。
(……ん? 雨か?)
ふと、視線を落とすとなにかが桃葉の視界を掠めた。それを追って視線をさらに下げ、地面を見ると一つ小さな点が滲んでいる。さらにポツン、ポツン、とリズムよく落ちて来るのを眺め、もう一度空を見上げた。
空は晴れていて、また天気雨だろうか。そう思った、その時――
「いやぁあああ!」
突然、京奈の絶叫が響いた。
「いや、いや、いやぁあああ! やめて、そんなこと言わないで! 私はまだ生きてるのにぃいい!」
「なんだ? 突然どうした、四崎妹! ――――っ!?」
叫び、跪く京奈に近寄ろうとして、その直前に足を止めた。その理由は、頭の中に聞こえる声。
――シネバイイ、イキテルカチモナイ、キモイ、ウザッタイ、ゴミイカノクズメ、オマエナンカイラナイ、キエロ――
男の声、女の声、老人、子供、大人、様々な声が頭に直接ねじ込まれる。あまりの出来事に平行感覚を失い、桃葉の体はよろめいた。
「なん、だ――これは!?」
言葉自体に意味はないのだろう。この声はただ相手を罵倒することしか出来ないようだ。しかし、声が響く度に全身を冷水がかけられるような冷たさを感じる。それは、今まで感じたことがないほどの、悪意の塊だった。
「いや、いやぁ……ごめん、なさい……ごめんなさい、みんな……」
既に心が弱っている京奈にこの悪意を受け止められるはずもなく、ただ嗚咽を響かせることしか出来ない。かく言う桃葉も、声に追い込まれていた。
「う、あ……やめろ、私を、そんな風に言うな! お前達が私を……!」
頭の中の声は途切れることなく桃葉を罵る。一言言われる度に頭を殴られたかのような衝撃が走り、今にも頭を抱えて転げ回りたくなるほどだ。
――イキテルカチガナインダ、ソンナモノタダノガラクタダ、ドウセヤクニタタナイ、ゼンブコワシテシマエ――
「うる、さい……!」
――オマエトオナジダ、ナンノカチモナイ――
「だま、れぇえええええええ!」
叫びと共に、轟、と霊力の風が周囲の雨を吹き飛ばす。そして、
「私の価値を、お前達が勝手にぃ、決めるなぁああああああ!」
握られた拳を力いっぱい振り下ろした。
ゴガン、と大きな音を立ててコンクリートの地面は陥没し、クレーターを形作る。それと同時に散々喚いていた声は掻き消えた。
「はぁ、はぁ……。聞こえなく、なった? ……はは、私としたことが少しやり過ぎたな」
ふぅ、と深く息を吐き出し、京奈を見る。先ほどより大分落ち着いているところをみると、彼女も声が聞こえなくなったのだろう。
「しかし、なんだったんだ?」
頭の痛くなる声。しかもあれは明確な悪意を持っていた。生きていく上で他人から悪意を向けられることはあったが、今さっきの悪意は桁外れだ。
そこまで思考を巡らせ、自然な動作で空を見る。そして、今度こそ動きを止めた。
「……なんだ、これは? なんなんだこれは!?」
叫び、空から落ちて来る水滴を見る。その色は深い闇を練り固めたようにドス黒く、ヘドロのように汚らしかった。
「……っ! お前か」
「無事、のようだな」
ガサリと音のした方を向くと手で頭を押さえた京勝がそこにいた。顔は青く、自分では分からないが桃葉の顔も同様なのだろう。
京勝は一瞬桃葉に視線を向け、すぐに京奈へと近寄って背に乗せる。
「移動するぞ。この雨に当たっているとまた声が聞こえる」
「にぃ、さま……これ、なんなのですか?」
兄の背に顔を押し付け、息も絶え絶えに京奈はそう尋ねる。
「分からん。が、あの妖受胎者の霊力が関係していることから、奴の心でも聞こえてるのだろう」
京勝の答えは往々にして存在する現象だ。霊力とは心が大きく関係していて、感情によって変化することもしばしば起こり得る出来事なのだ。
