4-20
夢、というのは虚構の現実だ。
あいまいで薄っぺらな偶像。骨格のないアーキテクチャ。
ありえるはずのない未来を、もしくは過ぎ去った過去を、微睡みの中で演出しているに過ぎない。
だから、彼は――ロゼ・ブラッドレイは夢を見ていた。
彼の思い出はいつも、がらがら響く歯車と滴り落ちる水流の音から始まる。
ブラッドレイ家の領地タウィンは海沿いの街だ。『タウィン』という言葉自体が砂浜という意味であり、その周囲は海と、砂丘と、塩性の湿地に囲まれている。
その主要産業は『農業』。要するにまともな特産品はない。
時折、鉱山街の山師たちがリゾート気分でやって来ることを除けば、ここはひどく静かで、素朴で、美しい街だった。
特に、市街地を離れるとその静閑さはより顕著になる。
街のずっと北側では、高山地帯から流れ込んだ雨水がダサニー河という長大な河と水たまりじみた塩水湖を形成しており、その川べりには小麦を製粉するための水車小屋が等間隔に立ち並んでいた。
ここには朝晩と人夫がやって来る以外はほとんど人の寄り付かない場所だ。街には水道が引かれているから、わざわざ水汲みや洗濯に来る人間もいない。
当時、十四歳だったロゼのお気に入りの場所は、ぐるぐると回転する水車の陰だった。
視界に回る歯車を捉えつつ、ほどよく温かい草地に寝転がり、屋敷から持ち出したハードカバーをだらだら読むのが彼の日課だった。
それも大体は正午のあたりで瞼が重くなり始め、草を枕にうとうとした後、つい昼下がりまで寝入ってしまうのが常だ。貴族の子弟らしい、怠惰で贅沢な時間の使い方だった。
――彼がシルヴィア・アクスフォードと出会ったのもそんな折のことだ。
日陰でうたた寝していた彼は、ふいに川のせせらぐ音で目を覚ました。
いや、正確には水の跳ねる音だ。誰かが川の中で沐浴をしているらしい。
思春期まっただ中だった彼は、一抹の期待を抱きながら身を起こした。が、目の前に広がっていた光景は彼の夢想するような楽園とはかけ離れていた。
水車小屋からほど近い川べりで水浴びをしていたのは、小柄な芦毛の馬だった。その脇ではチュニック姿の馬丁らしき少年が、左手で手綱を引き、右手にブラシを持って馬の世話をしている。なんとも牧歌的な風景だ。
と、そこで人の気配に気付いたのか。少年は彼の方を振り向いた。
「あら、こんにちは。驚きました、ここに人がいたなんて」
「……ええと」
彼はしばし言葉を失った。
陽光を浴びて輝く亜麻色の髪。やや鋭角的ながら星の煌めきを宿した眼。
白くすべすべした肌。未発達であどけない顔立ち――
よくよく見ると、目の前の人物は少年ではなかった。十歳くらいの、育ちの良さそうな風采をした少女だ。
「女の子だったのか。それもどこかの使用人、って訳ではなさそうだね。君は?」
「私ですか? 私はシルヴィア。シルヴィア・アクスフォードと申します」
「アクスフォード……?」
アクスフォードといえば、北部ドルゲラウを支配する四侯爵の一角。
ブラッドレイ家にとっては仰ぐべき主家に当たる家柄である。
彼はすぐさま立ち上がると、その場に片膝をついてかしこまった。
「これは失礼しました、お嬢さん。自分はドナルの息子ロゼ・ブラッドレイです」
「あら、タウィン伯の御子息でしたか。どうしてこんなところに?」
「それはこちらの台詞です。侯爵家の令嬢が供も連れず、川で馬の世話を始めるなど聞いたことがありません」
「ええ、おかげでよくメイドに叱り飛ばされています」
シルヴィアは悪びれた様子もなく微笑んだ。
それから彼女は川から上がると、子馬を水車小屋の柱にくくりつけ、にこにこしたまま彼の傍へとやってきた。
「本を読んでいたんですか? 拝見しても?」
「構いませんが、これは大陸の文字で書かれた絵本ですよ。それに女性の喜ぶようなものでは……」
「そんな風にかしこまらないで下さい。所詮、私は十にもなっていない小娘なんですから」
「その割には、はっきり受け答えをしていらっしゃる」
「厳しく躾けられていますからね。でも、いつまでもそこに膝をついていたら怒りますよ。ほら、足を崩して座って下さい。敬語もいりません」
