4-9
戦いは終わった。
ブリストルに凱旋したアウロたちを待っていたのは、リカルドを筆頭とする同盟諸侯の手荒い歓迎と、その配下である騎士たちの歓呼の叫び。そして、三日三晩に渡る夜を通しての祝勝会だった。
ブリストル侯リカルドは戦士たちの疲れを癒やすため、屋敷の大広間を即席の宴会場とし、贅を尽くした料理を並べ、舶来物のワインとこの地方特産のエール、ケルノウン半島から仕入れた林檎酒を惜しげもなく振る舞った。
多くの人間がタンカードをぶつけ合い、飲めや歌えの大騒ぎをする中、しかし、アウロはほとんど体を休める暇がなかった。
なにしろ、今回の空戦で最も武勲を上げたのはアウロなのだ。
個人撃墜二十一、共同撃墜五。この中には竜騎士団副団長のエドガー・ファーガスの駆る《ブラックアニス》も含まれる。
また三機の骸装機と立て続けに交戦。これを退け、最終的には竜騎士団そのものを撤退に追い込んだという筋書きは、いかにも空に憧れる若者たちの興味を引きそうな物語だった。
おかげでアウロは至るところで好き勝手に褒めそやされ、強引に武勇伝を語らされ、飲みたくもない酒を何杯も飲まされた挙句、年頃の娘との結婚を勧められる羽目になったのである。
これが悪意による行いであれば、アウロもすげなくあしらっただろう。だが、あいにく彼らは全くの好意で――多少はアルコールの魔力に侵された感もあったが――自身に絡んできているのだった。
なお、ありがた迷惑を被っているのはアウロだけではなかった。
全体の指揮を執り、自身も十機の機甲竜騎士を撃墜したルシウス。《エクリプス》と一騎討ちを繰り広げたジェラード。アウロのウィングマンとして激動の空を戦い抜いたアルカーシャ。
彼らの置かれた状況もアウロに似たり寄ったりだった。特にお人好しのルシウスは勧められる酒盃を断りきれず、三杯連続一気飲みをしたところでぶっ倒れ、救護室に控えていたルキの世話になっていた。
アウロたちがどうにか難を逃れることができたのは、宴会三日目の夜。宴もたけなわを過ぎた頃のことだ。
アウロ、ルシウス、ジェラードの三人は折を見て、アルカーシャと共に彼女の別宅へと転がり込んでいた。ここは警備が厳重な上、屋敷自体も鉄柵で囲まれている。避難場所代わりに使うには持ってこいだった。
「……みんな、お酒の匂いがすごいわね」
げんなりした様子で呟いたのは、この邸宅の住人であるクリスティアだ。
彼女は宴会に参加していなかった。初の本格的な空戦によって体調を崩し、自宅で療養していたためだ。
「ごめん、クリス。大勢で押しかけちゃって」
「謝らなくていいわよ。この屋敷の主人はあなたでしょ? それに人が多い方が気晴らしになるわ」
頭を下げるアルカーシャにクリスティアは微笑んだ。
「アルカたちもなにか飲まない? 倉庫にたくさんお酒が残ってるんだけど」
「や、もうアルコールはこりごりだよ」
「じゃあ、紅茶を用意するわね。応接室で待っててちょうだい」
「ありがたい。蜂蜜たっぷりで頼むぜ」
潰れかけのルシウスに肩を貸したジェラードは、疲れ果てた顔で言った。
それから五人は応接室に集まると、暖炉の前のソファに分かれて座り、温かい紅茶と甘草を用いたフルーツケーキをつまみながら、アルコール漬けの脳みそを休めた。
最初はあまりにも羽目を外しすぎている同盟諸子への愚痴。その後は他愛ないおしゃべりを繰り返していたものの、その内に先の空戦へと話題が移る。
「でも、皆さん。よくあの戦いを終えた後で宴会に参加する元気がありますね」
「そりゃ、まぁ。養成所出はやわなお嬢ちゃんたちとは違うからな」
蜂蜜の入った壺に手を伸ばしながら、ジェラードはうそぶいた。
この場に集った面々の中で、もっとも顔色がいいのはジェラードだった。
どうやら、持ち前の要領の良さで厄介事をやり過ごしていたらしい。
が、その外見は少しばかり痛ましい。添え木ごと包帯でぐるぐる巻きにした右腕を、三角巾で首から吊っているのだ。利き手が使えないせいで、ポットから蜂蜜をすくうのにも難儀していた。
「ねぇ、ジェラード。それ痛くないの?」