「あいつが、こんなにひどい悪意を……?」
すぐ側の屋根がある建物に避難し、ようやく落ち着いてきたのか息を整えながら疑問の声を上げる。
京奈から見て唯火は悪意とは無関係に思えてならない。いつもヘラヘラ笑い、殴られても罵声を浴びせられても憎むどころか怒ろうともしない。時折叫んでいるが、あれもただのツッコミだ。そんな彼がここまで濃密な悪意を放てるものなのだろうか。
そんな京奈の疑問を桃葉はあっさりと解決してしまった。
「そう、か……人から嫌われる、これが本当の効果なのか?」
「……?」
「え? なにが?」
なにかを思いついたのか目を見開く桃葉に二人は首を傾げる。それに気づいているのかは不明だが、ポツポツと自分の考えをまとめていく。
「『人から嫌われる体質』。ただ単に嫌われるだけじゃなかったんだ……人から嫌われるということは人から必要とされない、支えてあげられない、つまりは価値がないということ。そして価値がないものならば悪意を、それこそ殺意に近い悪意を始終向けられているということで、この雨はそんな悪意を形作って流れた涙のようなもの。となると……」
「ちょっと! いつまでも向こう側にいないでちゃんと分かるように説明しなさいよ!」
いつまでもブツブツと自分の世界に入っている桃葉に業を煮やしたのか、京奈が大声を出して無理やり自分の方向を向けさせる。それでもまだ半分帰ってきていない桃葉は端的に結論だけを告げた。
「この雨は、羽臥野が背負っている悪意そのものだ」
「……なに?」
「……えっ?」
その答えに四崎兄妹は揃って間の抜けた声を上げる。
「もともと羽臥野は人から嫌われる体質の持ち主だ。だが、それはただ嫌われるだけの簡単な話ではない。羽臥野は、生まれてからの十数年、これほどまでの悪意を受け続けてきたんだ」
「……莫迦な、不可能だ。ただの人間があれほどの悪意を受け続けるなど」
「それは普通ならば、という前提が入る。しかし羽臥野は普通じゃない。ずっとあれほどの悪意を受けてきて、心がそれに対する防衛手段のようなものを作り上げた。その結果が、あの壊れた心、壊れた人格、壊れた思考。なるほど、あの思考も、心も、全てはこの悪意を受けるために自ら壊れていったのか」
ありえない、そう言うことが出来ればどれだけよかったか。しかし二人は既に見てきている。狂ってしまった本人を。
「あっ、じゃああの時蛇が言ったのって……」
『唯火は、確かに臆病者で性格なんてとっくに歪んでるけど、それは唯火のせいじゃないのー!』
京奈の脳内に思い起こされるのは先ほど真水の言った言葉。あれは、このことを言っていたのではないのだろうか。いや、そう考えればあの時の激昂振りには説明がつくだろう。
「あんなものを、今までずっと……」
実際に受けたからこそ分かる。あの罵声を受ける苦しみを。悪意を向けられる悲しみを。さらに言えばあれは自らに非がなくても向けられるのだ。それがどれほど理不尽なことか、京奈には理解出来ない。
「……ふん、妖受胎者故の宿命か。哀れなものだな」
哀れ。確かにそうかもしれない。今まで、どれだけ傷ついてきたのかは分からない。けれど、今はきっと……。
「……なによ、なにが一人で歩けよ。それってただの嫌みじゃない、自分はいつでも一人でしたよ、って自慢したいだけなんじゃない!」
「そうかもしれないな。きっと、今まで彼を認めてくれた人は、それこそ片手で数えられるほどしかいなかったんだろう」
京奈の言葉に同調するような形で口を挟み、それでも、と心の中で付け加える。
(今のお前は一人じゃない。そうだろう?)