「……分かった」
彼は大人しく頷き、その場にあぐらをかく。
少女はその隣にすとんと腰を下ろすと、横合いから彼の手元を、そこに広げられた本のページを覗きこんだ。
鼻先を漂う日向の香り。眉を寄せる彼の前で、少女はバラ色の唇を開いた。
「歯車や発条、それによく分からない翼や筋肉のようなものが書かれていますね。Ars magicus ingeniaria……? これはどういう意味でしょう」
「『魔導工学』だよ。大陸では既に大きな学問分野として認知されていて、このログレスにも機甲竜騎士を養成するための機関が作られている。これはその魔導工学の初歩について、リリエンタールという人が書いた本の写しさ」
「素敵ですね。ロゼさんは技師になりたいのですか?」
「……いや、それは」
彼は口ごもった。
なにやらひどく居心地が悪い気分だった。彼は魔導工学に興味があるだけで、技師になりたいとまで思っていない。ただ、自分の心の中を詳らかにするのはなんとなく躊躇われた。
「それよりシルヴィア、こんなところにいていいの? 君のお父様は……ブレア様はどこへ行ってしまわれたんだ?」
「お父様はドナルの叔父様のところですよ。私は暇なのでブケファロスちゃんとお散歩してたんです」
「とんだお転婆娘だね。じゃあ、そろそろ散策を終えて屋敷に帰ろうか」
「その前に少しお喋りをしませんか? 先ほどの質問の答えも聞いてませんし」
「……俺は技師になりたいなんて思っちゃいないよ」
「でも、この本は随分と読み込まれているように見えます」
「単なる暇つぶしさ」
「本当に?」
「君はなかなかしつこい女の子だな。まぁ……実のところ、技師になりたいって気持ちはゼロじゃない。どのみち俺は次男坊だから、兄が家督を継いだら家を出なきゃいけないんだ。勿論、兄さんの元で働いたり、軍に入って槍働きで爵位を得るって手もあるけど……」
「それは嫌なのですか?」
「俺は人の上に立つのが苦手なんだ。それに貴族って生き物も好きになれない」
そう言って、彼は深々と息をついた。
まったく、自分はどうして初対面の小娘にこんなことを話しているのだろう。しかも、相手はあのアクスフォード家の令嬢だというのに。
案の定というべきか。シルヴィアは真剣な目で彼の顔を覗き込み、
「ロゼさんは何故、貴族がお嫌いなのですか?」
「嫌いってほどじゃないよ。面倒だと思ってるだけさ。義務や責任ばかり負わされ、いざという時は己の命を賭けて民と領地を守らなくっちゃならない。そんな厄介な仕事、誰が自分から引き受けたがる?」
「けれど必要とされている以上、誰かがこなさなくてはなりません。それに、領主というのは人々を導く立派な御役目です」
「結構なことだ。君はブレア殿と同じ底抜けの善人だな。偽善なんて言葉とは無縁のタイプだ。これからの人生では詐欺師と商人に気をつけるといい」
「……ひょっとして私、バカにされてますか?」
「そうだと言ったら?」
「もちろん怒ります」
シルヴィアは「えいや」と声を上げながら、彼の胸を殴打した。
とはいえ、少女の力ではほとんど相手の体を押しているだけだ。彼は微笑ましい気分のまま、怒っているつもりらしいシルヴィアを見つめた。
「ま、君のような人間が上に立つならこの国もしばらくは安泰さ。ブレア殿なら結婚相手を見誤ることもないだろう」
「まるで自分が無関係のような口ぶりですね」
「そりゃそうだ。事実、無関係だからね」
「そんなことはありません。ロゼさんは例の件についてご存じないのですか?」
「例の件?」
「私の将来の結婚相手についてです」
その一言に、彼はしばし沈黙した。
思えば、アクスフォード侯爵が愛娘を連れてこのタウィンに来るのは初めてだ。
そこにはなにか重要な用件があったに違いない。すなわち、娘と自らの将来に直結するような――
「……そうか。ブレア殿は君を兄さんと結婚させるつもりなんだな」
「違います」
しみじみと呟く彼を、シルヴィアは真っ向から否定した。