「痛みはねぇよ。そもそも、腕を固定しちゃいるが骨折してる訳でもないし……おっと、すまんな。スプーン二杯分くらいでいいぞ。ありがとよ」
横から小壺を取り上げ、カップの中へと蜂蜜を流し込むクリスティアに、ジェラードは短く礼を言った。
「その傷、あの《エクリプス》とかいう機体にやられたのよね」
「まぁな。そもそも、クリス。お前だってあの場にいただろ」
「そうだけど、あの時は回りに気をやる余裕がなかったし……ジェラードたちの戦いを見てた訳じゃないわ」
「なら折角だ。お前にも俺の武勇伝を聞かせてやろう!」
「撃墜数ゼロの癖になに言ってるのよ」
辛辣な台詞である。ジェラードは大げさに肩を落としてみせた。
「しゃーないだろ。こっちはロゼを抑えるのに必死だったんだ。あの野郎、人を練習用の藁人形みたくボコボコにしやがって――」
「でも、結局は負けちゃったんでしょ?」
「……いや、まぁ、そうだけどよ。一応は善戦したんだぜ? あのねじ巻きランスはぶっ壊したし、シールドの榴弾も全て撃ち尽くさせたし。――だいたい、撃墜数ゼロなのはお前も同じだろ?」
「え? 私は一機撃墜したわよ。近付いてくる敵を撃ち落としただけだけどね」
「そっすか」とジェラードは呟いた。
アウロは気落ちする友人の肩にぽんと手をやり、
「そう落ち込むな。お前が《エクリプス》を止めてくれたからこそ、俺とルシウスも好き勝手暴れることができた」
「そ、そうだよ。君の功績は他のみんなだって認めてる。そもそも、重要なのはあの決戦に勝つことだったんだ。個人の撃墜数なんて単なる勲章か、自慢話の種に過ぎないだろ?」
と、慌ててフォローを入れるルシウス。
しかし、ジェラードは憂鬱そうに紅茶を傾けると、喉の奥から深々とため息をこぼした。
「撃墜数十の奴と撃墜数二十六の奴に言われてもなぁ……」
「そういう言い方やめなさいよ。人殺しの数を競い合うなんて正気じゃないわ」
「おっと、そいつは違うぜ。戦争ってのは人殺しの数を競い合うものなんだ。気持よく相手をぶっ殺した後は申し訳なさそうに黙祷しといて、家に帰ったら酒飲んでセックスして面倒なことは全部忘れちまう。健康的だろ?」
「あいにく私はそこまで割り切れないの」
「だからベッドで寝込んでるのか? なら、最初から空に――」
ジェラードはそこでふいに顰めっ面のまま押し黙った。
が、やがて小さく首を横に振り、
「……すまん。八つ当たりしそうになった。いま言いかけたことは忘れてくれ」
「忘れてあげる。怪我人をいじめるのは趣味じゃないしね」
「ありがとよ、クリス。お前はいいママになるぜ」
「せめてお嫁さんって言いなさいよ」
と唇を尖らせるクリスティア。
アルカーシャはそんな二人のやり取りを見て、うっすら笑みを浮かべていた。
「二人とも仲がいいな。まるで恋人みたいだ」
「あなたとアウロさんほどじゃないわ。少なくとも、肩を寄せあってイチャイチャしてないもの」
「うえぁっ……そ、それは……」
思わぬ反撃を受け、アルカーシャは頬を真っ赤にしたまま押し黙ってしまった。
そんな親友の狼狽っぷりをよそに、クリスティアはすまし顔で紅茶を傾け、
「ところでジェラード。その腕、骨折じゃないって言ってたけど」
「ああ……お前は帰投した後、すぐにぶっ倒れちまったから知らないのか。これはアウロんとこの治療師に治してもらったんだよ」
「ルキさん、だったかしら? でも、ちょっと大げさな処置じゃない?」
「いや、実は《エクリプス》の吸着爆雷をもろに食らってね。左腕が取れかけちまったんだ」
「……冗談にしては笑えないわね」
「冗談なもんか。これでも大変だったんだぜ? 最初は大した怪我じゃないと思ってたんだが、飛行場に降りた瞬間ぼろっと、こう、アーマーのパーツみたいに腕が取れかけちまってなぁ。血がどばどばでるわ、スーツが上手く脱げないわで危なかったんだ。飛行場にルキの嬢ちゃんがいなけりゃ死んでたかもしれんね」
ジェラードは再接合された腕を撫でながら感慨深そうに語った。
今でこそ笑い話にできるものの、あの時はアウロでさえ血の気を失ってしまったほどの惨状だったのだ。