思い浮かべる顔は無表情。人から悪意を投げられる少年を守護する、一匹の蛇。
そう。今はきっと、一人などではない。
********
先輩達が雨宿りしているそんな時、噂の唯火君はというと、
「げほげほげほげほげほっ! ぐぇっほほう!」
ギャグさながらの咳をしていた。いやまあ、ギャグっぽくはあるけどかなり苦しいのだけど。
「唯火、唯火! ほら、落ち着いてまずは深呼吸するのー! ひっひっふー、っひっひっふー」
「げほ、それ違、ぐふ! らまず、げほっ!」
「唯火ぁああああ!」
珍しく混乱している真水に苦しげなツッコミをする。出来れば今はボケないで頂きたい。芸人根性が無理にでもツッコミをいれてしまうので。
「ごふっ、ごほっ、がふっ!」
咳をする度に、押さえた手では収まらない量の黒い液体が飛び散る。既に俺の服は真っ黒で、必死に俺の名を呼び掛ける真水の服も黒く汚してしまっている。
ああ、かわいい顔にまで汚れが……。
「まみ、ごめん……ごほっ!」
「なに急に謝ってるのー! そんなのいいから今は落ち着けのー!」
正直な所、落ち着けと言いたいのは俺なのだけど。ほら、俺はこんなにも落ち着いてる。
ってか、ホントなんでこうなったんだ?
「これ……唯火の妖力を霊力に戻しきれてないのー! こ、このままじゃ唯火が!」
焦る真水がオロオロと手をグッと握り締め――開く。
「ボン、ってなっちゃうのー!」
「マジでごほごほごほ!」
あまりの事態に咳が激しくなり、ビチャ、と液体が口からこぼれる。それにしてもこの液体、苦くて口の中がイガイガする……うえ、なんか最悪。
「どうすれば、どうすれば……!」
真水が泣き出しそうな表情で俺を覗き込む。むしろ半分泣いているかもしれない。これ以上泣かれるのは嫌なので、痛む体にムチ打つ。
「む、んむぅ~! ぷは!」
咳が出ようとするのを気合いで止め、喉の奥から上って来たものを無理やり胃に落とす。いや、これが本当に胃に行くのかは知らないけど。
ってか気持ち悪い。昔風邪引いた時のゲロ飲み込んだのと同じような感じで……あ、汚いですね、すいません。
「ゆ、唯火?」
「と、とりあえず落ち着こう真水。俺は大丈夫だから、な?」
ニッコリと笑い、頭を軽くなで……ようとして手を止めた。両手とも真っ黒だし、これ以上真水を汚したくない。
「う、うん、のー」
「しかしなんだかね、これ? 急に体から出て来たけど?」
「多分、唯火の妖力がそのまま形を持ったんだのー。もともと妖力は妖のもの。人間である唯火に馴染まず、溢れ出したんだのー。作戦ではこの妖力を霊力に変換するはずだったけど、きっと妖力が大きすぎて変わらないんだのー」
なるほど、分からん。一つ分かった事と言えば、俺がボンコースまっしぐらだってことくらい。
話しているとまた発作のようなものがやって来た。
「げふげふげほ!」
とっさに横を向いたので真水にかかることはなく、地面(のような場所?)にバシャ、と広がる。黒い液体はやがて外に出されたのか、いつの間にか消えている。
「くっ、落ち着けのー。今唯火を救えるのはみだけ、みだけなんだからのー!」
「げほっ!」
必死に考えている真水には悪いけど、限界が近そうだ。アメの副作用で咳をする度に尋常じゃない激痛が走り、意識は既に朦朧としている。
「げふっ! ごめん、真水……約束、守んなきゃいけないのに……ごほっ!」
「やく、そく……? そんなの、いいのー! みとの約束なんていいから、そんな約束……約束……あっ」
言葉の途中、なにかを思いついたかのようにハッと目を見開き、ジッと俺を見つめる。
「これなら、きっと……唯火!」
そして張り上げるような声で俺の名を呼んだ。
「唯火、時間がないからみの言う通りにしてほしいのー!」
真っすぐに俺を見つめ、真水はそんなことを言って来る。真剣な眼差しに、俺は即座に頷いた。
「ごほっ、当然だろ? 頼みの綱は真水なんだから。げふっ!」