「ドナルの叔父様とカラムさんは揃ってあなたを――ロゼさんを私の婚約者に推薦しました。文武に優れ、万に才を発揮し、強い責任感と義侠心を持つというあなたを。父も、それを受け入れました」
「……冗談だろ?」
「いいえ、冗談ではありません。私はただ散歩に出た訳ではないんです。父と叔父様の間で話が決まった後、婚約者の偵察をするつもりでここへ来たんです。あなたがこの水車小屋にいることは、カラムさんが教えて下さいましたから」
なるほど、と彼は心中でうめいた。
どうも自分のいないところで全てが決まってしまったらしい。既に出発の準備は整い、後は馬車が走り出すのを待つばかり。自分が頭を縦に振れば、この縁談はつつがなく纏まるという訳だ。
「という訳でロゼさん」
そこでシルヴィアは誘惑するかのように幼い肢体を彼の膝の上に乗せ、
柔らかな手の平を婚約者の頬に当て、ハシバミ色の瞳でじっとその目を覗きこんだ。
「あなたは――私のお婿さんになってくれますか?」
「……えーと、それは」
彼はしどろもどろになりつつ逃げ道を探した。
が、少女の透き通った目は安易な逃走を許さなかった。沈黙の中、がらがら水車の回転する音だけが響いている。
結局、彼は相手の要求を真っ向から切り捨てることにした。だらだらと冷や汗を流しつつ、全身全霊の勇気を込めてその一言をぶっ放す。
「ごめん。お断りします」
「………………」
シルヴィアはなにも言わず、にっこりと微笑んだ。
が、その微笑みは天使ではなく悪魔の笑みだ。ぞっと背筋を凍らせる彼の前で、ふいにその細腕が閃いた。
どすっ! 響く鈍い音。飛矢の如く放たれた手刀が、狙い違わず彼のみぞおちを抉り抜く。容赦のない急所狙いに、彼は肺の中の空気を残らず吐き戻してしまった。
「ごっほ……!?」
「この軟弱もの。あなたのことなんて知りません。今すぐ鶏に生まれ変わっちゃえばいいのです」
一転して子供っぽい罵倒を吐き散らしたシルヴィアは、ひょいとポニーに飛び乗ると、振り返ることもなく彼の前を後にしてしまった。
――それが、二人の最初の出会いだった。
貴族の流儀を疎んじる彼と、尊き血の責務をなにより重んじる彼女。
二人ははっきり言って水と油の関係だった。それでも表面上、仲の良い付き合いを続けていたのはひとえに親兄弟たちの目があったためだ。
彼はシルヴィアとの婚約を断らなかった。『断れなかった』という方が正しい。
加えて、シルヴィアも彼を遠ざけようとはしなかった。その代わり、彼女は婚約者と顔を合わせる度、高貴なる者の務めの重要性について、聖職者も顔負けの熱心さで語って聞かせた。
五歳も年下の小娘に説教を受けるのは、穏和な性格の彼をしても堪えた。
三年後、彼が王都の竜騎士団養成所に入ったのも、そんな実家の空気に嫌気が差したからだ。
適当に時間を置けば、彼女もこの情けない許嫁を見限るだろう。そんな目論見を抱いていた彼だが、シルヴィアはついぞ婚約を破棄しようとはしなかった。
むしろ物理的に離れたことで、二人の精神的な距離は縮まったように思えた。彼は彼女と過ごす時間を懐かしむようになったし、それは彼女の側も同じだった。
確かに、二人の性質は真逆だった。
だが、それがお互いを嫌う理由にはならなかった。なにせ二人は一度たりとも、相手の生き方を否定しなかったのだ。
彼はシルヴィアの大義を肯定した。彼女はロゼの自由な生き方を尊重した。
恐らくはそこに、自らの内側にはない輝きを見たが故に。
――決して言葉にして確かめた訳ではない。
それでも、二人の心は通じ合っていたのだ。
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やがて。
華やかな夢は終わり、虚ろな現実が始まる。
闇の中から意識が浮上するにつれ、体の感覚が徐々にはっきりしてくる。
途端、ロゼ・ブラッドレイは妙な肌寒さを感じた。
四肢が冷たい。まるで全身の神経が絶たれ、蝋人形になってしまったかのよう。
恐る恐る手指を動かす。きちんと動く。血の通った自分の手だ。問題ない。