実際、アウロを出迎えるため飛行場にルキが来ていなければ、ジェラードは大量失血でショック死していたかもしれない。治癒の術自体はカムリも使えるが、あの時はほとんど魔力の残量が空っぽで、死にかけの重傷者を癒す余力などなかった。
「ま、今はちゃんと腕もくっついて元通りになってるよ。ただ、組織が完全に癒着するにはまだ時間がかかるらしくってね。下手に動かさないように、こうして患部を固定してるんだ」
「……そうだったの」
クリスティアは口元を押さえたまま、じっとティーカップに視線を落とした。
琥珀色の湖面の上で、栗色の瞳がゆらゆら揺れている。
「クリス? 顔が青いけど大丈夫か?」
「あんまり大丈夫じゃないかもしれないわね」
顔をのぞき込んでくるアルカーシャの前で、クリスティアはおもむろにソファから立ち上がった。
「ごめん、先に部屋へ戻るわ。血なまぐさい話を聞いてたら気分が悪くなっちゃったみたい」
「おっと、すまない。少し配慮すべきだったな。なんならお姫さまだっこで部屋まで連れてってやろうか?」
「丁重にお断りするわ。けど、肩くらいは貸して貰おうかしら。ジェラードに聞きたいこともあったし」
「……? 愛の告白か?」
「違うわよ。脳みそ発酵してんじゃないの?」
容赦のない毒舌に、ジェラードは首をすくめた。
やがて二人が連れ立って消えると、暖炉の前にはアウロ、ルシウス、アルカーシャの三人だけが取り残された。
クリスティアのティーカップを片づけたアルカーシャは、キッチンから戻るついでに応接間の入り口から二階を見上げた。その唇から「むむむ」と謎に行き当たったトレジャーハンターのようなうなり声がこぼれた。
「分からないな。あの二人ってどういう関係なんだろう」
「ただの幼馴染だろ?」
「その割には仲が良すぎると思わないか? 今日なんかジェラードの奴、えらくハイテンションだったし」
「彼、そこそこ飲んでたみたいだからね。酔っ払ってたんじゃないかな」
「アルコールの勢いだけじゃないさ。ああ見えて、ロゼに負けたのが尾を引いてるんだろう。回りがどう言い繕おうと、こればかりは本人のプライドの問題だ」
アウロは難しい顔で紅茶をすすった。
双方共に生き残ったとはいえ、養成所の同期、元僚友同士の対決はロゼに軍配が上がった。
《エクリプス》がごく軽微な損傷に留まったのに対し、《ブリガディア》は中破状態で工廠行き。搭乗者であるジェラードも瀕死の重傷を負ってしまっている。
「でも、まさかあのロゼが王国側に回るなんて……」
ルシウスもじっと暖炉で弾ける火を睨み、
「何故だろう。ブラッドレイ家の領地が北部にあるからかな」
「それが最大の理由なのは間違いない。『斧の反乱』以降、零落したアクスフォード家に代わって、タウィンの周辺には王国派の諸侯――特に宰相寄りの貴族が大挙として押し寄せてきたはずだ」
「でも、彼も嫌々戦ってる感じじゃなかったよ。正直、ロゼの考えがよく分かんないんだけど」
「俺も似たようなものだよ。養成所時代はともかく、ここ一年はあいつとはまともに話してなかったからな」
なにしろ、ロゼの――ブラッドレイ家の側では長男カラムが出奔したり、主家であるアクスフォード家が反乱を起こしたり、果てには当主であるドナルが心労でぶっ倒れたりと、立て続けにトラブル起きていた。
恐らく、ロゼには発狂したくなるほどの負担が押し寄せたことだろう。領主業に心血を注いだ挙げ句、体調を崩してルキの世話になったアウロとしては、馬車馬の如く働く友人の姿に同情を禁じ得なかった。
「うーん……私も一回だけ会ったことあるけどな。あのロゼって人、アウロたちの友達だったんだろ?」
アルカーシャは再び暖炉の前のソファに腰を降ろすと、
「説得はできないのか? 《エクリプス》が味方になってくれるなら、これ以上心強いことはない」
「……それは、難しいだろうね」
「どうして?」
「さっきも言ったが、あいつの領地であるタウィンはカムロートの北西。この国の北部にある。もしロゼが諸侯同盟に味方したとしたら、あいつの生まれ故郷とそこに住む人々は、王国派の諸侯によって袋叩きにされてしまうだろう」