正直今は頭を働かせている余裕もないのだ。俺に出来ることなんてないに等しいし、全部真水に任せるしかない。それに、真水ならばなんとかしてくれると信じているのだ。
「よし、言質は取ったのー。とりあえず唯火、こっち向けのー」
「んあ? げほっ、どうし――むぐ!」
「ん、ちゅ……」
言われた通り真水へと顔を向けた瞬間、唇に柔らかい感触が触れた。それと同時に、目の前には目を閉じた真水がいることに気付く。
簡単に言えば、なぜか真水にキスをされていた。
「……真水さん一体なにを――むぐっ!?」
「んん……! あう、ううん!」
口の中の物を吸いだす様に、必死に唇にしゃぶり付いて来る。放そうとしてもガッシリと掴まれてそれも不可能だ。
「ぷあっ……唯火。みが唯火の妖力を全部吸い上げるから、黙ってキスされ続けてろのー」
「す、吸い上げるって……あのドログロ液体をか!?」
「それしか助かる道がないのー。大丈夫、みは唯火のものならなんでも許容できるのー。例えスカ……」
「あ、真水さんストップ。一応、今シリアスっぽいんで余計なこと言わんで」
「……ちっ、のー」
一体なにを言おうとしたのだろうか。健全な高校生である俺にはさっぱり分からない!
「という訳で唯火、いくのー」
「うぅ、事案……でもこれも生き残るため! バッチコ~イ!」
「ん、よく言ったのー。では、いただきますのー」
再度交じり合う唇と唇。甘い香りが鼻腔をくすぐり、口の中を吸われている感覚がやけにハッキリと感じられる。さらに、
「む、むむむ!?」
「ん、れろ、ちゅ……」
真水の口から生暖かい舌が俺の口へと侵入し、口内を弄ぶ。しかも真水の舌は蛇のように長いため、色々とすごいのです。
「ん……っ!? あぐっ、う、ぁああああああ!」
「真水!?」
咳も落ち着いてきたその時、キスを続けていた真水が突然唇を離して苦しそうに悶えだした。
「お、おい真水! どうしたんだ!?」
「あ、が……なん、なの、この悪意は、ぁあ!」
そう言って喉を押さえつける。悪意? いったい何がどうなっているんだ?
********
初めは順調だった。唯火とキスを交わして、ちょっと悪戯とばかりに舌も入れてみて反応を楽しんだ。しかし、ドロリとしたモノを吸い上げた瞬間、今までの幸せなキスは終わった。
ドロリとしたなにかは苦くて、本当に吐き気がするようなものだった。けどそれだけ。味なんてどうでもいいし、唯火のためならこのくらい耐えられると思ったのだ。けれど、それだけでは終わらなかった。口に入り、体中に妖力として取り込んだ時にそれは起こったのだ。
――暗い、暗い感情がみの全てを侵し、心を壊すほどの悪意が駆け巡る。
「これ、唯火の……」
「俺? 俺がどうかしたのか? ってか本当に大丈夫か真水! なんか顔がすっごい青いぞ!」
視線を上げると唯火が心配そうに顔を歪めている。とりあえず唯火の方は少し落ち着いたみたいだし、一安心だろう。それがいつまで続くかは分からないが……やはり完全に安定するまで続けた方がいいのだろう。
「なんでも、ないのー。ほら、早く続きをするのー」
「あ、ああ……」
無理やり押し切ったような形で話を進め、もう一度唇を合わせる。この瞬間はものすごく幸せだけどてんとにかくもう一度唯火の体内に溜まった妖力を吸い出してみる。
「ぐ、ぅぁあああああ!」
どろりとした液状の妖力を口に含み、自分のものとして循環する。それと同時にみの口から悲鳴が出てしまった。
「お、おい真水!」
「平気、だのー。だから続きを……」
「ふざけんな! 一回する度にそんな風になるんならもう止めるぞ! なにがどうなってるんだよ!」
唯火は珍しく怒った表情でみを睨む。その本気な目に気押されてしまった。このままなにも言わないと本当に止めてしまうかもしれない。そう判断し、みは仕方なく説明をすることにした。
とりあえず一言で説明出来るのは……。
「唯火が異常なんだのー」
「いやいやいや、なんでいきなりそうなるんだよ?」