ロゼはシーツの上でぎゅっと握り拳を作った。
「目が覚めましたか?」
一瞬、その声に懐かしい少女の影を幻視する。
瞼を開けると、ベッドの傍らには神官服姿の娘が控えていた。
シルヴィアではない。コバルトブルーの瞳をはめ込んだ、人形のような風貌の少女だ。その身に纏った雰囲気はひどくひんやりとしている。
「君は……」
「ルキ・ナート。アウロさんに仕えるルアハの信徒です」
「天聖教の神官が何故ここに?」
「私は治療師です。今は衛生兵として同盟軍に従軍しています」
「……なるほど。どうやら俺は死にそこねたらしいね」
自らの心臓が動き続けているという事実に、ロゼは安堵と失望を半々ずつ覚えた。
ため息をつきながら天井を仰ぐ。うすっぺらな布の屋根。ここは天幕の中らしかった。戦場から離れているのか、周囲は死体安置所のように静かだ。
「ルキさん、だったか? 俺はどれくらい眠っていたんだい?」
「一週間です。あなたは《エクリプス》とともに戦場の外れに墜落しました。一命を取り留めたのは、ぬかるんでいた地面が墜落時の衝撃を吸収したおかげです。それでも、一時は生死の境をさまよっていたのですが」
「そうか。君には感謝しなくちゃならないな。助けてくれてありがとう」
「先ほども言いましたが私は医者です。アウロさんに頼まれ、己の職分を全うしただけに過ぎません。礼なら彼女に言ってあげて下さい」
「……彼女?」
ロゼは身を起こし、ルキの眼差しの先を追った。
果たして、そこには一人の少女の姿があった。地面に膝をつき、ベッドの足元付近に頭を預け、すやすやと寝息を立てている。
亜麻色の髪とあどけない顔立ち。身に付けているものはルキと同じ神官服だが、彼がその顔を――例え忘却の彼方に追いやっていたとしても、見間違えるはずがなかった。
「……シルヴィ」
彼の呼びかけに反応したのか、シルヴィアは「ん……」と睫毛を震わせる。
それを見て、ルキはベッドの傍を離れた。
「彼女はここ一週間、ほとんど睡眠を取ることもなくあなたの看病をし続けていたんです。愛の力――と言うには少々陳腐すぎますが、あなたが一命を取り留めたのは間違いなく彼女のおかげです」
「…………」
「私は一度、アウロさんのところへ報告に戻ります。追ってあなたに対する沙汰も下されることでしょう。今の内に話を終えておいて下さい」
突き放すように告げて、ルキは天幕を後にした。
それと入れ替わる形でシルヴィアは目を覚ます。彼女はしばらくぼうっとしていたが、やがてはロゼの顔を見てぱちぱち瞬きを繰り返し、ばっとシーツの上から身を起こした。
「ロゼさん、意識を取り戻したんですね!」
「ああ……うん。色々と面倒をかけたみたいで、その――」
ロゼはそこで口にすべき台詞に迷った。
すまない、と謝っておくべきだろうか。
それともありがとう、と礼を言うべきだろうか。
そもそも、慣れ合いの台詞を口にしていいものだろうか。自分とシルヴィアは敵同士なのだ。あの空の上でアウロとの決戦に入る前、自分たちは間違いなく決別したはずではないか。
「シルヴィ、俺は――」
「あ、駄目ですよ。そんな風に深刻な顔をしないでください。私、やっぱりロゼさんが生きていてくれて嬉しいんです。思うところはあるでしょうけれど、今はきちんと体を休めて下さい」
と言って、シルヴィアは強引に彼の両肩に手を乗せた。
が、ロゼはあえてその動きを阻んだ。少女の細い腕を掴み、ハシバミ色の瞳をじっと覗き込む。指先にはまるで力が入らなかったが、それでもシルヴィアはぴたりと動きを止めた。
「……すまない、シルヴィ」
「ロゼさん?」
「君は多分、俺の想像のつかないくらい苦しい思いをしたんだろう。その一番辛い時に傍にいてやれなくてすまない。助けることができなくてすまない。君の顔を……君の面影を忘れ去ろうとしてしまってすまない。俺には謝るべきことがたくさんある」
「いえ、そんな――」
「それに俺は意地になって、君の差し伸べた手を振り払ってしまった。君は、俺のことを忘れずにいてくれたっていうのに」
ロゼは頭を下げた。申し訳ないと。確かな謝意を示すために。