「そっか」とアルカーシャは睫毛を伏せた。
南部諸侯同盟の本拠はブリストル。そこに属する領主たちも王国南部から中部、東部にかけての者がほとんどだ。
一方、北部、西部の出身者は皆無である。西部の諸侯はアルベンス伯ドルムナットを筆頭に、そのほとんどが宰相寄りだからいいとしても、北部の諸侯の中には反王国的な立場の者も少なくない。アクスフォード家の残党をかくまっているという【氷竜伯】などは顕著な例だ。
「おーう、どうした三人とも。不景気そうなツラで作戦会議か?」
と、そこでジェラードが二階から応接室へと戻ってくる。
「ジェラード、クリスは?」
「寝たよ。まだ体調がよろしくないらしい」
「ずいぶん戻ってくるのが遅かっただけど、なにを話してたんだい?」
「ん? あー、まぁ、大したことじゃないんだが」
クッション付きのスツールに腰を降ろしたジェラードは、すっかり熱を失ってしまった紅茶を一口だけすすった。
「別に艶っぽい話じゃないぜ。ちと、あいつの親父さんについて聞かれてな」
「クリスの……っていうと、カーシェン・ランドルフ?」
「そうそう、あのシニカル童顔おじさんだ。今んところ、カーシェン殿は中立を宣言してる。ただ、ランドルフ家には《髭狩りリトー》があるしな。あの人がこっちの味方に付いてくれれば、だいぶ戦況も楽になるんだが」
「けど、この前の決戦で機甲竜騎士団は半壊したんだ。もう空にはろくな戦力がないはずだろ?」
「そいつは分からんよ。少なくとも、王国側はまだまだ戦争を続けるつもりらしい。傭兵主体の陸軍は手付かずのまま残ってるし、空軍だって竜騎士団抜きでも数はこっちを上回ってるんだ」
「それは……」
「恐らく、王国軍は近いうちに陸と空から同時に攻めてくるだろう。動員可能な最大兵力をまとめて一気に叩きつける。単純だが効果的な作戦だ」
「具体的な敵の数は分かるの?」
「そうだな。モンマス攻略の時でさえ、王国側は一万二千の兵を用意したんだ。腰を据えて徴兵を行えば、その三倍――三万五千前後ってところじゃないか?」
「……こっちの兵力は?」
「せいぜい七千。多めに見積もって八千ってところかな」
ルシウスは険しい表情で呟いた。「戦力比は一対五、か」
「前回の空戦じゃ相手との戦力比はおよそ一対二だった。それでも、勝つのはギリギリだったっていうのに」
「三次元に展開する空の戦いと、遮蔽物のある陸の戦いはまた別さ。とはいえ、絶望的な戦力差ってのには変わらない。だからこそ親父もカーシェン殿を始め、あちこちに掛け合って兵を集めてるんだが……」
「結果は芳しくない、と?」
「まぁな。実のところ前回の空戦以降、新王と距離を取る貴族は増えてるんだ。だが、こちらの味方に回ってくれる連中が少ない」
「マルゴンには愛想を尽かしたが、かといって王国に敵対するほどの気概はない、ということか」
「半分はそうだ。が、もう半分は地理的な問題だ」
「つまり――」
「ロゼと同じ理屈だよ。周りが王国派の貴族ばかりだから、下手に決起できないんだ。せめて北部や西部にまとまった反王国勢力がありゃあいいんだが、西はギョロ目のドルムナットやデュバン・サミュエルを始め、宰相派貴族の力が強い。そして北は……」
「侯爵家だったアクスフォードが潰れて以降、各地で混乱が続いている。諸侯のまとめ役になれる貴族がいない」
「その通り」とジェラードも相槌を打つ。
アウロは口元に手を当て、考え込んだ。
いや――正確には考え込むふりを見せた。
アウロは先日の空戦が終わってからすぐ、通信機を使って自らの領地と連絡を取っていた。そして、つい今日の夕方。目当ての人物がこちらに到着したという報告を受けていたのだ。
「すまない。少し話が脱線するんだが」
アウロはそう前置きしてから言葉を続けた。
「お前たちはシルヴィア・アクスフォードと面識があるのか?」
「シルヴィ? なんで、突然そんなこと――」
「念のためなんだ。教えて欲しい」