むしろそれが全てなのだが。
「唯火、この妖力を吐き出しててなにも感じないのかのー?」
「はい? いや、別になにも? 強いてあげるならすごく苦不味いってことくらい?」
にがにが、と言って妖力を吐き出すその姿を見て、もう呆れてなにも言えなかった。
「一応教えとくのー。この妖力は唯火に向けられた悪意がこり固まったものだのー」
「……えーっと?」
分かっていないような唯火に、さらに詳しく説明をする。
「つまり、みが苦しんでるのはその悪意がみを蝕むからだのー。なんで唯火がなんともないのかは謎だけど、まあなんとなく予想はつくのー」
多分、唯火はこの悪意に慣れているのだろう。今までにずっと悪意を向けられ続けて来た結果、心が悪意に対して耐性を持ったのだ。この程度の悪意、唯火にとって気にする対象ですらないのだ。
「はー、これが悪意ねぇ。なるほど、確かに悪意って美味しそうなイメージじゃないもんな。こんな苦いの食べたいと思わないし」
あまつさえそんなことを言って来やがった。
「はぁ……。理由も話したし、とっとと続きをやるのー」
とにかく今は悠長に話している隙はない。こうしてる間にも唯火の体から妖力の高まりを感じる。またボン、コースに行かれても困るし、再開しようと唯火の手を取った。
「いやいやいや、でも真水は苦しいんだろ? だったらこんなことしなくてもいいって!」
だがそれを止めるように首を振る。。きっと唯火は心の底から心配してくれているのだろう。でも、分かって欲しいのだ。唯火がみを助けると言ってくれたように、みも唯火を救いたいのだと言う事を。
だから、みはこの行為を止めることは出来ない。それがどんなに苦しくても、唯火がみを拒んだとしても。なぜならみは……。
「唯火、忘れてるようだから言っておくけど……」
「へい?」
みは妖。人ではなく、人間の天敵である妖。けど、そんな下らないこと今は捨て去って、
「みは蛇。唯火を狙って、狙って、狙って、ずっと狙い続けるしつこい蛇。みから逃げられるなんて、思うなのー」
「真水……」
ただ、一人の女として。
ジッと唯火を見つめ、みの決意を唯火にぶつける。唯火を助けるという覚悟を、また一緒にあのボロアパートで暮らすのだという覚悟を。
「……はあ、分かりました。わーかーりーまーしーたー! ったくもう、真水は言い出したら聞かないんだもんなぁ」
「あ、唯火……」
やがて根負けしたように力無くうな垂れ、グイッとみを自分の胸に抱き寄せた。そこはとても温かくて、一番安心する場所。みが唯火に求めた、大切な温もり。
「真水がそこまで言うからオーケー出したんだからな? 途中で無理だ~、なんて絶対言うなよ!」
むすっとした表情の唯火はかわいいけど、これは珍しく怒ってるのかもしれない。
「唯火、もしかして怒ってるのー?」
「怒ってねーですよ!」
これは怒ってる。絶対怒ってる。でも、そんな本気で怒っている唯火にみは安堵していた。なぜなら、唯火は今まで本気で怒ったことはなく、怒りという感情がないのかとさえ思っていたくらいなのだ。人らしい一面にホッとして、みは唯火の頭をなでる。そして最上の笑みを見せるのだ。
「唯火、ありがとう」
「……どういたしまして」
そして今度は唯火の方から唇を重ねてくれた。
「ん、んんんんんん!」
放出される妖力を取り込む度にドス黒い悪意がみの体を侵し、犯す。体の隅々まで、それこそ細胞の一つ一つにまで染み込むよう。
「――――っ!」
体を離そうとするみを後ろに回した手でしっかりと固定し、唇を離そうとしない。それは唯火がみのために出来るただ一つのことでもあった。
「んん!」
震える指を唯火の背に回し、離れないようにと掴む。そうでもしなければ、すぐにでも逃げ出してしまいそうになるのだ。
ズルズルと妖力を飲み下し、襲い掛かる悪意から目を反らす。
なぜそんなことを言われなければならないのだろう。なぜ貶されるのかなぜ罵倒されるのか。みにはさっぱり分からない。