その眼前で、ふいにシルヴィアはぽつりと呟いた。
「………………じゃないですか」
今にもかき消えそうな声。
「え?」と尋ね返す青年の前で、少女は俯いたまま、かすかに全身を戦慄かせた。
「忘れられる訳、ない……じゃないですか。あの戦争で父さんもカラムさんも死んでしまって、ハーマンさんたちとも離れ離れになって、一人でとにかくどこかに逃げなくちゃって思って……。すごく、心細かったんですよ。誰かに助けて欲しかったんですよ。そんな時、私は真っ先にロゼさんの顔を思い浮かべました。でも、無理だったんです。あなたのところへ行けばブラッドレイ家に迷惑がかかるのは分かっていましたし、なにより――」
その双眸からぼろぼろと涙をこぼしながら、
シルヴィア・アクスフォードは懺悔するように告げた。
「わ、私はロゼさんに突き放されるのが怖かったんです。あなたと向き合って拒絶されるのが恐ろしかった。だから、一人で逃げました。怖いのも辛いのも飲み込んで。隙を見せる訳には行かなかったんです。アウロさんは私を匿ってくれましたけど、それは私に利用価値があったからに過ぎません。――勿論、アウロさんを恨んでいる訳じゃないですよ。イクティスの人たちはみんな優しかった。ただ……あそこに私の居場所なんて最初からなかったんです」
声を震わせる少女。目元から溢れた雫が、彼の胸の上に滴り落ちる。
ロゼは今まで――兄と袂を分かった時でさえ、父の静止を振り切った時でさえ、
そしてアウロに敗れた時でさえ、自分の選択を誤りとは思わなかった。
だが、その涙で濡れた目を前に、彼は初めて己の間違いを悟った。
……ああ、そうか。
どんな理屈があったにしろ、彼女を一人で放っておくべきではなかったのだ。
そう理解した途端、自分の周りで囁いていたものは全て消失した。
ロゼは衝動的に手を伸ばすと、シルヴィアのちっぽけな体をかき抱いた。
故郷から離れた地でたった一人、本当の味方もなく、恐怖と不安を押し殺して戦い続けてきた、最愛の人の体を。
「っ…………!」
シルヴィアは一瞬、びくりと身を硬直させた。
だが、やがてはその凍りついた体からも緊張が溶け落ちる。
こぼれる吐息。少女は安住の地を見つけたかのように青年の胸の中に収まった。
「ロゼさん。私、嬉しいです。こうしてまたあなたと触れ合うことができて」
「うん……俺もだ。今まで一人ぼっちにしていてすまない。そうだよな。君はまだ十七歳の女の子だっていうのに」
「あ、それは違いますよ。もう年が変わっていますから十八歳です。こんな淑女を捕まえて女の子扱いするなんて、ロゼさんはひどい人ですね」
シルヴィアは子供っぽく膨れると、いつぞやのように青年の胸を小突いた。
それでロゼは自分が完璧に負けてしまったことを理解した。
つまるところ、ロゼ・ブラッドレイはアウロ・ギネヴィウスに倒され、
そして今、シルヴィア・アクスフォードに敗北したのだ。
「シルヴィ、話をしよう。今までなにがあったのか。俺たちはお互いのことを知っておくべきだと思う」
「はい。その後、これからのことについて話し合いましょう」
シルヴィアは涙で濡れた顔で微笑み、
今度は自分から青年の首に腕を回した。
「ごめんなさい、ロゼさん。あなたに辛い選択をさせてしまって。でもお父様やカラムさんも、私たちがこうすることを許してくれると思います」
「……ああ」
ロゼは少女に抱きしめられながらほっと息をついた。
彼自身の問題はまだ何一つ解決していない。
それでも、彼女と一緒なら大抵の障害は乗り越えられるだろう。
一人ではない、というのはそういうことだ。健やかなる時も、病める時も、喜びの時も、悲しみの時も、富める時も、貧しい時も、お互いを助け、慰め、支え合うことができる。
それから、二人は各々の辿ってきた境遇について語り合った。
まるで、今まですれ違ってきた時間を埋めるかのように。
今度はお互い手で新たな物語を描き出すために。
結局、二人はルキが天幕の中に戻ってくるまで、
ベッドの上でひとつの塊のように抱き合っていた。