じっと見つめられ、アルカーシャは口をもごもごさせつつも答えた。
「その、シルヴィとはもちろん、何度も会ったことあるよ。歳だって近いしね。友達って言ってもいいと思う」
「僕も二、三回顔を合わせたことがある。印象的な子だったからよく覚えてるよ」
「俺は、そうだな。この中じゃ一番シルヴィア嬢と話した回数が多いかもしれんぜ。あの娘はロゼとよく一緒にいたからな」
と三者三様の回答が並ぶ。
その方向性はおおむね一致していた。アウロの期待通りに。
「分かった。三人ともここで待っていてくれ。紹介したい人間がいるんだ」
「え? ちょ、ちょっと、アウロ!」
慌てて呼び止めてくるアルカーシャを無視し、アウロは屋敷の外へ出た。
扉を開く。寒々しい外気が屋内に流れ込んでくる。玄関前は無人だ。
しかし、一拍遅れて開かれた扉の影からひょいと二人の人物が姿を見せた。どちらも若い娘だ。天聖教の神官が着る法衣を身につけている。
「こんばんは、アウロさん」
「どうもお久しぶりです」
無表情で挨拶を述べるルキ。
その隣には、白いフードを被ったシルヴィア・アクスフォードの姿があった。
「すまないな。この寒い中、外で待たせて。表の番兵に怪しまれなかったか?」
「どうでしょう。不審に思われたかもしれませんが、シルヴィアさんの正体には気付かれていないはずです」
「きっと大丈夫ですよ。わざわざ変装までしてきたんですから」
そう言って、シルヴィアは自分の格好を見下ろした。
彼女が神官に扮しているのは自らの素性を隠すためだった。
フード付きの法衣を着てルキと一緒にいれば、誰しもが彼女を修道女だと思うだろう。実際、その試みは上手くいったようだ。
水先案内人の役割を終えたルキは「では」と一歩引き下がり、
「アウロさん、私は救護室に戻ります。向こうには私の助けを待つ患者さんが死屍累々を成していますので」
「ほう。ところで彼らの症状は?」
「泥酔、二日酔い、急性アルコール中毒です」
「お前は仕える神をバッカスに鞍替えした方が良さそうだな」
「たまに本気でそう思います。目の前で嘔吐された時はタナトスを崇め奉りたくなりましたが」
ルキは死んだ魚のような目で言った。
ちなみにバッカスは酒神。タナトスは死神である。彼女は彼女でなかなかハードな環境下に置かれているらしい。
「ルキ、無理をして連中の面倒を見る必要はないんだぞ。元々、お前はブランドル家の人間という訳でもないのだし」
「けれど、私が司教カシルドラの娘ということは知れ渡っています。人々の信頼を得るためには地道な努力が必要なのです」
「それはそうかもしれんが」
「今は私よりもアウロさんご自身と、シルヴィアさんのことを心配してあげて下さい。……いいですね?」
「分かったよ」
アウロが降参すると、ルキは小さく首肯し、その場から身を翻した。
残された二人は少女の背を見送った後で屋敷の中へと入った。
玄関にはルシウス、アルカーシャ、ジェラードの三人が顔を並べていた。どうやらここでアウロを待ち構えていたらしい。
「えっと、アウロ。そっちの女の子は……」
尋ねたのはルシウスだ。
その眼前で、シルヴィアはおもむろに被っていたフードを取り払った。
さらり、とまろびでる亜麻色の毛先。逃亡の際に短く切られた髪はここ一年弱で伸び、背中にかかるくらいのロングヘアとなっている。
令嬢は優雅に微笑み、一礼した。
「こんばんは。お久しぶりです、みなさん」
「んがっ……!?」
途端、がくんと顎を落としたのはジェラードだ。
次いで、ルシウスとアルカーシャが幽霊に出会ったかのように後ずさった。
「ま、まさかとは思ったけど」
「シルヴィア……? ほ、本物か?」
「なんですかその反応は」
流石に気を悪くしたのか。シルヴィアは三白眼を据わらせた。
「紛うことなき本物。ブレアの娘シルヴィア・アクスフォードですよ」
「で、でも、どうしてシルヴィがここに……」
「それはこれからご説明します。が、とりあえず暖炉の前に移動しませんか? 外にいたものですからすっかり体が冷えてしまって」
少女の提案に、三人は困惑顔を見合わせた。