なぜ石を投げられるのかなぜ突き飛ばされるのか、みには理解できない。
けれど、一つだけ理解出来たこともあった。唯火は、ずっとずっとこれらの悪意をぶつけられていたのだ。それを考えるだけで、自然と涙がこぼれる。妖であるみだってこんな悪意、まともに受けていたくない。それなのに唯火は弱い人の身で受けて、それでもなお立っている。
「う、むぅ……」
止め処なく流れる涙が頬を伝い、重なる口に入ってしょっぱい。けれど唯火はそんなこと気にせず、ただひたすらにみを抱きしめる。それだけで、みはもう少し頑張れる。
――そう思った瞬間。
「――あむ!?」
急激に質が変わった。今まで飲み下していた悪意とは比べものにならないほどの重量がみを押し潰す。
それは悪意よりももっと重たく、苦しい――殺意。
「う、ぐ! ぷあ、あ、うあぁあああああああ!」
「真水!?」
あまりのことに力を込めて唯火を引き剥がし、絶叫を上げてしまう。
蛇が這いずり回る。みの体内に潜り込み、ジワジワと、ゆっくりと這いずっている。
「ぐ、あ……」
どうやらみは勘違いしていたようだ。さっきまでの悪意、あれはただの触りの部分。唯火が背負う悪意は、ここからが本番なのだ。
「いや、だ、いやだいやだいやだいやぁー!?」
「真水!」
喰われていく。意識が咀嚼され、深い深い闇に堕ちていく。
あ、これはダメだ。意識が完全に呑まれ、悪意に反応して本性が目覚めてしまう。
「――――カァアアア」
「お、おい! しっかりしろって真水!」
喉の奥から異様な音が漏れ、視界が赤く染まっていく。ダラリと開けた口からは血のように赤い舌がチロチロと唯火の顔を舐めている。まるで、味見をするかのように。
「ゆい、か……みから、逃げろ、のー」
「はっ?」
みは眼を血走らせながら必死に感情を押し止める。少しでも気を抜くと、即座に唯火へと襲い掛かってしまうだろう。
今のみは蛇の、妖の本能しか動いていない。目につくものを襲うだけの畜生に成り下がってしまっているのだ。
「悪意に、反応しちまったのー……早くここから、逃げ、て……みが、唯火を……殺す前に……」
「おまえ……バカ真水!」
頭が、痛い。霞む視界に唯火が立ち上がるのが見え、ホッと一安心。これで唯火を殺さずに済む。そう思った瞬間――
「……え?」
赤い視界の中、みはだれかに力強く抱きしめられていた。こんなことする奴は、一人しかいない。
「唯火……? なんで、逃げないのー……」
「黙らっしゃい! さっき言ったろ! 途中で泣き言ほざいてもやめさせないって! いやまあ言ったかどうかはさておき、ここで逃げたら俺もボンなんだぞ! 逃げても逃げなくても一緒だっての! つーかここって逃げ場がナッシング!」
「あ……」
忘れていた。唯火はとんでもないバカで、とんでもないお人よしだったのー。こんな場面でみを置いて逃げられるはずなかったのだ。
でも、みの意識はもう限界。後はきっと、本能だけの蛇が起きるだろう。そうなれば唯火が……いや、違う。本能ごとき、みと唯火のラブラブパワーでどうとでもなるはずだ。うん、なんか本当にそんな気がしてきた! 意識は堕ちるかもしれないけど、この想いさえあれば――。
「ゆい、か……愛してる、のー」
「はん、幼女は対象外だけど、俺もおまえが好きだぜ! 幼女は対象外だけどね!」
「む、なんで二回言う必要があったのー。まあとにかく、後は任せたのー。みを唯火の好きにして、いいのー」
「うん、なんか嬉しいこと言ってくれてんだけどなにを任せるのかな? 気のせいか目が真っ赤だよ!?」
本当に任せたのー、唯火。それから蛇。
唯火の情けない顔を見ながらみの意識は堕ちていった。
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カクリと力を失ったように顔を伏せる真水に、それとなく声をかけて見る。なにやら不穏な事を言っていたが気のせいだと信じたい。
「あー、とりあえず真水さん、いい天気ですね~」
とか言ってもここドーム内だから空なんて見えないけど。
「――――――」
「ハッハッハッ、無言とはぼくちゃんさびし……」
「シャァアアアアアア!!」
「うひぃ!?」
肩に手を置こうとしたら真水さんが大激怒。どうやら馴れ馴れしかったのだろう。やっぱりまずは握手から始めないと。
「シュゥウウウウウウ……」
「あ、警戒してる警戒してる。これ警戒してるね。……って、真水さんこれが本能爆誕ってやつなんですか!? 本能っていうか本当に蛇みたいになってるじゃん!?」
チロチロと長い舌が忙しなく動いている。目はいつだかの恐怖を与えた時より真っ赤だし、口は三日月型に歪んでいる。怖いぞ真水さん。
「これってどうすればいいんだ?」
はあ、と息を吐き出し立ち上がろうとして……なにかが頬を掠めていた。
「シャッ!」
俺は恐る恐る真水へと視線を向け、驚愕した。
「真水、さん?」
目の錯覚だろうか。真水の後ろになにやら赤いものがユラユラと揺れているような……心なしか周りは熱いし、南国にでもいるみたいだ。
「……いやいやいや、南国ってレベルじゃないから! この状況、まさに火事現場だから!」
気づいた時には俺達を中心に炎の壁が出来あがっていた。なんとなく、これをだれがやったのか理解出来る。まあ二人しかいない訳だし、消去法で特定出来るけども。
「あのー、真水様? こちらの火は一体全体……」
「シャ?」
「あ、いえ、なんでもないです。本当っす」
「シャア!」
「く、喰われるぅううううう!!」
突如いきり立って俺に体当たりを喰らわせる真水。ヨロヨロと後ろに倒れ、その上にのしかかって来た。
真水は赤い眼を俺に向け、口元を歪ませながら覗き込むように顔を近づける。なにをしているのだろう、そう考えた瞬間――
「――――」
「――――んぅ!?」
突然唇を塞がれた。
何度目のキスか忘れたけど、今度のキスはやけに情熱的だった。獣のように乱暴に口を合わせ、全てを搾り取るように妖力を吸い出している。本能に呑まれてなお、真水は俺を助けようとしてくれているのだろう。
「――カッ!? シャカァアアアアア!!」
しばらく吸い続けていた真水だったが、急に俺から離れて苦しみ出した。体をくの字に曲げ、赤い瞳から血の涙を流している。それでも真水は止めようとせず、落ち着くとすぐさまキスを再開した。
何と言うか、少し前まで持っていたちゅーの幻想が一気に醒めたね。だってキスってもっとこう、ロマンチックなものだとばかり思ってたのだ。それなのに実際はこんな生き死にのかかるような儀式だったと。まあこれが特別な例なんだろうけど。
「――カヒッ、カヒッ……!」
あれから何度目かのキスの後、真水はヤバめな息遣いで俺に跨がってきた。力が入らないほどに疲れきった体を引きずり、それこそ蛇のように俺の体に這って来る。
まったく、見ていられない。
「なあ、真水。おまえはさ、俺のこと助けようとしてくれてるだろ? その覚悟をさ、なんとかしてやりたいんだよな」
黒く染まった頬をなで、赤い眼をする少女に話かける。そして、俺はコツンと指先に当たったなにかを確認してから体を起こした。
「……だったらそれ、俺が手伝ってやるよ」
「シャ……? キュン!」
体を起こした勢いで胸の上にいた真水をひっくり返し、今度はこっちが逆に押し倒す。手首を押さえ、逃げられないようにしてからハタと気づいた。
なんかこの格好犯罪者っぽくね? と。
今の体勢……苦しそうに顔を歪ませ、涙を流す真水を押さえ付けている。ちなみに必死に体をくねらせてるけど力が入らない様子。やや服がはだけている。
うん、間違いなくお巡りさんコースだ。
「だれにも見られてなくてよかったぁ……。それじゃあ、いきますか」
「シャゥゥウウウウ……」
力無く暴れている赤眼の真水ちゃん。少し胸が痛いが、これも俺の命のためだ。も少し我慢して下さい!
「俺はロリじゃないからな! ってことでちゅー!」
「シャ、ゥウウウウ!」
レッツゴーってな感じで再度口づけをして事前に口内へ入れていたものを真水の口へと渡す。驚いたように一瞬目を見開いたが、すぐに瞳を閉じてされるがままにされている。赤い涙が流れているのがさらに罪悪感を誘うが、今さらな上にお互い合意の上なんだし。いいよね?
「んく?」
しばらくその状態が続いていたのだが、自分の体が変な風になっているのを感じて急いで口を放した。その際、口から口に掛かる黒く輝く橋と一緒にコロリと丸いものが転がり出て来た。それは仙人飴。最初に俺が吐き出して、さっき偶然拾って真水の口に入れたものだ。痛みを抑える効果があるからと試しにやってみたのだが、どうやら成功したらしい。
で、今度の問題は俺である。咳もしなくなったし、黒い液体も吐き出さなくなったんだけど、今度の問題は、
「なんだ、これ?」
ペッ、と喉の奥から出て来たのは黒く輝く石。宝石のようにキラキラと輝いていて、売ったら何日分の食費になるのか楽しみだ。では、なくて。
「色からして……さっきの妖力、か?」
ふむ、と顎に手をやって名探偵のポーズ。色合いからしてそうなんだろうけど、なんとなく違う気がする。
「多分、そうだのー。妖力の塊……いや、核。これが外にでたんならもう一安心だのー」
どうやら当たっていたらしい。
「……って、今の声は?」
聞き覚えのあるような、ありすぎるような声が俺の肩越しから聞こえる。ついでに言うとズッシリとした重さが肩に乗っているのだ。
「えーっと、もしかして……真水さん?」
「もしかしなくてもみだのー、唯火」
その言葉に思わず後ろを振り返る。さっきの真水もかわいかったんだけど、説明幼女の真水さんがいないと話が進まないのだ。
「いやぁ、いきなりでビックリした……って、あの、まだ目が赤いんですけど?」
いつもの無表情に真っ赤な眼を爛々と輝かせており、少しびっくりした。当の本人はまったく気にしてないみたいだけど。
「気にするなのー。妖力が馴染むまではこんな感じだから、のー。それより唯火」
「ん? どうした?」
「蛇がおまえを気に入ったそうだのー」
「はい?」
いやいやいや、真水が俺を好きなのはさっき言われたから知ってるよ? ……ちょっと照れ臭いけど。
「みじゃなくて蛇……まあいいか、のー。人外に好かれるのは唯火の運命みたいなものだし、のー。まあなんにしても」
「そうだな、真水がなに言おうとしてるのかはまったく分からないけど」
俺達は向き合った姿勢のまま柔らかく微笑み、彼女と同じ言葉を口にした。
『お疲れ様』
で、終わればよかったんだけど……。
「あ、そうそう、唯火」
「んあ、どした? 今俺めっさヤバいんですよ、主にあのアメのせいで。死にそうなくらい痛みを感じるのです」
「それはまあとにかくとして、妖力がなくなったことによってこのドームはすぐにでも消えるのー。だから……」
「だから?」
「……足元注意だのー」
「……へ?」
その直後、まるで空を飛んでいるような感覚に見舞われた。もちろんそれは、俺が落下する際の浮遊感によるものなのだが。情けないことに、その瞬間に意識を失ってしまったのであった。
最後にいい落ちが着いたと言う事で。
次回、ついにエピローグです!




